シルビア・リベラ
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シルヴィア・リベラ Sylvia Rivera | |
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2000年頃、クリストファー・ストリート・ピアーズの「ゲイ・キャンプ」にてリベラ | |
| 生誕 |
1951年7月2日 米国ニューヨーク州 |
| 死没 |
2002年2月19日(50歳没) 米国ニューヨーク州 |
| 著名な実績 | ゲイ解放運動,[1] トランスジェンダーの権利運動, ホームレスの権利・支援運動[2] |
シルヴィア・リベラ(Sylvia Rivera、1951年7月2日 – 2002年2月19日)は、アメリカ合衆国のゲイ解放運動およびトランスジェンダーの権利活動家[1][3][4]であり、ニューヨーク市のコミュニティ活動家である。
親友のマーシャ・P・ジョンソンとともに、若いホームレスのドラァグクイーン、ゲイの若者、トランス女性を支援する団体、ストリート・トランスヴェスタイト・アクション・レヴォリューショナリーズ(異性装者の行動革命: STAR)を共同設立した[5]。
リベラは生涯の大半を通じてドラァグクイーンを自認し[6][7]、LGBTQ+コミュニティの中でも特に周縁化された人々の代弁者であった。
リベラはニューヨーク市で、プエルトリコ人の父とベネズエラ人の母のもとに生まれた[8][9] 。彼女は幼い頃に実の父親であるホセ・リベラに見捨てられ、3歳の時に母親が自殺したことで孤児となった[10]。ベネズエラ人の祖母に引き取られたが、祖母はリベラの女性的な振る舞いを快く思わず、小学4年生で化粧を始めてからは特にそうであった[10][9]。その結果、1962年、リベラは10歳で家を出て、ニューヨークの路上で暮らし始めた[11][12]。
ホームレスの時代、生きるために売春を行い、地元のドラァグクイーンのコミュニティに受け入れられた。その中には、のちに親友であり庇護者となるマーシャ・P・ジョンソンもいた[11] 。
アクティビズム
リベラは主に1970年ごろに政治活動を活発にし、ゲイ解放戦線(Gay Liberation Front: GLF)、のちにゲイ活動家同盟(Gay Activist Alliance: GAA)に参加した。同性愛者の権利だけでなく、ドラァグクイーンが運動に参加する権利のためにも闘った[13]。ニューヨーク州の性的指向差別禁止法の制定を求める活動にも携わった[14]。
1969年、リベラが17歳の時にストーンウォールの反乱が起きる。リベラの関与については、歴史的な論争がある。リベラはのちに暴動での重要な役割を主張したが、ストーンウォール研究者のデイヴィッド・カーターやジョンソンを含む関係者など、リベラがその場にいたかどうか疑問を呈している者もいる[15][13]。

ジョンソンとともにSTARを設立したリベラは、公の場で刑務所や路上にいるLGBTの人々の声を訴え続けた。リベラは第3の性別とも呼べる視点を示し、助けを求める収監中のLGBTの人々について「彼らは女性に手紙を書くのではない。男性に書くのでもない。STARに書くのだ」と述べている[16]。しかし、1970年代にゲイ、特にシス男性ゲイの権利運動が主流化するにつれ、リベラをはじめとするドラァグクイーンたちは次第に周縁化されていった。ゲイ活動家同盟は市民権法案からドラァグやトランスヴェスティズムに関する保護条項を削除し、リベラは最前線で活動してきたにもかかわらず、ジェンダー表現がより「普通」に見える活動家たちに押しのけられた[17]。
1992年7月、友人であるマーシャ・P・ジョンソンの遺体がハドソン川に浮かんでいるのが発見された。頭部に傷があったにもかかわらず、警察は自殺と断定した。リベラをはじめとする友人たちは、ジョンソンが自殺するはずはないと主張した[18]。リベラはニューヨークに戻り、自らもホームレスとなりながら、クリストファー・ストリートの突端にある埠頭を拠点に、ゲイコミュニティのホームレスの人々のための活動を始めた[2][19]。ジョンソンの死に深く苦しみ、1995年には自殺を図った。[20]同年、アーサー・ドンのドキュメンタリー「Out Rage '69」に出演した。これはPBSのシリーズ『The Question of Equality』の一編であり、1973年のプライドでのリベラの「ゲイ・パワー」演説の映像が収められている[21]。またジャーナリストのランディ・ウィッカーに詳細なインタビューを行い、自殺未遂、ジョンソンの生と死、そしてエイズ危機によってホームレスとなった貧困層・労働者階級の同性愛者のための活動について語った[2]。
リベラは、LGBTQ+コミュニティの中で最も弱い立場にある人々、ドラァグクイーンやホームレスの若者、刑務所にいるゲイの受刑者、トランスジェンダーの人々の声を代弁した[22]。
1990年代半ば、リベラはニューヨークのゲイ&レズビアン・コミュニティ・センターから数年間にわたり出入りを禁止された。貧困層やホームレスのクィアの若者を受け入れるようセンターに強く要求した結果であった[9]。
研究者のジェシ・ガンは、主流のLGBT団体がリベラのラテン系としてのアイデンティティを日常的に軽視してきた一方、プエルトリコ系やラテン系の団体もまた、リベラの市民権運動への貢献を十分に認めてこなかったと指摘している[10]。
晩年、リベラはストーンウォールの遺産と、トランスジェンダーの人々がLGBT運動における自らの地位を獲得するために闘う必要性について広く講演した。2000年にはイタリアで開催されたミレニアム・マーチに参加し、「すべてのゲイの人々の母」と称えられた[23]。 STARはニューヨーク市トランスジェンダー権利法案のために闘い、2000年に殺害されたトランスジェンダー女性アマンダ・ミランのための正義を求める活動も行った[23]。
アイデンティティ
リベラのジェンダー・アイデンティティは複雑であり、生涯を通じて変化した[6][2] 。また、トランスコミュニティで使用される用語も時代とともに変化しており、トランスヴェスタイトやトランスジェンダーなど、様々な用語が流動的に使われている。
初期の著述では、「トランスヴェスタイト」という語を用い、自らを「男性の身体に閉じ込められた女性の心を持つ者」と表現している[24]。晩年には、あらゆるラベルを拒否したこともあった[6]。
死
リベラは2002年2月19日、ニューヨークのセント・ヴィンセント病院にて、肝臓癌の合併症により死去した[1]。
レガシー
リベラの死後、その功績は広く讃えられた。ニューヨークのメトロポリタン・コミュニティ教会は、リベラの名を冠したシルビア・リベラ・フードパントリーと、クィアの若者のためのシェルター「シルビズ・プレイス」を設立した[25]。
2002年、弁護士で活動家のディーン・スペードにより、シルヴィア・リベラ法律プロジェクトが設立された。すべての人が人種や収入にかかわらず、ジェンダー・アイデンティティとジェンダー表現を自己決定できることを保障することを目的としている[26]。リベラ自身は同団体に直接関わっていなかったが、その理念は、有色人種のトランスジェンダーやジェンダー非適合の人々が法的支援を受けられるよう尽力したリベラの生涯の信念を反映した。
2005年、LGBTQ+のカルチャーにおいて象徴的な地区であるグリニッジ・ヴィレッジのクリストファー・ストリートとハドソン・ストリートの交差点が「シルヴィア・リベラ・ウェイ」と改名された[27]。2015年、リベラはトランスジェンダーの活動家として初めて国立肖像画美術館に肖像が収蔵された[28]。
2007年春、ハンター・カレッジ刊行の『CENTRO: Journal of the Center for Puerto Rican Studies』誌が「プエルトリコのクィア・セクシュアリティ」を特集し、リベラのトランスとラテン系のアイデンティティの交差を考察する学術論文を含むリベラ特集を掲載した[10][23][29] 。
2019年、リベラとジョンソンを記念する記念碑がストーンウォール・インの近くのグリニッジ・ヴィレッジに建立されることが発表された[30]。同年、リベラはストーンウォール国定記念物内の全米LGBTQ名誉の壁に、最初の50人の一人として選ばれた[31]。