アンリ・クイユ
From Wikipedia, the free encyclopedia
1884年3月31日、コレーズ県ヌヴィック(英語版)で生まれた[1]。コレーズ県チュールのリセ(英語版)で教育を受けた後、パリ大学医学部に進学、1908年に卒業した[1]。卒業後、ヌヴィックで開業医になり、1912年にヌヴィック市長、1913年にコレーズ県議会議員、1914年(英語版)にコレーズ県から代議院議員に選出された[1]。1914年から1918年までの第一次世界大戦でははじめ第84歩兵連隊の軍医、次いで東部戦線の野戦病院の軍医になり、戦後に政治活動を再開した[1]。
1920年1月から1921年1月まで(第1次・第2次アレクサンドル・ミルラン内閣、ジョルジュ・レイグ内閣)農業省政務次官を務めた[1]。これを皮切りに第三共和政(1940年まで)の多くの内閣で閣僚を務め、通算で19回入閣した(うち13回は農業大臣)[1]。農業省政務次官を退任した後、1924年6月から1925年4月まで(第1次エドゥアール・エリオ内閣)農業大臣を務め、1926年7月から1928年11月まで(第4次レイモン・ポアンカレ内閣)再び農業大臣を務めた[1]。1930年2月から3月までの第1次カミーユ・ショータン内閣でも農業大臣を務め、1930年12月から1931年1月までのテオドール・ステーグ内閣では公衆衛生大臣を務めた[1]。1932年6月から12月まで(第3次エリオ内閣)郵政・電報・電話大臣(フランス語版)を務めた後、ジョゼフ・ポール=ボンクール内閣の成立とともに農業大臣に転じ、第1次エドゥアール・ダラディエ内閣、第1次アルベール・サロー内閣、第2次ショータン内閣、第2次ダラディエ内閣、第2次ガストン・ドゥメルグ内閣で続投して1934年11月まで務めた[1]。ピエール=エティエンヌ・フランダン内閣の成立とともに公衆衛生・体育大臣に転じ、1935年6月まで務めた[1]。その後、1937年6月から1938年3月まで(第3次・第4次ショータン内閣)公共事業大臣(英語版)を、1938年4月から1940年3月まで(第3次・第4次・第5次ダラディエ内閣)農業大臣を、1940年3月から6月まで(ポール・レノー内閣)補給大臣(Ministre du Ravitaillement)を務めた[1]。
クイユは左翼に属し、1924年の選挙(英語版)ではカルテル・デ・ゴーシュ(英語版)(左翼連盟)候補として再選したが、穏健派であり、社会主義、共産主義政党から批判されることもあった[1]。議会では首相に同調することが多い一方、政争から距離を置き、1930年代に人民戦線が政権を握ったときにはダラディエとともに人民戦線のレオン・ブルムに協力した[1]。そのため、クイユは議会での名声が高く、広く尊敬された[1]。ショータン内閣で公共事業大臣を務めたとき、フランス鉄道網の経営が議論され、1938年にフランス国有鉄道を設立することに成功した[1]。
1935年12月に元老院議員に選出され、1939年に再選した[1]。
第二次世界大戦中にヴィシー政権が成立すると、1940年7月10日にヴィシーで開催された議会でペタンに全権を委任する法律(1940年7月10日の憲法的法律)の採決に棄権した[1]。その後、ロンドンに逃亡して、1943年にシャルル・ド・ゴールからフランス国民解放委員会(英語版)での官職を得て、臨時諮問議会(英語版)の議員にもなった[2]。
1945年10月の制憲議会選挙(英語版)に出馬したものの、この時期は第三共和政の政治家への信用が失墜しており、しかもクイユが1875年の憲法的法律の維持を支持したため、落選した[2]。1946年10月27日憲法を「モンスター」(monstre)と批判しつつも、病気療養を経て1946年11月の国民議会選挙(英語版)に出馬し、今度は当選した[2]。議会では院内会派groupe radical-socialisteの副会長を務め、1947年1月に会長のエリオが国民議会議長に選出されると会長に昇格した[2]。
1948年7月のアンドレ・マリー内閣でministre d'Étatを務めた後、1948年9月から1949年10月まで閣僚評議会議長(首相)を務めた[2]。1949年10月から1950年7月まで(第2次・第3次ジョルジュ・ビドー内閣)副首相を務めた後、1950年7月2日から12日まで短期間首相を再任、1951年3月から8月まで第3次内閣を組閣した[2]。この1948年から1951年までの時期には経済・財務大臣や内務大臣も歴任している[2]。第3次内閣期の1951年5月に「クイユ法」と呼ばれる得票結合計算法(フランス語版)が可決され、国政選挙の投票制度が改革された[2]。クイユ法により、政党名簿の縁組み(得票の結合計算)が許可され、単独名簿または縁組み名簿の得票が過半数のときはその名簿が選挙区の全議席を獲得する[2]。これは急進党や社会党、人民共和派(英語版)といった第四共和政を支持する政党に有利な改革であり、共産党とド・ゴール派を締め出すことを目的とした[2]。
1951年の選挙(英語版)で再選した後、クイユは首相を退任したが、1952年3月から1954年6月まで副首相を務めた[2]。その後は平議員に戻り、1956年の選挙(英語版)では得票数を落とすも再選を果たしている[2]。
1958年6月にド・ゴールの首相就任に賛成票を投じたが、ド・ゴールとクイユの政見はかなり異なり、クイユはそれ以降国政から身を引いた[2]。1970年6月15日、パリで死去した[2]。
出典
外部リンク
| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代 ジョゼフ・カピュ(英語版) |
農業大臣 1924年 – 1925年 |
次代 ジャン・デュラン(英語版) |
| 先代 フランソワ・ビネー(英語版) |
農業大臣 1926年 – 1928年 |
次代 ジャン・エネシ(英語版) |
| 先代 フランソワ・ビネー(英語版) |
農業大臣 1930年 |
次代 フェルナン・ダヴィッド(英語版) |
| 先代 デジレ・フェリー(英語版) |
公衆衛生大臣 1930年 – 1931年 |
次代 カミーユ・ブレゾ(英語版) |
| 先代 ルイ・ロラン(英語版) |
郵政・電報・電話大臣(フランス語版) 1932年 |
次代 ローラン・エナック(英語版) |
| 先代 アベル・キャルディ(英語版) |
農業大臣 1932年 – 1934年 |
次代 エミール・カッセ(フランス語版) |
| 先代 ルイ・マラン(英語版) |
公衆衛生・体育大臣 1934年 – 1935年 |
次代 エルネスト・ラフォン(英語版) |
| 先代 アルベール・ベドゥース(英語版) |
公共事業大臣(英語版) 1937年 – 1938年 |
次代 ジュール・モック |
| 先代 ジョルジュ・モネ(英語版) |
農業大臣 1938年 – 1940年 |
次代 ポール・テリエ(英語版) |
| 先代 クリスチャン・ピノー(英語版) |
公共事業・交通大臣(英語版) 1948年 |
次代 クリスチャン・ピノー(英語版) |
| 先代 ロベール・シューマン |
閣僚評議会議長(首相) 1948年 – 1949年 |
次代 ジョルジュ・ビドー |
| 先代 クリスチャン・ピノー(英語版) |
経済・財務大臣 1948年 – 1949年 |
次代 モーリス・ペッチェ(フランス語版) |
| 先代 ジュール・モック |
内務大臣 1950年 – 1951年 |
次代 シャルル・ブリュヌ(英語版) |
| 先代 ジョルジュ・ビドー |
閣僚評議会議長(首相) 1950年 |
次代 ルネ・プレヴァン |
| 先代 ルネ・プレヴァン |
閣僚評議会議長(首相) 1951年 |
次代 ルネ・プレヴァン |
