サミットシリーズ
アイスホッケーの国際大会シリーズ
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サミットシリーズ (英語: Summit Series) は、1972年9月に国際ルールの下で行われたソビエト連邦とカナダによるアイスホッケーの8連戦シリーズである。
| スーパーシリーズ72、カナダーソ連シリーズ | |
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ロシアのシリーズ記念切手 | |
| 競技 | アイスホッケー |
|---|---|
| 大会形式 | 8試合の直接対決 |
| 主催 | ホッケーカナダ、NHL、NHLPA |
| 会場 |
モントリオール・フォーラム メープルリーフ・ガーデンズ ウィニペグ・アリーナ パシフィック・コロシアム ルジニキ・アイスパレス |
| 開催国 | カナダ、ソビエト連邦 |
| 開催地 | モントリオール、トロント、ウィニペグ、バンクーバー、モスクワ |
| 開催期間 | 1972年9月2日 - 28日 |
| 参加数 | 2 |
| 参加チーム |
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当時最強の代表チームと謳われたソ連代表チームと、ナショナルホッケーリーグ(NHL)のプロ選手で構成されたカナダ代表チームとの間で初めて行われたこの対抗戦は、冷戦の最盛期に行われたこともあり、単なるアイスホッケーの試合の枠を超えた歴史的なイベントとして、特にカナダにおいては国の団結と誇りとアイデンティティを呼び起こし決定付けた重要な大会として記憶されている。
背景
このシリーズは、オリンピックにアマチュアのみが参加できていた時代に行われた。オリンピック経験のあるソ連の選手たちは厳密にはアマチュアであるが、母国ではフルタイムでホッケーをプレーするエリート選手であり、中にはオリンピック出場資格を維持するために、中央赤軍ホッケーチーム (CSKA) のように他の名目上の職業に就きながらフルタイムでプレーする者もいた。一方でこのアマチュアの地位のために、カナダ国内最高のNHL選手のオリンピック出場資格はなかった。公平性を欠くと認識していたカナダは、1969年以降世界選手権と冬季オリンピックへの出場を止めており、NHLのスター選手たちが国のホッケーの支配力を完全に証明できると信じていた。ソ連は厳格に訓練された規律あるチームに自信を持ち、世界最高のプロ選手たちと技術を試すことに意欲的だった。両チームのエキシビションゲームが冷戦の緊張緩和につながる可能性も指摘され、こうして、1972年のサミットシリーズは誕生した。
NHL選手会のアラン・イーグルソンはティームカナダの支援を約束し、コーチ兼ゼネラルマネージャーのハリー・シンデンによって、1972年7月12日に35人のロースターが発表され、保険対象の範囲にあるNHL選手のみが選ばれた。カナダは8月のソ連滞在で前夜に飲みすぎたままプレーをしていたゴールテンダーのウラディスラフ・トレチャクを弱点と考えていた。ジャック・プラントはトレチャクを気の毒に思い、最初の試合の前に通訳を伴ってソ連の更衣室に行き、トレチャクにカナダ選手のシュート傾向について説明したと伝えられた。
シリーズ
第1戦
第1戦は9月2日にモントリオールで行われ、カナダのピエール・トルドー首相がセレモニアルパックを落とした。カナダのフィル・エスポジトが開始30秒で得点した。カナダが開始6分で2点のリードを奪うと、カナダの観客も評論家もシリーズ前の予想が正しかったと感じたが、ソ連は第1ピリオド終了前に同点に追いついた。後半にワレリー・ハルラモフが2得点を挙げ、ソ連が2点リードに広げた。カナダはボビー・クラークが得点し1点差に追い詰めたが、ソ連は第3ピリオドにさらに3点を奪い、衝撃的な7-3の勝利を手にした。カナダの選手たちは後に、ソ連の優れた体力と規律ある粘り強いプレースタイルについてコメントし、序盤は圧倒的に好調だが、試合終盤には体力不足で衰えていくカナダというシリーズの一般的な特徴が表れた試合となった。カナダは夏のオフシーズンでシーズン直前のトレーニングキャンプに頼って体調を整えていたため準備不足は明らかで、フォーラムの氷上には霧がかかるほど気温も上昇していた。
第2戦
第2戦はトロントで行われた。カナダは前回の敗北を受けて、この試合でケン・ドライデンからトニー・エスポジトにゴールテンダーが変更された。第3ピリオド2-1の状況で、ピート・マホブリッチが1対1でソ連ディフェンダーをかわし、続いてトレチャクをかわしてショートハンドゴールを決めた。リードを守り切ったカナダチームは4-1で勝利し、シリーズをタイに戻した。
第3戦
第3戦は9月6日にウィニペグで開催された。カナダは3-1、4-2とリードしていたが、ソ連側が反撃し、試合は4-4の引き分けに終わった。
第4戦
カナダはバンクーバーでの第4戦で5-3で敗れ、15,570人の観客は試合終了時にチームにブーイングを浴びせた。ティームカナダの圧倒的なシリーズ制覇が期待される中での否定的な世論やメディアの反応に応え、リーダーのフィル・エスポジトはカナダの国営テレビで感情的な発言をした。
「カナダ中の皆さん、私たちは頑張り、全力を尽くしました。そしてブーイングをする人たちへ、本当に、私たち全員が本当に落胆し、幻滅し、一部の人に失望しています。自分たちの建物で受けた悪い報道やブーイングが信じられません。ロシア人が選手やファンをブーイングしたら...ロシア人は選手たちをブーイングする...カナダのファンの中には—全員とは言いませんが、何人かは私たちにブーイングを浴びせました。その後、私は戻ってきてカナダ人一人ひとりに謝罪しますが、彼らは謝らないと思います。本当に、本当に...本当にがっかりしています。完全にがっかりしています。信じられない。仲間たちの中には本当に落ち込んでいる人もいるのは分かってる、必死に頑張っています。つまり、私たちは最善を尽くしているし、彼らには良いチームがある。現実を受け入れましょう。しかし、それは私たちが150%の力を注いでいないという意味ではありません。確かにそうしています。 つまり、私たち全員がティームカナダの35人であって、私たちは国を愛しているからこそプレーしているのです。他の理由ではありません。年金基金のお金を窓の外に投げ捨てればいい。窓の外に何でも投げ捨てることができます。私たちはカナダが好きだから来ました。アメリカでプレーし、アメリカで稼いでいるけれど、カナダはやはり私たちの故郷であり、それが私たちが来る唯一の理由です。ブーイングされるのは不公平だと思う。」
カナダでは大きな混乱が起こり、カナダはホッケー界での支配力の終わりを考え始めた。
スウェーデン戦
2週間の休止期間中、より広いヨーロッパの氷面と審判員に慣れるために、カナダは9月16日と17日にスウェーデンのストックホルムでスウェーデン代表と2試合のエキシビションゲームを行った。カナダが第1戦を4-1で勝利し、第2戦は4-4の引き分けに終わった。第2試合では両チームの激しい乱闘があり、ウェイン・キャッシュマンはシリーズの残りを欠場した。最初のエキシビションゲームで、カナダは西ドイツのレフェリー、ヨーゼフ・コンパッラとフランツ・バーダーを紹介し、この2人はシリーズ第6戦と第8戦で重要な役割を果たすことになる。
カナダチームは荒々しいプレーでスウェーデンから激しく批判されたが、これらの試合はカナダをチームとしてまとめる助けとなった。
第5戦
カナダ代表はモスクワでの最後の4試合のためにソ連に遠征し、3,000人のカナダファンが同行した。カナダ代表のヴィック・ハドフィールド、リック・マーティン、ジョスリン・ゲブルモンは様々な理由でチームを離れ、全員が帰国した。9月22日の第5戦でカナダは4-1とリードしたが、最終的に5-4で敗れ、ソ連の2勝リードを許した。カナダの苦戦に加え、ジルベール・ペローはバッファロー・セイバーズのトレーニングキャンプに専念するためティームカナダを離れた。
第6戦
第6戦はカナダが3-2で勝利した。試合前、カナダ側はソ連がカナダから送られてきたステーキとビールを空港で意図的に押収したと信じて腹を立てていた。試合後には、西ドイツのレフェリーが偏っていると不満を述べた。カナダは試合中に31分のペナルティを受けたのに対し、ソ連はわずか4分だった。この試合はシリーズ全体で最も物議を醸したプレーが起こり、第2ピリオドでクラークがハルラモフの足首をスティックで骨折させた。数年後、カナダ代表のアシスタントコーチであったジョン・ファーガソンは、「クラークをベンチに呼び、ハルラモフを見て『足首を軽く叩く必要があると思う』と言った」と語ったと伝えられている。ソ連最高のフォワードの1人であるハルラモフは試合の残りはプレーしたものの第7戦は欠場し、第8戦でも精彩を欠いた。
第7戦
カナダは第7戦を4-3で勝利し、ポール・ヘンダーソンが第3ピリオド終盤に個人の力強いプレーで決勝ゴールを決めたが、試合では物議を醸す行為も繰り返された。第3ピリオドにカナダのゲイリー・バーグマンとロシアのボリス・ミハイロフの間で小競り合いが起こり、ミハイロフはスケート靴でバーグマンを2回蹴った。
第8戦
両チームは3勝3敗1分の成績で最終戦に臨んだ。カナダでは国全体がほとんど休止し、多くの人が職場や学校で観戦していた。カナダチームは序盤にいくつか疑問のあるペナルティを科せられた。これはカナダにとって驚くことではなく、レフェリーは第6戦で偏ったと非難されたヨーゼフ・コンパッラだったが、もう1人はチェコスロバキアのレフェリーを選んでいた。J.P.パリゼに対する微妙な判定で試合は中断され、緊張が高まった。パリゼはコンパッラにスティックを振りかざし、試合退場のペナルティを科せられ、コーチのシンデンは椅子を氷上に投げ入れた。
第1ピリオド終了時点でスコアは2-2だったが、ソ連が第2ピリオド終了時に5-3とリードを奪った。カナダにとって状況は厳しいもので、第2インターミッション中、ゴーリーのケン・ドライデンは「もしこの試合に負けたら、カナダで最も嫌われる男になる」と思い始めた。
しかしカナダは第3ピリオドに勢いよく攻め、フィル・エスポジトとイヴァン・クルノワイエが得点して同点に追いついた。クルノワイエのゴールの後、カナダベンチの向かいに座っていたアラン・イーグルソンがゴールライトが点灯していなかったためソ連が何か企んでいると観客席で騒ぎを起こした。ソ連警察に押さえつけられている間、カナダの選手たちが向かい、ピート・マホブリッチは実際にボードを越えてスティックで警察に立ち向かった。イーグルソンは解放され、コーチたちによって氷上を横切ってベンチまで護送された。彼はソ連の群衆に怒りの拳を突きつけた。
その時点でスコアは5-5の同点、シリーズは3-3-1の同点だったが、ソ連代表団の一員はカナダに対し、スコアとシリーズが同点のままなら、得失点差でソ連が勝利すると伝えた。
試合終了間際、フィル・エスポジト、クルノワイエ、ピート・マホブリッチが氷上にいる中、ポール・ヘンダーソンがベンチから氷上のマホブリッチを呼び戻し自ら氷上に降りた。そして試合時間残り34秒で、ヘンダーソンはソ連のゴールテンダーであるトレチャクの背後でリバウンドをゴールネットに押し込み、カナダスポーツ史上最も有名な瞬間の一つを生み出した。「氷に飛び乗って、まっすぐ彼らのゴールに向かって突進した。勝ち越しゴールを決められるという奇妙な感覚があった。」と後にヘンダーソンは振り返っている。この決勝ゴールはカメラマンのフランク・レノンによって映像に収められ、この写真はカナダで最も有名な写真の一つとなった。カナダは勝利を守り切りシリーズを制した。
「カナダチームは追い詰められた獣のような激しさで戦った。彼らは自分たちのホッケーの優位性を信じていたが、それは完全に正しくはありませんでした。私たちの選手たちはカナダのプロ選手よりも体力的にも技術的にも優れていましが、私たちは心と願望において彼らに匹敵することはできなかった。」とソ連ホッケーの重鎮であるアナトリー・タラソフは語った。
このカナダにとっての記憶に残る瞬間は、ソ連では公正な勝利とは見なされなかった。多くのソ連市民は、クラークがハルラモフを不能にしなければ、またアナトリー・フィルソフとヴィタリー・ダヴィドフがコーチの交代に抗議してシリーズを欠場しなければ、自国が勝利していただろうと信じていた。これに対し、カナダは当時の最高選手であったボビー・オアとボビー・ハルがそれぞれ怪我とWHA選手であったことが理由で欠場したことがあり、両チームとも最高の才能が氷上に欠けていた。
ソ連との8試合とスウェーデンとの2試合に加え、カナダは当時の世界選手権優勝チームのチェコスロバキアとのエキシビションゲームも行い、試合は9月30日にプラハで行われ、引き分けに終わった。そこでは凱旋帰国を果たしたスタン・ミキタが大勢の拍手喝采を受けた。
影響
1972年サミットシリーズの後、2年後にソ連対WHAによるサミットシリーズ74、4年後にはソビエトクラブ対NHLクラブによるスーパーシリーズが新設され、1976年に初の「ベスト・オン・ベスト(最高峰リーグの最高の選手)」国際トーナメント大会であるカナダカップに発展した。
サミットシリーズ以前は、ソ連は速いペースとテンポ、正確なパス、リグループなどチームプレーと戦略重視の規律あるスタイルで国際ホッケーを支配してきた。一方、カナダは伝統的に強いフィジカルとシュート、優れた個人技術と強い自負心に依存してきた。シリーズ終了後の数年間で、カナダのチームはソビエトスタイルのプレーを研究し始め、モントリオール・カナディアンズのスコッティ・ボウマンが本格的に技術や練習方法に取り入れ[1]、最終的に1980年代のエドモントン・オイラーズのようなよりダイナミックでエキサイティングなホッケーのスタイルへと変貌した。
時が経つにつれ、このシリーズの重要性は一般の意識の中で高まり、「サミットシリーズ」という用語が非公式に受け入れられるようになった。今日のカナダでは、サミットシリーズは国の誇りの源であり、カナダの文化史における画期的な出来事と見なされており、ポール・ヘンダーソンのゴールは、おそらくゲーム史上最も有名なゴールとして記憶されている。シリーズに出場したカナダ代表の最後の現役選手はマーセル・ディオンで、1989年引退した。
2005年に1972年のティームカナダは、カナダスポーツ殿堂のメンバーとして一斉に表彰され、2012年にはトロントにあるカナダ・ウォーク・オブ・フェームにその名を刻む栄誉を手にした。2026年、NHL同窓会 (NHL Alumni Association) は、ティームカナダにキース・マグナソン「マン・オブ・ザ・イヤー」を授与した[2]。これは、ゲームを通じて培われた忍耐力、献身、チームワークという無形の要素を体現し、成功したキャリア後の移行を遂げたNHLの卒業生に贈られる。
サミットシリーズは2012年に国の歴史的イベントに指定された[3]。
成績

チーム
| チーム | ヘッドコーチ | アシスタントコーチ | W | L | T | Pts |
|---|---|---|---|---|---|---|
| カナダ | ハリー・シンデン | ジョン・ファーガソン | 4 | 3 | 1 | 9 |
| ソ連 | フセヴォロド・ボブロフ | ボリス・クラーギン | 3 | 4 | 1 | 7 |
| # | ビジターチーム | 得点 | ホームチーム | 得点 | 試合年月日 | 会場 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | ソ連 | 7 | カナダ | 3 | 1972年9月2日 | モントリオール・フォーラム |
| 2 | ソ連 | 1 | カナダ | 4 | 1972年9月4日 | メープルリーフ・ガーデンズ |
| 3 | ソ連 | 4 | カナダ | 4 | 1972年9月6日 | ウィニペグ・アリーナ |
| 4 | ソ連 | 5 | カナダ | 3 | 1972年9月8日 | パシフィック・コロシアム |
| 5 | カナダ | 4 | ソ連 | 5 | 1972年9月22日 | ルジニキ・アイスパレス |
| 6 | カナダ | 3 | ソ連 | 2 | 1972年9月24日 | |
| 7 | カナダ | 4 | ソ連 | 3 | 1972年9月26日 | |
| 8 | カナダ | 6 | ソ連 | 5 | 1972年9月28日 |
選手
| スケーター | チーム | # | GP | G | A | P | PIM |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| フィル・エスポジト | カナダ | 7 | 8 | 7 | 6 | 13 | 15 |
| アレクサンダー・ヤクシェフ | ソ連 | 15 | 8 | 7 | 4 | 11 | 4 |
| ポール・ヘンダーソン | カナダ | 19 | 8 | 7 | 3 | 10 | 4 |
| ウラジーミル・シャドリン | ソ連 | 19 | 8 | 3 | 5 | 8 | 0 |
| ウラジーミル・ペトロフ | ソ連 | 16 | 8 | 3 | 4 | 7 | 10 |
| ワレリー・ハルラモフ | ソ連 | 17 | 7 | 3 | 4 | 7 | 16 |
| ボビー・クラーク | カナダ | 28 | 8 | 2 | 4 | 6 | 18 |
| ユーリイ・リャプキン | ソ連 | 25 | 6 | 1 | 5 | 6 | 0 |
| ボリス・ミハイロフ | ソ連 | 13 | 8 | 3 | 2 | 5 | 9 |
| イヴァン・クルノワイエ | カナダ | 12 | 8 | 3 | 2 | 5 | 2 |
| ブラッド・パーク | カナダ | 5 | 8 | 1 | 4 | 5 | 2 |
| ボビー・クラーク | カナダ | 28 | 8 | 2 | 4 | 6 | 18 |
| アレクサンドル・マルツェフ | ソ連 | 10 | 8 | 0 | 5 | 5 | 0 |
| J・P・パリゼ | カナダ | 22 | 6 | 2 | 2 | 4 | 28 |
| デニス・ハル | カナダ | 10 | 4 | 2 | 2 | 4 | 4 |
| ウラジーミル・ルチェンコ | ソ連 | 3 | 8 | 1 | 3 | 4 | 0 |
| ゴールテンダー | チーム | # | GP | W | L | T | SO | GAA |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| トニー・エスポジト | カナダ | 35 | 4 | 2 | 1 | 1 | 0 | 3.33 |
| ウラディスラフ・トレチャク | ソ連 | 20 | 8 | 3 | 4 | 1 | 0 | 3.87 |
| ケン・ドライデン | カナダ | 29 | 4 | 2 | 2 | 0 | 0 | 4.75 |
- 不出場
- フォワード:マーセル・ディオン(#34)、リック・マーティン(#36)、アナトリー・フィルソフ
- ディフェンス:ブライアン・グレンニー(#38)、ジョスリン・ゲヴレモン(#37)、ボビー・オア(#4)、デール・タロン(#32)、ヴィタリー・ダヴィドフ
- ゴールテンダー:エディ・ジョンストン(#1)、ヴィクトル・ジンガー (#1)、アレクサンドル・シデル二コフ(#27)、アレクサンドル・パシコフ