ジョン・ノイマイヤー
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幼少期から大学時代まで
1939年、米国のウィスコンシン州ミルウォーキーに生まれる[3]。父はドイツ系、母はポーランド系の家系で、両親はともにカトリックであった[4]。 幼少期から芸術に興味を持ち、美術教室で絵画を学ぶとともに、ミュージカル映画や、地元に巡業に来たバレエ・リュス・ド・モンテカルロの公演などを通し、ダンスにも魅了されていた[5]。ノイマイヤーは両親に頼み込んでタップダンスのレッスンを受け始め、やがて近隣のバレエ学校に通うようになるが、この時点では将来の進路を決めてはいなかった[5]。
地元ミルウォーキーのマーケット大学に進学したノイマイヤーは、英文学と演劇学を専攻するが、演劇科の教師からダンスの才能を見出され、ダンサーになることを勧められる[5]。その後は、大学でダンスの授業を受ける傍ら、奨学金を受けながらシカゴのバレエ学校にも通うという多忙な学生生活を送った[5]。また、大学在学中に、モダンダンスのダンサーであったシビル・シアラーにも師事している[2][5]。
ヨーロッパでの活動
1961年に大学を卒業したノイマイヤーは、本格的にクラシック・バレエを学ぼうと決意し、1962年からロンドンのロイヤル・バレエ学校に通い始めた[2][5][6]。並行して、デンマーク王立バレエ学校の教師であったヴェラ・ヴォルコワの元にも通い、個人レッスンを受けていた[2][5]。
1963年、ロイヤル・バレエ学校を訪れたマルシア・ハイデがノイマイヤーに目を留めたことをきっかけに、当時ハイデが活躍していたシュトゥットガルト・バレエ団へソリストとして入団した[5][7]。当時のシュトゥットガルト・バレエ団は、芸術監督ジョン・クランコの下で、「シュトゥットガルトの奇跡」と呼ばれる急速な発展を遂げている最中であった [8] 。ノイマイヤーはこのバレエ団でダンサーとして踊りながら、クランコの下で振付を開始した。この時期の作品に、俳句をモチーフとし日本的なデザインの衣装を用いた『俳句』(1966年)などがある[5][9]。
『俳句』などの作品が評価されたノイマイヤーは、1969年にフランクフルト・バレエ団の芸術監督に就任し、『ロミオとジュリエット』や『くるみ割り人形』(共に1971年)など、既存のバレエ作品を新たな視点で解釈した作品を振り付け、成功を収めた[3][10]。
ハンブルク・バレエ団での活動
1973年、ノイマイヤーはハンブルク・バレエ団の芸術監督兼首席振付家に就任した[2]。以後、ノイマイヤーは150を超える作品を創作し、同バレエ団を、ドイツを代表するカンパニーの一つへと成長させた[11][12]。また、ハンブルク・バレエ団のみならず世界中のバレエ団に作品を提供しており、日本の東京バレエ団に『月に寄せる七つの俳句』(1989年)と『時節(とき)の色』(2000年)、フランスのパリ・オペラ座バレエに『シルヴィア』(1997年)などを振り付けている[13][14]。
ノイマイヤーはバレエ関連資料のコレクターとしても知られ、1万冊以上の書籍と、1万点以上の物品(絵画・彫刻・写真等)を所蔵しており、中でもヴァーツラフ・ニジンスキーに関連する資料が充実している[15]。2006年に設立されたジョン・ノイマイヤー財団は、このコレクションを管理し、将来的に一般公開することを目的として活動している[3][15]。
2015年、ノイマイヤーは、思想・芸術分野で優れた業績を上げた人物に贈られる京都賞思想・芸術部門を受賞した。京都賞の運営団体である稲盛財団は、贈賞理由として「ノイマイヤー氏は、伝統的なバレエの動きをベースにしながら身体の持つ表現力を最大限に引き出し、それによって人間心理を深く探求している振付家である」と述べ、ノイマイヤーが20世紀以降のバレエに多大な影響を与えたことを評価している [6]。


