ピエール=エティエンヌ・フランダン
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ピエール=エティエンヌ・フランダン(Pierre-Etienne Flandin、1889年4月12日 – 1958年6月13日)は、フランス第三共和政からヴィシー政権にかけての政治家。商業・工業大臣(英語版)、財務大臣、外務大臣を歴任、第三共和政期に一度組閣した[1]。
商業・工業大臣在任中、世界恐慌の煽りを受けてアメリカ自動車の値段が下がったため、自動車の関税を大幅に引き上げる法案を提出した[1]。1934年から1935年まで首相を務め、ストレーザ戦線を結成したが、利下げを提唱して閣内不一致を招き、退陣した[1]。1936年に外務大臣を務めたときは仏ソ相互援助条約(英語版)の批准を進めたが、条約を口実に実行されたラインラント進駐には対応できなかった[1]。ヴィシー政権期にピエール・ラヴァルの後任として副首相に指名されたが、連合国からも枢軸国からも連合国寄りと判断され、ドイツからの圧力によりわずか56日で解任された[1]。そのため、1946年の反逆罪裁判で有罪判決を受けつつも5年間の市民権剝奪(執行猶予つき)という最低限の刑罰となった[1][2]。

政治家エティエンヌ・フランダン(英語版)の息子として、1889年4月12日にパリで生まれた[1]。パリ大学法学部と自由政治科学学院で学んだ後、政界に入り、アレクサンドル・ミルランの私設秘書を務めた[1]。
1914年フランス代議院選挙(英語版)でヨンヌ県2区から出馬して、代議院議員に当選した[1]。しかし同年のうちに第一次世界大戦が勃発、1912年にパイロットの免許を取得していたフランダンは1914年のイゼール川の戦い(英語版)に参戦した[1]。戦中に陸軍の航空政策に関わり、戦後に軍事航空隊の支出が予算を圧迫すると批判し、民間航空に振り分け、航空産業を成長させることで国防にも貢献できると説いた[1]。1919年の選挙(英語版)でヨンヌ県の国民ブロック候補として再選、1920年の第1次・第2次ミルラン内閣で航空・空輸政務次官に就任した[1]。1920年から1921年までのジョルジュ・レイグ内閣にも留任して、民間航空事業を推進したが、1921年1月にレイグ内閣が倒れると平議員に戻った[1]。1924年6月に短期間で就任・退陣したフレデリック・フランソワ=マルサル内閣では商業・工業・郵政・電報大臣(英語版)を務めた[1]。
1922年に民主共和社会党(英語版)の指導者の1人になり、1924年の選挙(英語版)で民主共和社会党の候補として再選した[1]。1926年にカルテル・ド・ゴーシュ(英語版)(左翼連合)内閣が倒れてレイモン・ポアンカレが組閣すると、女性参政権法案を提出して代議院で可決させたが、元老院では激しく批判され、廃案に追い込まれた[1]。
1928年の選挙(英語版)で再選した後、1928年と1929年の2度にわたって代議院副議長に選出され、1929年11月の第1次アンドレ・タルデュー内閣に商業・工業大臣(英語版)として入閣した[1]。その後、1930年2月から3月にかけての第1次カミーユ・ショータン内閣、1930年12月から1931年1月にかけてのテオドール・ステーグ内閣に入閣しなかった以外は次期総選挙までの歴代内閣の閣僚を務めた[1]。具体的には1930年3月から12月までの第2次タルデュー内閣で商業・工業大臣、1931年1月から1932年2月までの第1次・第2次・第3次ピエール・ラヴァル内閣と1932年2月から6月までの第3次タルデュー内閣で財務大臣を務めた[1]。この時期、フランスでは世界恐慌の影響が感じられるようになった時期であり、アメリカ合衆国のデフレーションにより自動車の値段が下がったため、フランダンは自動車の関税を大幅に引き上げる法案を提出した[1]。1931年6月にフーヴァーモラトリアムが発表され、その対応に追われた[1]。予算案も赤字に転落した[1]。
不況の中で行われた1932年の選挙(英語版)は与党の敗北に終わったが(フランダン自身は再選)、1934年2月6日の危機とともに第2次エドゥアール・ダラディエ内閣が倒れると、ガストン・ドゥメルグが復帰して第2次内閣を組閣、フランダンは公共事業大臣(英語版)に就任した[1]。ドゥメルグが辞任すると、大統領アルベール・ルブランはフランダンに組閣を要請、フランダンは1934年11月から1935年5月まで閣僚評議会議長(首相)を務めた[1]。それまでの首相と違い、フランダンは任所を持たなかった[1]。
フランダンが首相を務めた時期、内政では経済が不安定であり、外交ではフランスが孤立していた[1]。そのため、フランダンと外相ラヴァルはイギリスとイタリアとの連携を重視して、ストレーザ戦線を結成した[1]。また、ナチス・ドイツがヴェルサイユ条約に違反して空軍を設立、徴兵制を再実施したため、その対処として兵役を6か月延長させた[1]。経済政策では利下げを試みようとしたが、より保守的な蔵相ルイ・ジェルマン=マルタン(英語版)には反対され、長年平価切り下げ(英語版)を主張していたポール・レノーには不十分であると批判された[1]。閣内不一致を抱えたフランダンは採決にも敗れ、内閣が総辞職することとなった[1]。
首相辞任から1週間後、フェルナン・ブイッソン内閣が早くも倒れたためラヴァルが第4次内閣を組閣、フランダンはministre d'Étatを務めた[1]。1936年1月から6月までの第2次アルベール・サロー内閣では外務大臣を務めた[1]。このとき、ナチス・ドイツが野心を隠さなくなり、イタリアも第二次エチオピア戦争を起こしたため、フランダンは危険を察知して仏ソ相互援助条約(英語版)の批准を進めた[1]。自身の反共主義を押し殺しての行動であり、代議院では右翼から批判され、極左を含む左翼から賞賛されるという通常と逆転した情勢になったが、最終的には条約の批准が可決された[1]。フランダンは条約がロカルノ条約に違反しないと判断し、ソビエト連邦とナチス・ドイツを天秤にかけようとしなかったが、ドイツは条約を口実にラインラント進駐を実行、フランダンは国際連盟に働きかけてドイツを批判させた以外は行動を起こさなかった[1]。
1936年の選挙(英語版)でフランス人民戦線が勝利したことで、フランダンは野党に回り、レオン・ブルムの経済、財政政策を財政赤字とフランス・フランの下落を招いたと批判した[1]。人民戦線が崩壊した後、1938年のミュンヘン協定に代表される宥和政策を支持しつつも入閣はしなかった[1]。
第二次世界大戦中にヴィシー政権が成立すると、1940年7月10日にヴィシーで開催された議会でペタンに全権を委任する法律(1940年7月10日の憲法的法律)に賛成票を投じた[1]。1940年12月にラヴァルが副首相を解任されると、フィリップ・ペタンにより副首相および外務大臣に任命された[1]。連合国も枢軸国も1930年代のフランダンの行動をみて、フランダンが連合国寄りであると判断し、ドイツはペタンに圧力をかけてフランダンを解任させた[1]。これによりフランダンの任期はわずか56日間で終わったが、実際にはフランダンが対独協力を支持していた[1]。
1942年10月、フランダンは連合国によるアルジェリア上陸を予想してフランス領アルジェリアに向かったが、1943年12月に国民解放委員会(英語版)により対敵協力の容疑で逮捕され、アルジェリア、次いでフレーヌ監獄(英語版)に勾留された[1]。1946年1月にいったん釈放されたが、ヴィシー政権で官職に就いたため同年7月に再び裁判にかけられた[1]。もっとも、裁判ではウィンストン・チャーチルの息子ランドルフ・チャーチル(英語版)がフランダンに有利な証言をしたこともあり、5年間の市民権剝奪(執行猶予つき)という最低限の刑罰となった[1][2]。
戦後、民主同盟(民主共和社会党が1926年に改称)を復活させ、アントワーヌ・ピネーを支持した[1]。1952年の元老院選挙に出馬して落選した後、政界を引退し、1958年6月13日にサン=ジャン=カップ=フェラで死去した[1]。
出典
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- 1 2 「ピエール・エチエンヌフランダン」『20世紀西洋人名事典』。https://kotobank.jp/word/%E3%81%B4%E3%81%88%E3%83%BC%E3%82%8B%E3%81%88%E3%81%A1%E3%81%88%E3%82%93%E3%81%AC%E3%81%B5%E3%82%89%E3%82%93%E3%81%A0%E3%82%93。コトバンクより2025年12月12日閲覧。
外部リンク
| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代 ルイ・ルシュール(英語版) |
商業・工業・郵政・電報大臣(英語版) 1924年 |
次代 ウジェーヌ・レイナルディ(英語版)(商業・工業大臣) ピエール・ロベール(フランス語版)(郵政・電話大臣) |
| 先代 ジョルジュ・ボヌフ(英語版) |
商業・工業大臣(英語版) 1929年 – 1930年 |
次代 ジョルジュ・ボヌ(英語版) |
| 先代 ジョルジュ・ボヌ(英語版) |
商業・工業大臣(英語版) 1930年 |
次代 ルイ・ルシュール(英語版) |
| 先代 ルイ・ジェルマン=マルタン(英語版) |
財務大臣 1931年 – 1932年 |
次代 ルイ・ジェルマン=マルタン(英語版) |
| 先代 ジョゼフ・パガノン(英語版) |
公共事業大臣(英語版) 1934年 |
次代 アンリ・ロワ(英語版) |
| 先代 ガストン・ドゥメルグ |
閣僚評議会議長(首相) 1934年 – 1935年 |
次代 フェルナン・ブイッソン |
| 先代 ピエール・ラヴァル |
外務大臣 1936年 |
次代 イヴォン・デルボス(英語版) |
| 先代 ピエール・ラヴァル |
閣僚評議会副議長(副首相) 1940年 – 1941年 |
次代 フランソワ・ダルラン |
| 先代 ピエール・ラヴァル |
外務大臣 1940年 – 1941年 |
次代 フランソワ・ダルラン |