ジーン・ハーショルト
From Wikipedia, the free encyclopedia
Jean Buron Hersholt
| ジーン・ハーショルト | |||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
|
ハーショルト(1929年) | |||||||||
| 本名 | Jean Pierre Carl Buron[1] | ||||||||
| 別名義 |
Jean Pierre Hersholt Jean Buron Hersholt | ||||||||
| 生年月日 | 1886年7月12日 | ||||||||
| 没年月日 | 1956年6月2日(69歳没) | ||||||||
| 出生地 |
| ||||||||
| 死没地 |
| ||||||||
| 職業 | 俳優 | ||||||||
| 活動期間 | 1906年 - 1955年 | ||||||||
| 配偶者 | ペトラ・ソリーネ・“ヴィア”・アンデルセン (1914-1956) | ||||||||
| 著名な家族 | アラン・ハーショルト(息子) | ||||||||
| 主な作品 | |||||||||
|
『グリード』 『ハイジ』 | |||||||||
| |||||||||
| 備考 | |||||||||
| 墓地 フォレストローン記念公園墓地 | |||||||||
ジーン・ハーショルト[注釈 1](Jean Hersholt、1886年7月12日 - 1956年6月2日)は、デンマーク出身のアメリカ合衆国の俳優である。1937年から1954年にかけてCBSのラジオドラマ『ドクター・クリスチャン』の主演を務めたことで知られる。1924年から1955年にかけて、サイレント映画75本、トーキー65本に出演し、4本の映画の監督を務めた。
ジャン・ピエーア・カール・ビュロン(Jean Pierre Carl Buron)として1886年7月12日にデンマークの首都コペンハーゲンで生まれた。ハーショルト自身は俳優一家に生まれたと語っているが[3]、実際には両親ともに美容師だった。父ヘンリ(Henri)はカトリックのフランス人の父とプロテスタントのデンマーク人の母の間に生まれた。母クララ(Clara)はプロテスタントのデンマーク人の父とユダヤ系デンマーク人の母の間に生まれた。当初ヘンリは美容師として働いていたが、後に葉巻とワインを取り扱う商人になった[4]。
1906年にデンマークの映画製作会社・ノルディスク・フィルムで短編映画2本に出演したが、デンマークでは俳優として成功しなかった[5]。
1911年に姓をビュロンからハーショルトに改めた。1913年にアメリカに渡った。
キャリア
映画
出演した映画の中で最も良く知られているのは、1924年の『グリード』と1937年の『ハイジ』である。『グリード』はエリッヒ・フォン・シュトロハイム監督によるサイレント映画の名作であり、ハーショルトはマーカス・シューラーを演じた。『ハイジ』はヨハンナ・スピリの児童文学『アルプスの少女ハイジ』の初の映画化作品であり、主演のハイジ役のシャーリー・テンプルと共演した。ハーショルトは、デンマーク語訛りの心地よい声で、悪役から脇役まで幅広い役を演じた。最後の出演作は、1955年の『追われる男』である[6]。
1945年から1949年にかけて映画芸術科学アカデミー(AMPAS)の会長を務めた。会長在任中はアメリカの映画の振興と保存のための様々な活動を積極的に行った。1948年3月20日、AMPAS設立20周年を記念して、ウィリアム・セリグ、アルバート・E・スミス、ジョージ・カーク・スプア、トーマス・アーマットらアメリカ映画の先駆者たちに特別賞を授与した[7]。
ドクター・クリスチャン
ディオンヌ家の五つ子姉妹を主人公にした1936年の映画『五つ児誕生』で、ハーショルトは、五つ子の出産を担当した実在の医師アラン・ロイ・ダフォーをモデルにした医師ジョン・ルークを演じた。この映画には2本の続編が作られた。ハーショルトはラジオでこの役を演じたいと考えたが、権利を取得できなかった。そのため、アメリカ中西部の架空の町、リバーエンドの開業医のキャラクターを新たに創作し、その名前は、ハーショルトがファンだったデンマークの童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンの名前を拝借してポール・クリスチャンとした。1937年11月7日、CBSで『ドクター・クリスチャン』の第1回が『ヴァセリン・プログラム』の一部として放送された。
このラジオドラマはロングランヒットとなり、1954年1月6日までの17年間放送された。ハーショルトあてに、役柄と混同して医療相談の手紙が送られることもあった。ラジオドラマからのスピンオフ作品も多数作られ、メディアフランチャイズの初期の例となった。ハーショルト自身が共同執筆した『ドクター・クリスチャン』の小説や、1939年から1941年にかけて6本作られた長編映画などである。
ラジオドラマ終了の2年後の1956年、『ドクター・クリスチャン』のテレビドラマが放映された。ただし、ハーショルト演じるポール・クリスチャンは第1話のみに登場して診療所を甥のマーク・クリスチャン(演 マクドナルド・キャリー)に譲り、以降はマークを主人公として1シーズン放送された。ハーショルトは第1話の収録の直後に死去した[注釈 2]。
慈善活動
1939年、ハーショルトは映画救済基金の設立に重要な役割を果たした。この基金は、ハリウッドの映画業界の様々な階層の労働者に医療と支援を提供し、病気や老後、その他の困難の際に援助を提供するものである。これは、フランクリン・ルーズベルト大統領が老齡年金制度を成立させ、アメリカの社会保障制度が確立する4年前のことだった。この基金は後にテレビ業界にも拡張され、映画・テレビ基金となった[9]。
ハーショルトが死去した後、その慈善活動を賛えてアカデミー賞にジーン・ハーショルト友愛賞が新設された[10]。
アンデルセン研究
ハンス・クリスチャン・アンデルセンの書籍や関連資料の収集を行った。また、アンデルセンの童話160編以上を英訳し、1949年に全6巻の『アンデルセン全集』(The Complete Andersen)として出版された。この作品は、南デンマーク大学のハンス・クリスチャン・アンデルセン・センターが、「標準的な翻訳であり、最も優れたものの一つ」であると評価している[11]。収集した資料は、現在アメリカ議会図書館に収蔵されている。
私生活
1914年4月11日に、デンマーク人のペトラ・ソリーネ・“ヴィア”・アンデルセン(Petra Sørine "Via" Andersen)と結婚した。ヴィアとの間の息子アラン・ハーショルトは俳優になった。
俳優レスリー・ニールセンとカナダの元副首相エリク・ニールセンの兄弟は甥(妻ヴィアの兄弟の子供)に当たる[13]。
死去
賞と栄誉
1940年、1949年、1950年にアカデミー名誉賞を受賞した[15]。
ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームには、映画とラジオの功績により、ハーショルトの星が2つ設置されている。映画の星はハリウッド・ブールバード6501番地に、ラジオの星はハリウッド・ブールバード6701番地にある。
1938年10月11日、グローマンズ・チャイニーズ・シアターの前庭(フォーコート・オブ・ザ・スターズ)に、ディオンヌ家の五つ子姉妹とハーショルトの手型・足型を刻んだセメントタイルが設置された。これはひび割れのために1943年に撤去され、1949年10月20日にハーショルトのみのタイルが設置された[16]。