グラットバッハ
From Wikipedia, the free encyclopedia
| 紋章 | 地図 (郡の位置) |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 連邦州: | バイエルン州 |
| 行政管区: | ウンターフランケン行政管区 |
| 郡: | アシャッフェンブルク |
| 緯度経度: | 北緯50度00分31秒 東経09度09分04秒 / 北緯50.00861度 東経9.15111度座標: 北緯50度00分31秒 東経09度09分04秒 / 北緯50.00861度 東経9.15111度 |
| 標高: | 海抜 182 m |
| 面積: | 3.53 km2 |
| 人口: |
3,186人(2024年12月31日現在) [1] |
| 人口密度: | 903 人/km2 |
| 郵便番号: | 63864 |
| 市外局番: | 06021 |
| ナンバープレート: | AB, ALZ |
| 自治体コード: |
09 6 71 120 |
| 行政庁舎の住所: | Schulstraße 17 63864 Glattbach |
| ウェブサイト: | www.glattbach.de |
| 首長: | クルト・バイアー (Kurt Baier) |
| 郡内の位置 | |
| 地図 | |
![]() | |
グラットバッハ(ドイツ語: Glattbach)は、ドイツ連邦共和国バイエルン州ウンターフランケン行政管区のアシャッフェンブルク郡に属す町村(以下、本項では便宜上「町」と記述する)である。
位置

グラットバッハの町は、アシャッフェンブルクの北、シュペッサルト山地西端のグラットバッハ川の谷に位置している。
自治体の構成
グラットバッハは2つの地区で構成されている[2]。
- グラットバッハ
- ラウエンタール
隣接する市町村
グラットバッハは、北はヨハネスベルク、東はゴルトバッハ(ともにアシャッフェンブルク郡)、南から西にかけてはアシャッフェンブルクと境を接している。
地名
歴史
閉ざされた谷という立地条件のために、グラットバッハ(12世紀には Gladebach あるいは Gladbach とも呼ばれた)を通過する交通路はなかった。それにもかかわらず、アシャッフェンブルクに近く、古い軍事道路で交易路でもあったゲルンホイザー街道がグラットバッハの西をかすめてヨハネスベルクへ上っていっており、この村でも貧困や戦争を逃れることはできなかった。三十年戦争後、33家族のうち生き延びたのは10人、20軒の家屋が完全に破壊され、住民は何度も兵士から逃げ回った。1743年には、イングランド軍が6月18日から26日まで毎日略奪行為を働き、全住民が11日間シュペッサルトの森に隠れた。
戦争の結果、恐ろしい伝染病が流行した。ペストが最も猖獗を極めた1606年と1636年をハウプト通りの「ペスト石」と呼ばれる2体のビルトシュトック(路傍のキリスト像)が今日も語りつないでいる。ひどい貧困の中で住民たちは、病がなくなったならば永遠に祝日と懺悔と祈りの日を護ることを誓った。大天使ミカエルの日(9月29日)の前の金曜日「ヘルファイアーターク」には、竈に火をくべることが禁止され、人も動物も厳格に絶食を守り、すべての仕事を休みにした。この誓いは第一次世界大戦まで堅く守られた。
1862年7月1日、ベツィルクスアムト・アシャッフェンブルクが設けられ、グラットバッハはその管轄下におかれた。1939年にはドイツ国全土で「郡」の名称が採用された。グラットバッハは、旧アシャッフェンブルク郡を構成する33の自治体の一つとなった。この郡は、1972年7月1日にアルツェナウ・イン・ウンターフランケン郡と合併し、新たなアシャッフェンブルク郡が創設された。
第二次世界大戦でこの村は、1944年から1945年に爆撃に苦しめられた。これにより、14人が死亡し、100棟以上の建物が全半壊した。その中には幼稚園や体育館も含まれた。戦後は、活発な建設工事と多くの人口流入により再建が進んだ。グラットバッハは、3,800人近い人口を擁するベッドタウンとなった。都市部の近くにありながら、田舎風の魅力的な立地がこれを助長した。住民の多くは、主にアシャッフェンブルクに勤める通勤者である。
町村合併
1976年7月1日に、当時約10人の住民が住んでいたヨハネスベルクのラウエンタール集落がグラットバッハに合併した[4]。
行政
議会
グラットバッハの議会は 17人の議員と町長で構成されている[5]。
紋章
図柄: 金地に青い斜め波帯。上部には双頭の白いコウノトリが描かれた黒い盾。下部には赤い糸が巻き付けられ黒く縁取られた銀の糸巻きが3つ描かれている。
紋章の歴史: 町の名前「グラットバッハ」の一部である –bach(小川)が、紋章では青い斜め波帯で示されている。双頭のコウノトリは、ヴァーゼン貴族家の紋章から採られた。この貴族家は、1387年から1528年までこの町の町域内に農場を構えていた。3つの糸巻きは、アシャッフェンブルク衣料産業の始まりを表している。グラットバッハ生まれのヨハン・デッシュ(1848年 – 1920年)が規格化された型で裁断された布を使った、賃金労働者による紳士服のライン生産を始めた。この紋章は、1980年から使われている[6]。
姉妹自治体
文化と見所
建築物
グラットバッハは、12世紀にはアシャッフェンブルクの聖アガータ教会の支部組織として記述されている。教会堂については、17世紀になるまで何の記録もない。1682年に聖ニコラウスを讃える礼拝堂が建設され、有名な説教師で著述家でもあったカプチン会の司祭マルティン・フォン・コッヒェムによって献堂された。この村には当時 100人から 200人が住んでいた。礼拝堂は墓地や学校とともに、現在教会が建っている場所にあった。礼拝堂は長らく存続せず、1727年にはすでに同じ場所に新しい教会マグダレーネン小教会が建設された。この教会は、4ヶ月という驚くほど短期間で建設された。1890年に在郷助任司祭館が建設され、1922年12月14日に司祭館に昇格した。グラットバッハでは10人の聖職者が在郷助任司祭を務めた。初代司祭となったヴァイバースブルンのクリスティアン・ベンツは、1948年12月20日に事故でなくなるまで25年間この職を務めた。マグダレーネン小教会は1899年に取り壊された。現在のネオゴシック様式の教区教会聖マリア被昇天教会の建設が始まり、1901年8月15日に献堂された。当時、この教区には約 700人のカトリック信者がいた。
芸術と文化
画家アロイス・ベルクマン=フランケンによってグラットバッハから芸術的なインパクトが発せられた。この芸術家には都会性と牧歌性が共存している。エミール・ロースとエリーザベト・ロース夫妻や町の歴史を描いた町役場の絵画シリーズの作家ヨアヒム・シュミットも同様の作風を持つ。
この間、多くのグラットバッハの芸術家が現れた。一部の作品はグラットバッハ町役場のギャラリーに 1年間展示され、芸術家村グラットバッハの括弧とした構成要素となった。
この町は、時代とともに、クリッペ博物館、旧シュヴェステルンハウスの芸術展示スペース、ネオゴシック様式のマリエン教区教会周囲のベギャラリーによって、見学客が好んで訪れる活力ある文化的中心地に発展した。
クリスマスの時期には、クリッペ博物館は無料開放される。ここには、80カ国以上の約 450のクリッペ(聖書のシーンを表したジオラマ)が展示されている。
