エマニュエル・ル・ロワ・ラデュリ

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死没 (2023-11-22) 2023年11月22日(94歳没)
フランスの旗 フランス
カルヴァドス県レ・ムーティエ=アン=サングレ
エマニュエル・ル・ロワ・ラデュリ
Emmanuel Le Roy Ladurie
2014年
人物情報
生誕 (1929-07-19) 1929年7月19日
フランスの旗 フランス
カルヴァドス県レ・ムーティエ=アン=サングレ
死没 (2023-11-22) 2023年11月22日(94歳没)
フランスの旗 フランス
カルヴァドス県レ・ムーティエ=アン=サングレ
国籍 フランスの旗 フランス
出身校 高等師範学校
パリ大学文学部 (博士)
学問
学派 アナール学派
研究分野 歴史学
研究機関 社会科学高等研究院
コレージュ・ド・フランス
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エマニュエル・ル・ロワ・ラデュリ: Emmanuel Le Roy Ladurie, フランス語発音: [emanɥɛl bɛʁnaʁ lə ʁwa ladyʁi]1929年7月19日 - 2023年11月22日)は、現代フランス歴史家アナール派第3世代の代表的な歴史学者のひとりである[1]

出生から修学期

1929年、北フランスバス=ノルマンディー地域圏オルヌ県のコミューンドンフロンDomfront)で生まれた。リセの名門校であるパリアンリ4世校Lycée Henri-IV)を卒業後、パリ高等師範学校に進んで歴史学を学んだ。

戦争と共産主義

ル・ロワ・ラデュリーは1945年から1956年までフランス共産党党員だった。敬虔なカトリック教徒の両親は息子が司祭になることを期待していたため、息子が共産主義者で無神論者になったことに憤慨した[2]

当時のフランスでは、1930年代の大恐慌と1940年のドイツへの敗北により、多くの人々が資本主義と自由民主主義の両方に失望していた。ドイツ占領下のレジスタンス運動においてフランス共産党が果たした指導的役割、伝統的なエリート層によるヴィシー政権の支持、ソ連の計画経済と「科学的社会主義」が達成した明らかな成功により、ル・ロワ・ラデュリは、フランスの同世代の多くの人々と同様に、共産主義に希望を託した[3]。共産党は、ドイツが1941年から1944年の間に75,000人のフランス共産主義者を射殺したことから、自らを「75,000発の党」を称したが、実際の犠牲数は10,000人であった。共産党は抵抗運動における役割により、1940年代のフランスで名声を得た[4]

ドイツ占領はフランスにとって衝撃的な経験であった。第一次世界大戦でレイモン・ポアンカレが左翼と右翼を共通の敵であるドイツに対抗して団結させた神聖連合とは異なり、第二次世界大戦でフランスは内戦を経験することになった。レジスタンスはドイツ兵だけでなく、ヴィシー政権の警察、憲兵民兵組織ミリス(民兵団)とも戦った。ミリスは、ファシスト、ギャング、様々な冒険者の集合体であり、抵抗者はミリスのメンバーを暗殺するなど、フランスの都市や町で暴力行為が蔓延した。ル・ロワ・ラデュリーは、自らの世代を傷だらけの世代と表現し、「戦争中は若者にとって危険な時代でした。暴力にさらされれば、今度は自分たちも他者に暴力を振るうようになります。ソドミーを受けた人がまた他者にソドミーをするように。」と述べている[2]。こうした時代のなか、ル・ロワ・ラデュリーは、共産主義者になったと回想している[2]

ハンガリーの作家アーサー・ケストラーの、スターリンによる大粛清モスクワ裁判をモデルにした小説『真昼の暗黒』(1940年)のフランス語訳が1949年に出版された際、ラドゥリーはこの小説を、ケストラーが意図した非難ではなく、スターリン主義の偉大さを確認するものと見なした[3]。この小説は、ボルシェビキのルバショフが、無実の罪で逮捕され起訴されたが、みせしめ裁判で自白したことを描いている。主人公ルバショフのモデルは、モスクワ裁判で処刑されたニコライ・ブハーリンであった。ル・ロワ・ラデュリーは1949年のエッセイで「ルバショフは、すべての可能な体制の中で最も優れた体制がいつか確立されるように、命と革命的名誉を犠牲にしたのは正しかった」と評した[3]。現実は、ブハーリンはNKVDによって数か月の拷問の後、心を壊され、精神崩壊の状態にまで追い込まれ、どんな事でも「告白」できるような状態になっていたことが後にわかっている。ル・ロワ・ラデュリーもその後、『真昼の暗黒』のメッセージを誤解していたことを認めた。1950年代初頭の冷戦の最盛期の共産党内の雰囲気は「厳しい典礼」のようだったと証言している[5]

共産主義からの離脱

1956年にハンガリー革命が起きると、ソ連の暴力とそれを支持する共産党に耐えられず、ル・ロワ・ラデュリーは脱党した。ル・ロワ・ラデュリーは後に、1956年にソ連の戦車が、基本的人権を要求していたハンガリーの一般民衆を粉砕する光景を目撃したことで、ソ連が人類の最大の希望であるという固定観念が壊れ、代わりにソ連のような共産主義国家は民衆を抑圧する非人道的な全体主義的イデオロギーに基づいているという結論に至ったと述べている[5]

ル・ロワ・ラデュリーはフランス社会党に加入し、1957年にモンペリエで社会主義候補として立候補し、得票率2.5%を獲得した[2]。しかし、ル・ロワ・ラデュリーは社会党にも失望し、1963年に社会主義者であることを辞めた[2]

歴史学研究者として

1955年、南フランスのモンペリエ大学に赴任し、近世および近代フランス史の研究にたずさわった。1973年にはコレージュ・ド・フランスに迎えられ、その教授となった。フランス学士院の会員に選出された。日本との関係では、1983年11月に初来日した。

自由ヨーロッパ知識人委員会の創設

1978年1月、ル・ロワ・ラデュリーは社会学者レイモン・アロンや哲学者ジャン=フランソワ・ルヴェル、劇作家ウジェーヌ・イヨネスコ、俳優・演出家ジャン=ルイ・バロー、ジャン=マリー・ブノワ、社会学者レイモン・ブードン、映画監督のロベール・ブレッソンアベル・ガンス、作家フィリップ・ソレルス哲学者ジュリア・クリステヴァ、哲学者コスタス・パパイオアヌとともにComité des intellectuels pour l'Europe des libertés (自由ヨーロッパ知識人委員会)の創設メンバーとなった[6]。この組織は、共産主義がフランスの知的生活に与える強大な影響力と、社会主義者と共産主義者の同盟がフランスの民主主義への脅威であると見なしたリベラル自由民主主義を支持する知識人からなるグループであった[7]。自由ヨーロッパ知識人委員会は、自由主義的な観点から、共産主義における知識の絶対視と全体主義イデオロギーに反対すると宣言し、「致命的な社会主義と国家主義」がフランス共和主義の終焉をもたらすことになると非難した[8]。また、委員会はその権限をフランスや西ヨーロッパに限定せず、東ヨーロッパを含むヨーロッパ全域で、「ヨーロッパと文化と自由」を守ると宣言した[9]

全体主義批判と開放性

その後もル・ロワ・ラデュリーは、全体主義の誘惑に抵抗する著作を発表していった。2001年のアニー・クリーゲル協会主催のシンポジウム記録・編著『大いなる政治裁判:集団の教育』(2002年)[10]で、ヨーロッパの宗教的または政治的権力は、公開裁判という模範的あるいは壮観な形式を用いて、反対者に烙印を押し、自らの権威を押し付けてきたとし、こうした裁判は正義の実現というよりも、観客の役割を強いられた聴衆を集団的な教育へと変貌を遂げてきたことを、ソビエトや東欧共産主義国家での見せしめ裁判をはじめとして、中世の異端審問ジャン=バティスト・カリエの1794年のナントの溺死刑(共和国の結婚)、国際刑事裁判所の問題、大戦中ユダヤ人を脱出させたが戦後、ナチスの協力者として告発し殺されたルドルフ・カストナー裁判などを分析した[10]

『開放性、社会、権力:ナントの勅令から共産主義の崩壊まで』(2005年)[11]でル・ロワ・ラデュリーは、16世紀のトマス・プラッター、18世紀の作家であり旅行家であったロベール・シャール、教皇制度の改革と近代化を行なったベネディクトゥス14世ルイ18世、レジスタンス運動家ジャン・モネアニー・クリーゲルオーギュスト・ルクールといった元共産主義者などの、制約を超え、外へ出ていった人々を、プロテスタントを弾圧したアンリ2世サンクルー法令で議会を解散し、出版の自由を停止したシャルル10世、スターリンおよびソ連に追随し、ハンガリー弾圧をも支持したフランス共産党のモーリス・トレーズジャン・カナパといった非寛容的な人々と対比させ、寛容の精神、異なる視点や少数派の視点の受容、そして「開放性」の歴史を探究した[11]

2023年11月22日に死去。94歳没[12][13]

著作

脚注

関連項目

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