イワン・ハシェック
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サンテティエンヌ監督時代(2006年) | ||||||
| 名前 | ||||||
| ラテン文字 | Ivan Hašek | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 |
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| 生年月日 | 1963年9月6日(62歳) | |||||
| 出身地 | ミェステツ・クラーロヴェー | |||||
| 身長 | 176cm | |||||
| 選手情報 | ||||||
| ポジション | DF / MF / FW | |||||
| 利き足 | 右足 | |||||
| ユース | ||||||
| 1970-1977 |
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| 1977-1981 |
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| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
| 1981-1990 |
| 221 | (58) | |||
| 1990-1994 |
| 74 | (27) | |||
| 1994-1995 |
| 55 | (30) | |||
| 1996 |
| 28 | (12) | |||
| 1996-1998 |
| 18 | (5) | |||
| 通算 | 396 | (132) | ||||
| 代表歴2 | ||||||
| 1984-1993 |
| 54 | (5) | |||
| 1994 |
| 1 | (0) | |||
| 監督歴 | ||||||
| 1998-1999 |
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| 1999-2001 |
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| 2001-2003 |
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| 2004 |
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| 2005 |
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| 2006-2007 |
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| 2007-2009 |
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| 2009 |
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| 2011 |
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| 2012 |
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| 2014 |
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| 2014-2016 |
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| 2016-2017 |
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| 2018-2019 |
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| 2021-2022 |
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| 2024- |
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1. 国内リーグ戦に限る。2020年6月22日現在。 2. 2006年11月16日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj | ||||||
イワン・ハシェック(Ivan Hašek, 1963年9月6日 - )は、チェコスロバキア(現チェコ)・中央ボヘミア州ミェステツ・クラーロヴェー出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。元チェコスロバキア代表及びチェコ代表。現役時代のポジションは主にMF(セントラルミッドフィールダー)。
チェコ語により近い表記はイヴァン・ハシェク(チェコ語発音: [ˈɪvan ˈhaʃɛk])。チェコやフランスでの現役時代は主にセントラルミッドフィールダーとしてプレーした。一方代表ではリベロからFWまでGK以外ならどこでもこなせるユーティリティープレイヤーとして起用され、イタリアW杯では攻撃的な右サイドバックとして起用された[1]。一方、JリーグではFWを担当[2]。ポストプレーがうまく空中戦にも長け、高い得点能力を持つ選手として知られている[3]。2009年から2年間、チェコサッカー協会会長を務めた[4]。
クラブ経歴
1970年から地元のクラブチームであるZOMニンブルクでユース年代を過ごし、1977年にACスパルタ・プラハへ移籍[5]。1981-82シーズンにリーグ戦デビューし長く主力として活躍、1987年から2年連続でチェコスロバキア年間最優秀選手に輝く。
1990年、フランス・リーグ・ドゥのRCストラスブールへ移籍し主力として活躍[5]、クラブのリーグ・アン昇格に貢献し、英雄として扱われた[1]。ストラスブール退団後も地元では暫く「ハシェックのチームであるストラスブール」と呼ばれていたほどである。
1994年、Jリーグ・サンフレッチェ広島へ入団[5]。高木琢也と2トップや攻撃的MFとして[1]、パベル・チェルニー、盧廷潤ら攻撃陣と活躍し、デビューから2戦目のガンバ大阪戦で初ゴールをマーク[1]、1994年5月18日サントリーステージ17節・ヴェルディ川崎戦でチーム初のハットトリックを決め[6]、首位を争っていた第19節の清水エスパルスとの直接対決では高木琢也の2ゴールをアシストして勝利に貢献するなど[7]、同年のファーストステージ制覇に大きく貢献した。この年に挙げたシーズン19得点は、2012年に佐藤寿人が更新するまでクラブのJ1シーズン最多得点記録であった。1995年4月12日の第8節・名古屋グランパス戦でもハットトリックを達成した[6]。同年はハウストラ、ファンルーン、盧と4人の外国人が在籍していたため、外国人枠の関係でビム・ヤンセン監督によりメンバー外とされることもあった。
1996年からはジェフユナイテッド市原に移籍し[5]、12得点を記録。その後は古巣のスパルタ・プラハへ戻り、1997年に現役を引退した。現役時代のキャリアにおいて、スパルタでは7度の優勝に貢献した。
2023年9月16日のJ1、第27節サンフレッチェ広島対ヴィッセル神戸戦にゲストとして来場、ミニトークショーを行った[8]。
代表経歴
1983年にU-20チェコスロバキア代表としてワールドユース・メキシコ大会に出場、1984年にはA代表に初招集。1990年、イタリアW杯では主将を務め、右サイドバックとしてプレー[1]、5試合1得点、W杯ベスト8に貢献した。右サイドバックながら非常に攻撃参加が多く、ヘディングシュート数は大会全出場選手の中で最多であった。ビロード離婚後の1994年にはチェコ代表としても招集されている。
指導者歴
引退翌年の1998年にスパルタでスポーツディレクターを務めると、ヨゼフ・ホヴァネツ監督の下でチェコ代表のアシスタントコーチに就任。その後はいずれも選手時代に在籍したスパルタやストラスブールで監督を歴任した[5]。
2004年、三木谷浩史をオーナーに迎えたヴィッセル神戸の監督に就任するものの[5]、成績不振により1シーズン持たずして解任される[9]。
2005年にはチェコサッカー協会会長に立候補するものの敗れている。同年から1シーズンのみUAEリーグのアル・ワスルFCで監督を務めた[5]。
2006年4月末、古巣である広島からオファーが届き本人も承諾する意向であった。しかし再び離れて暮らすことに家族が反対し、監督就任とはならなかった[10]。
2006-07シーズンは、リーグアン・ASサンテティエンヌで監督を務める[5]。2007年12月からUAEリーグのアル・アハリに招聘され再びUAEで指揮を執る[5]。2008-09シーズンにリーグ優勝を達成するが退任することを表明した。
2009年6月、再びチェコサッカー協会会長に立候補すると会長に選出された。翌月からは暫定で監督を務めていたフランティシェック・ストラカの後を受け、チェコ代表の監督も兼任した。カレル・ブリュックナーがアドバイザーを務め、2010 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選の残り3試合を指揮するも[11]、本大会出場には届かなかった。この期間、会長としては協会の財政改善に貢献する[5]。2011年の年次総会で代表監督に専念するため辞任することを表明した[5]。
2011年6月からアル・アハリ監督に復帰した[5]。翌2011-12シーズン、リーグ開始から3試合で1勝2敗と出遅れたことに加え、同年11月3日に行われたガルフ・クラブ・チャンピオンズカップ決勝第2戦で敗戦し準優勝に終わった責任を問われ解任された[12][13]。
2012年1月、サウジ・プロフェッショナルリーグのアル・ヒラル監督に就任した[14]。
2014年7月、カタールSCの監督に就任することが発表された[15]。
2016年12月29日、エミレーツ・クラブとシーズンいっぱいまでの契約を締結した[16]。2018年6月20日、フジャイラーSCの指揮官に再任される。ディエゴ・マラドーナの後任として1年契約を締結した[17]。
人物
個人成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| チェコスロバキア | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
| 1981-82 | スパルタ・プラハ | 1部 | 14 | 1 | |||||||
| 1982-83 | 24 | 3 | |||||||||
| 1983-84 | 28 | 3 | |||||||||
| 1984-85 | 20 | 3 | |||||||||
| 1985-86 | 22 | 6 | |||||||||
| 1986-87 | 30 | 10 | |||||||||
| 1987-88 | 30 | 4 | |||||||||
| 1988-89 | 26 | 13 | |||||||||
| 1989-90 | 27 | 15 | |||||||||
| フランス | リーグ戦 | F・リーグ杯 | フランス杯 | 期間通算 | |||||||
| 1990-91 | ストラスブール | 2部 | 29 | 10 | |||||||
| 1991-92 | 28 | 10 | |||||||||
| 1992-93 | 1部 | 12 | 3 | ||||||||
| 1993-94 | 15 | 4 | |||||||||
| 日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1994 | 広島 | - | J | 32 | 19 | 1 | 0 | 3 | 1 | 36 | 20 |
| 1995 | 23 | 11 | - | 0 | 0 | 23 | 11 | ||||
| 1996 | 市原 | 28 | 12 | 14 | 6 | 1 | 0 | 43 | 18 | ||
| チェコ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
| 1996-97 | スパルタ・プラハ | 1部 | 14 | 3 | |||||||
| 1997-98 | 4 | 2 | |||||||||
| 通算 | チェコスロバキア | 1部 | 225 | 58 | |||||||
| フランス | リーグ・アン | 27 | 7 | ||||||||
| フランス | リーグ・ドゥ | 47 | 20 | ||||||||
| 日本 | J | 83 | 42 | 15 | 6 | 4 | 1 | 102 | 49 | ||
| チェコ | 1部 | 18 | 5 | ||||||||
| 総通算 | 400 | 132 | |||||||||
その他の公式戦
- 1994年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
代表歴
試合数
- 国際Aマッチ 58試合 6得点(1984年-1994年)[20]
| チェコスロバキア代表 | 国際Aマッチ | |
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 1984 | 1 | 0 |
| 1985 | 7 | 0 |
| 1986 | 8 | 0 |
| 1987 | 7 | 1 |
| 1988 | 10 | 2 |
| 1989 | 8 | 0 |
| 1990 | 11 | 1 |
| 1991 | 2 | 1 |
| 1992 | 0 | 0 |
| 1993 | 3 | 1 |
| 通算 | 57 | 6 |
| チェコ代表 | 国際Aマッチ | |
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 1994 | 1 | 0 |
| 通算 | 1 | 0 |
タイトル
現役時代
- スパルタ・プラハ
- チェスコスロヴェンスカー・フォトバロヴァー・リガ : 1983-84, 1984-85, 1986-87, 1987-88, 1988-89
- チェスコスロヴェンスキー・ポハール : 1983-84, 1987-88, 1988-89
指導者時代
- スパルタ・プラハ
- ガンブリヌス・リガ : 1999-00, 2000-01
- アル・アハリ
- エティサラート・プロリーグ : 2008-09
- UAEスーパーカップ: 2009
- アル・ヒラル
- クラウンプリンスカップ : 2011-12
個人
- チェコスロバキア年間最優秀選手 : 1987, 1988[21]