セルジューク朝
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セルジューク朝(セルジュークちょう、ペルシア語: سلجوقیان, 現代トルコ語:Büyük Selçuklu Devleti)は、11世紀から12世紀にかけて現在のイラン、イラク、トルクメニスタンを中心に存在したイスラム王朝。大セルジューク朝は1038年から1157年まで続き、最後の地方政権のルーム・セルジューク朝は1308年まで続いた。
(初期)
ニーシャープール
(1038年 - 1043年)
シャフレ・レイ
(1043年 - 1051年)
ニーシャープール
(1051年 - 1118年)
メルブ(東の首都)
(1118年 - 1153年)
ハマダーン(西の首都)
(1118年 - 1194年)
| セルジューク帝国 | |||||
|---|---|---|---|---|---|
| آلِ سلجوق | |||||
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セルジューク帝国の最大版図(1092年) | |||||
| 公用語 | ペルシア語、アラビア語、オグズ語(テュルク諸語のひとつ) | ||||
| 首都 |
ジャンド (初期) ニーシャープール (1038年 - 1043年) シャフレ・レイ (1043年 - 1051年) ニーシャープール (1051年 - 1118年) メルブ(東の首都) (1118年 - 1153年) ハマダーン(西の首都) (1118年 - 1194年) | ||||
| 君主 | |||||
| 1038年 - 1063年 | トゥグリル・ベグ(初代) | ||||
| 1118年 - 1157年 | アフマド・サンジャル(大セルジューク朝最後) | ||||
| 1303年 - 1308年 | マスウード2世(最後の地方政権のルーム・セルジューク朝の最後) | ||||
| 面積 | |||||
| 1080年推定[1] | 3,900,000km² | ||||
| 変遷 | |||||
| 成立 | 1038年 | ||||
| バグダッド入城 | 1055年 | ||||
| マラズギルトの戦い | 1071年 | ||||
| 大セルジューク朝の解体 | 1157年 | ||||
| 最後の地方政権のルーム・セルジューク朝滅亡 | 1308年 | ||||
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概要
中央アジアのテュルク系オグズ族の一派が建てたイスラーム王朝で、10世紀頃、その族長セルジュークは郷土クヌクからシル川下流に移り、ジャンド(ジェンド)を拠として大勢力になりイスラーム教に改宗、近隣のテュルク系、イラン系勢力の間隙に乗じて地歩を固め、その孫トゥグリル・ベクはホラーサーン全域を占有して王朝の基礎を確立した[2]。次いでテュルク系、イラン系勢力を撃破してバグダードに入り、アッバース朝カリフの保護者としてスルターンの称号を取得(1058年)[3]。次代アルプ・アルスラーン(在位:1063年 - 1072年)の時、シリア、パレスチナ、エジプトなどを攻略し、アナトリア半島に進出してアルメニアを略取[3]。その子マリク・シャー(在位:1072年 - 1092年)は中央アジア征服を完了して黄金時代を迎え、東ローマ帝国に脅威を与え、11世紀末の十字軍遠征を引き起こした[3]。マリク・シャーの死後、内紛のために王朝は分裂し、ホラズム・シャー朝や西遼(カラ・キタイ)の侵略を受けて滅亡した[3]。文化面では学芸を奨励し、イスラーム神学、ペルシア文学、造形美術・建築に注目すべきものが多い[3]。
周辺地図
歴史
セルジューク朝の勃興
セルジューク朝の名の由来は一族の始祖セルジューク(セルチュク)に由来する[4]。一族の具体的な活動がわかるのはその息子アルスラーン・イスラーイール、ミーカーイールらの世代からである[4]。アルスラーン・イスラーイールは11世紀初頭、カラハン朝のブハーラー、サマルカンドの支配者アリー・ティギーンのもとにあったが、カラハン朝の内紛に際して、前者に従うトゥルクマーンたちはアム川を渡ってホラーサーンに入り、ガズナ朝のマフムードのもとに走った[5]。その数はテントにして4000帳であったという[5]。マフムードはトゥルクマーンへの影響力を恐れてアルスラーンを逮捕・幽閉した[5]。その統制を離れたトゥルクマーンたちはニサー、サラフスなどのホラーサーン北方都市周辺地域で、多数の家畜の放牧を始めたため、牧地が荒廃し、租税収入も減少した[5]。マフムードは彼らの追放を決意し、自ら軍を率いて攻撃に赴いた[5]。トゥルクマーンたちはカスピ海東北地方に拠点を設け、各地で略奪をおこなった[5]。彼らはさらに他の集団も合わせ、数人の長の指揮下にホラーサーンの諸都市の略奪を続けた[5][注釈 1]。
セルジューク朝の成立
ホラーサーンの諸都市がセルジューク家に期待したものは、これらトゥルクマーンへの影響力の行使であった[5]。ニーシャープールを実質的に支配していた名家アーヤーン層はトゥルクマーンを統制することができず、街道の治安維持能力にも欠けるガズナ朝に見切りをつけ、ミーカーイールの子トゥグリル・ベクの派遣した使節に対して談合の末、無血で彼らを受け入れることを決定した[5]。ニーシャープール入城の1038年をもってセルジューク朝創設の年とする[5]。セルジューク朝はのちにイラク・セルジューク朝、ケルマーン・セルジューク朝、ルーム・セルジューク朝などの王朝が建てられるため、イランを支配した本家を大セルジューク朝とも呼ぶ[6]。無統制のトゥルクマーン集団を取り締まるものとして、ガズナ朝の支配に飽き足りない者たちへの「解放者」として出現したところに、セルジューク朝成立の名分があったといえる[6]。これ以前にはアッバース朝カリフはセルジューク勢力を他のトゥルクマーンと同列に考えていたようである[6]。ミーカーイールの血統に連なるトゥグリル・ベクは兄のチャグリー・ベクとともに1040年、ダンダーンカーンの戦いでガズナ朝軍を破り、ホラーサーンでの覇権を確保した[6]。この戦いの後、カリフ・アル=カーイムに送られた書簡は彼らの立場をよくあらわしている[6]。シーア派を奉じるブワイフ朝の傀儡となって権威の低下していたカリフではあったが、スンナ派に属すセルジューク朝にとってはその“お墨付き”は欠かせないものだった[6]。トゥグリル・ベクは自らを「カリフのしもべ」と称していた[6]。支配の正当性をよりどころとして、ヒマーヤと公正さを主張するのは、他の王朝にもみられるところで、当時の権力のあり方を考える格好の題材である[7]。ニーシャープール以外のいくつかの都市も進んでセルジューク朝の支配を受け入れ、彼らに資金と武器を提供した[7]。カリフや、他の地方王朝との折衝には、アラビア語、法学などの知識に通じた有能な人材が必要だった[7]。ホラーサーンの都市のマドラサで学んでいた秀才や、ガズナ朝などの官僚を採用することによって、セルジューク朝はこれを確保した[7]。官僚の流動性の高さは初期の宰相の出自、経歴からも確認することができる[7]。
スルターンとなる
ヒジュラ暦437年(1045年/1046年)まではトゥグリル・ベクはアミールと呼ばれていた[8]。スルターンの称号が使われるようになるのはヒジュラ暦438年(1046年/1047年)以降のことである[8]。トゥグリル・ベクは貨幣で「スルターン・アルムアッザム(偉大なる支配者)」とともに、「シャーハン・シャー(王の中の王)」というペルシア語でも呼ばれるようになる[8]。1055年、アッバース朝のカリフ・アル=カーイムはトゥグリル・ベクが自称していたスルターンを正式に承認し、バグダードのフトバで唱えさせ、貨幣に刻ませた[9]。
アルプ・アルスラーンの時代
セルジューク朝の軍事力の根幹は当初はトゥルクマーンであったが、彼らは必ずしも君主の意のままに動くものではなかった[9]。1049年、1058年の二回にわたってセルジューク一族の一人、イブラーヒーム・イナールが起こした反乱はこれらトゥルクマーンの不満のあらわれであった[9]。1063年、トゥグリル・ベクが無嗣で亡くなったため、彼らは君主の継承問題にも介入し、トゥグリル・ベクの甥アルプ・アルスラーンの即位に反対して、アルスラーン・イスラーイールの子クタルミシュを擁立して大規模な反乱を起こしている[9]。アルプ・アルスラーンを擁立したのはグラーム出身のアミールたちとイラン系の官僚たちであった[9]。結局、この戦いはアルプ・アルスラーン側の勝利に終わり、クタルミシュは敗死し、トゥルクマーンたちの一部はイラークから上メソポタミア方面へと逃亡、また一部はアーザルバーイジャーン、アルメニア方面からアナトリアへと移動していった[9]。アルプ・アルスラーンの即位に功績のあった官僚の一人がニザーム・アルムルクである[10]。彼はホラーサーンのトゥース近くの地主階級の出身で、初めはガズナ朝のホラーサーン総督に仕えていた[10]。セルジューク朝のもとへ転じてからはアルプ・アルスラーン、マリク・シャーの2君主のアタベク(養育係)を務め、双方の宰相(ワズィール)となって絶大な権力をふるうことになる[10]。1071年のマラーズギルドの戦いでは、アミールのゴウハル・アーイーンの配下のグラームが東ローマ帝国皇帝ロマノス4世ディオゲネスを捕らえるという戦功をあげた[11]。1073年、ゴウハル・アーイーンは反乱を起こしたセルジューク一族の一人、カーヴルト・ベクの処刑を執行し、マリク・シャーの信任に応えている[11]。
マリク・シャーの時代
セルジューク朝は第3代マリク・シャーの時代に最盛期を迎え、中央アジアから地中海沿岸に至る広大な領域を支配した[12]。少数の軍隊で広い地域を管轄するには大規模イクター保有者、シャフナの設置と共に、群小地方王朝にそれぞれの地を委任することも必要であった[12]。これは金曜日の集団礼拝のフトバにおいて、世俗支配者の名を公示する際にセルジューク朝君主の名を唱えること、貢納をおこなうことの見返りとして認められた[12]。このような王朝としてはカスピ海南岸のバーワンド朝、ターロムのマルズバーン家、アーザルバーイジャーンのラッワード朝、アッラーンのシャッダード朝などがある[12]。この構造をもって「セルジューク帝国」と呼ぶことがある[12]。しかし、小王朝のなかにはのちにセルジューク朝に征服され、解体されたものもある[12]。また、大セルジューク朝の版図内をさらに一族で支配領域を分割して統治することがあった[12]。当初はトゥグリル・ベク、チャグリー・ベク、ムーサー・ヤブグで領土を三分割していた[12]。
マリク・シャーの没後

1092年、マリク・シャーと宰相ニザーム・アルムルクが相次いで亡くなると、セルジューク朝国家にはスルターン位の継承をめぐって熾烈な内紛が始まり、やがてその内紛から生じた動揺が王朝国家そのものを滅亡へと導くことになる[13]。マリク・シャーの最年長の王子ベルクヤルクの母ズバイダはマリク・シャーの従姉妹であったが、マリク・シャーにはもう一人カラハン朝のタフガチ・ハンの娘であるテルケン・ハトゥンという名の寵姫がおり、この女性との間にマフムードという名の息子をもうけていた[14]。王子マフムードはまだ4歳であったが、母テルケンの強引な画策により、異母兄のベルクヤルクを差し置いてスルターンに即位した[15]。ベルクヤルクは故ニザーム・アルムルクの支持者たちを味方につけてマフムードに対抗したが、1094年11月マフムードが天然痘で病死するまでは二人のスルターン候補者が並立する状況であった[15]。その後もベルクヤルクの政権は野心ある叔父たちの挑戦を受け、とりわけマリク・シャーの弟でシリア・セルジューク朝の創始者であったトゥトゥシュはマリク・シャーの没後まもない1093年から東方への野心をあらわにし、ベルクヤルクに当面の競争者がいなくなった1095年には軍隊を率いてイラン方面に遠征し、レイの近くで敗死した[15]。叔父たちの挑戦を次々にしりぞけていったベルクヤルクであるが、1100年から政権をめぐって異母弟ムハンマド・タパルとのあいだで5回の戦闘が起こった[15]。最終的に両者は1104年1月和約を結び、イランの中央部をベルクヤルクが、アーザルバーイジャーン、アルメニア、北イラークをムハンマドが、ゴルガーン、ホラーサーンはムハンマド・タパルの同母弟サンジャルが領有することに合意した[15]。ムハンマドとサンジャルの母はマリク・シャーのテュルク系の側室であり、二人は母を同じくするという理由で協同していた[15]。ベルクヤルクは連年の内紛のためか1104年12月に25歳の若さで病没し、その後は彼とスルターン位を争ったムハンマド・タパルが即位した[15]。
第1回十字軍遠征
1095年11月27日、東ローマ帝国皇帝アレクシオス1世コムネノスの依頼により、ローマ教皇ウルバヌス2世はクレルモン公会議で十字軍の開始を呼びかけ、西欧各地の騎士たちを中心とする軍隊が集まり、1097年に東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルに集結した[16]。十字軍はアナトリアに上陸してルーム・セルジューク朝の首都ニカエア(現在のイズニク)を陥落させ、さらに進んでルーム・セルジューク朝のクルチ・アルスラーン1世やトゥルクマーンの首領ダーニシュマンドが率いる軍隊を撃破した[16]。アナトリアを横断した十字軍はローマ帝国時代からシリア支配の拠点であったアンティオキアを包囲し、1098年6月2日にこの街を征服[16]。その後シリアの海岸部を南下し、約40日の包囲の末に1099年7月15日に聖地イェルサレムを征服(エルサレム攻囲戦 (1099年))することに成功し、十字軍の目的を達成した[16]。十字軍による征服の際、イェルサレムの住民は激しい虐殺・略奪・破壊・暴行を受け、イスラーム教徒の聖地のひとつであるアクサー・モスクに非難した人々が万人以上殺害された[16]。
ムハンマド・タパルの時代
1118年までイラン西部とイラークを中心とするセルジューク朝国家の西部はムハンマド・タパルが支配し、ホラーサーンを中心とするイラン東部は彼の同母弟サンジャルが掌握した[17]。セルジューク朝たちのスルターンたちはこのころまでトルコ語名とアラブ・イスラーム的な名を二つ持っていたようで、タパル、サンジャルはともにトルコ語名で、サンジャルは別にイスラーム教徒としてアフマドという名をもっていた[17]。彼の治世の間に特筆される事件はシーア・イスマーイール・ニザール派の暗殺教団に対する攻勢である[17]。暗殺教団はファーティマ朝のカリフ・ムスタンスィルの長男で、廃嫡されたニザールを支持する者たちのことで、イランではアルボルズ山脈中の峻険なアラムートの山城を拠点にイランの出身でエジプトに滞在したこともあるハサン・サッバーフを中心に1090年ころから活動を始め、1092年にはセルジューク朝の有名な宰相ニザーム・アルムルクをその最初の暗殺の犠牲者としていた[17]。その後もニザール派による暗殺事件が続発し、十字軍との対決にあたっての準備中にシリアやイラークでイスラーム教徒側の要人が暗殺されるという事件がたびたび発生した[17]。このような事態に対処すべく、ムハンマドは領内の各地でニザール派に対する弾圧を強化した[17]。1107年には長期にわたる包囲の末にイラン中央部の都市で、マリク・シャーの時代以来セルジューク朝のスルターンたちが政権の中心のひとつとしてきたイスファハーンの郊外にあった山城シャー・ディズを陥落させ、この城に立て籠もっていたニザール派のイランにおける大ダーイー(宣教者)アフマド・アッターシュを捕らえてイスファハーンの市内を引き回した後、見せしめのため残虐な方法で処刑した[17]。
サンジャルの時代

ムハンマドの死後、彼の子孫たちがイラークの一部とイランの西部を1194年まで支配し続けるが、1119年から1157年まではホラーサーンの支配者で、ムハンマドの実弟サンジャルが「大スルターン」として彼らに対する宗主権を行使した[18]。具体的には1118年4月のムハンマドの死後、長男のマフムードが即位するが、1119年8月ホラーサーンの支配者サンジャルは自ら軍を率いて西進し、イランのサーヴェでマフムードの軍を撃破した[18]。サンジャルは敗者マフムードを殺害したり、失明させて政治的な実権を奪い取ることをせず、自らの後継者として娘を与え、「大スルターン」として自らの宗主権と権威を認めさせた[18]。1131年にマフムードが死去すると、サンジャルは1132年にふたたびイラークに来て自らの庇護下にあったマフムードの弟トゥグリル2世のスルターン位後継を支持して、もう一人の弟でサンジャルに従わなかったマスウードの軍をダイナワル付近で打ち破った[18]。在位1年余りでトゥグリル2世がなくなると、その後はサンジャルもマスウードのスルターン位を認めざるを得なくなった[18]。サンジャルはもともと1097年に異母兄であるベルクヤルクによってホラーサーンに送られた[18]。サンジャルの政権の中心地は現在のトルクメニスタンのマルヴであり、この街の遺跡には有名なサンジャル墓廟がある[18]。1101年、1102年にはスルターン位争いの混乱に乗じてホラーサーンに出兵したカラハン朝のカドル・ハン、ジブリールを撃退し、セルジューク朝の東方領土を守った[18]。「大スルターン」に即位する以前の1117年2月にはガズナ朝のマスウード2世没後の後継者争いに介入し、激戦の末、かつての宿敵ガズナ朝の首都ガズナを征服し、自らの宗主権を認めるバフラーム・シャーを即位させて、全盛期のスルターンで父のマリク・シャーすらなしえなかった空前の功績をあげた[19]。「大スルターン」への即位後は1121年に現在のアフガニスタン中部で勃興の途上にあったゴール朝を服属させ、1130年には中央アジアへ遠征してサマルカンドを征服し、カラハン朝のアルスラン・ハンのイブラーヒーム2世を捕らえ、かわりに自らの甥であるマフムード・ハンを即位させた[19]。1136年には自らへの服従をやめたガズナのバフラーム・シャーに対して遠征し、ふたたびガズナを征服し、1138年には自らの配下から台頭したホラズム・シャー朝のアトスズをホラズムの本拠に攻めて屈服させた[19]。ここまでのサンジャルの軍事活動は目覚ましく、西方で十字軍と戦うことはなかったものの、彼の業績は当時の史料で「世界の主人」とたたえられた[19]。ところが1141年9月9日サンジャルは中央アジア、サマルカンドの郊外カトヴァーンの野で東方から到来した西遼(カラ・キタイ)軍に大敗を喫し、彼の晩年は暗転してしまう[19]。西遼との戦いに大敗してその威信が大きく揺らいだサンジャルは失った声望や揺らいだ威信を回復すべく、カトヴァーンの戦い後のホラーサーンが混乱していることに乗じて首都マルヴを荒掠したホラズム・シャーのアトスズを1147年本拠地のグルガーンジュに包囲して屈服させ、また1152年にはゴール朝のアラー・ウッディーン・フサイン2世を打ち破って捕虜とした[20]。中央アジアでは1143年にサンジャルを撃破した西遼のキュル・ハン(耶律大石)が死去しており、その後の西遼の南下、西進の動きは見られなかった[20]。しかし、西遼の到来により、中央アジアのパワーバランスは変動をきたし、中央アジア地域に留まって遊牧を続けていたとみられるオグズ=トゥルクマーン集団が西遼と彼らに協力したテュルク系のカルルク族によってその牧地を追われてホラーサーンに逃れてきていた[20]。グッズまたはグズとよばれる彼らはバルフ近くの牧地でサンジャル配下のアミールと紛争を起こし、やがてその紛争が拡大し、反乱の様相を呈してきた[20]。1153年サンジャルは自らこの反乱を鎮圧すべく出陣したが、バルフ近郊で敗れ、この年の7月末から1156年10/11月まで3年余り幽囚の日々を過ごさなければならなかった[20]。オグズ=トゥルクマーンのアミールたちは昼間サンジャルを玉座に座らせたが、夜は檻に閉じ込めていたという[20]。サンジャルは隙を見て逃亡し、自らの首都マルヴへ戻ったが、長年の幽囚生活のため健康を害し、1157年5月、72歳で病没した[20]。サンジャルの死をもって「大セルジューク朝」は実質的に滅亡した[20]。サンジャルに後嗣はなく、ホラーサーンではカラハン朝の君主で甥のマフムード・ハンが一時推戴されたが、やがてサンジャル配下の有力者ムアイヤド・アイアパが台頭して1162年にはマフムード・ハンをその子息と共に死に追いやった[20]。1174年にアイアパがホラズム・シャーのテキシュに敗死した後はホラズム・シャー朝がゴール朝と争いながら覇権を確立する[20]。イラークや西部イランではサンジャルの同母兄ムハンマドの子孫たちが1153年にサンジャルの宗主権が消滅したあとも互いに内紛を繰り返す中、スルターン側近のテュルク系グラームで王子たちの後見人を意味するアタベクに昇進した者たちが実質的に政権を掌握し、セルジューク朝の支配は有名無実化していく[21]。
アタベク政権の台頭

当時、アタベク政権はシリアのダマスクスを支配したブーリー朝、アーザルバーイジャーン地方のイルデニズ朝、マウスィルからシリア北部のアレッポを支配したザンギー朝、ファールス地方のサルグル朝などがあった[21]。アタベクとはそもそもセルジューク朝の王子の「後見人」であったが、これらの政権は後見人でなくなった後も独立した政権となっていた[21]。1157年にサンジャルが亡くなると、西部イランからイラークにかけての地方は政治的な混乱の度合いを深めた[22]。1160年3月までにはムハンマド2世、マリク・シャー3世ともに没し、スライマーン・シャーが最後に即位したが、この政権は短命・弱体で、同年の10月にはトゥグリル2世の遺児アルスランを擁したイル・ドュグュズ(イルデニズ)が当時の西部イランの政治的な中心地であったハマダーンに入城し、スライマーン・シャーを廃してアルスランを即位させた[22]。アルスランの擁立に功績のあったイル・ドュグュズには「大アタベク」の称号が与えられ、その後のアルスラン政権を主導した[22]。1175年/1176年にイル・ドュグュズとアルスランが相次いで亡くなると、イル・ドュグュズの地位は長男ジャハーン・パフラヴァーンが継ぎ、アルスランの後は当時7歳の幼児であったトゥグリル3世が継いだ[23]。1160年のアルスラン即位後、1186年にアタベク・ジャハーン・パフラヴァーンが没するまでセルジューク朝のスルターンの動静は年代記にもほとんど伝えられていない[23]。アルスランの死の状況などもよくわかっていない[23]。ジャハーン・パフラヴァーンの後を継いだ弟クズル・アルスランはスルターンであるトグリル3世に対してますます露骨な干渉をおこない、1190年にはスルターンを捕らえてアーザルバーイジャーンに投獄し、自らスルターンに即位した[23]。翌年にクズル・アルスランは暗殺されてトグリル3世がスルターンに復位するが、その後はジャハーン・パフラヴァーンの子でイラン中央部の都市レイの支配者であったクトルグ・イナンチがスルターンとの対立を深めた[23]。父アルスランはそのアタベクであったイル・ドュグュズの完全な傀儡にすぎなかったが、その子のトグリル3世は青年に成長しており、かつて自らを後見するという口実で恣意的に権力をふるっていたイル・ドュグュズの2人の息子たちが政治の舞台から姿を消すと、アタベクたちの手から実権を取り戻そうという思いを強く抱くようになった[23]。1194年3月、クトルグ・イナンチの要請で、当時ホラーサーンを完全にその支配下に置いていたホラズム・シャー・テキシュが自ら大軍を率いて到来し、レイの郊外に少人数の手勢でこれを迎え撃ったトグリル3世は敗死した[23]。トグリル3世の首はバグダードに送られて晒された[23]。これによってトグリル・ベクから14代続いたセルジューク朝は滅亡した[23]。
文化


ガズナ朝時代に完成されたペルシア詩の「ホラーサーン様式」はセルジューク朝初期まで受け継がれ、12世紀にはイラク様式へと発展する[24]。スルターン・サンジャル(在位:1118年 - 1157年)の時代には多くの詩人が活躍したが、アンヴァリーはその代表的な存在である[24]。彼は天文学、哲学など諸学に通じ、高度な技巧を誇る詩をあらわした[24]。これより先、マリク・シャーの命を受け、「マリキー暦」(ジャラーリー暦)の制定に貢献したオマル・ハイヤームは有名な四行詩『ルバイヤート 』を詠んだ[24]。ただし、現存する写本には真贋の論争がある[24]。
散文の分野ではナースィル・ホスローの『旅行記』が傑出している[25]。彼はチャグリー・ベクに仕えるマルヴの財務官僚であったが、「夢のお告げ」によってメッカ巡礼に出発、イラン高原、アナトリア東南部、シリア、エジプトを経て巡礼の後、バルフへ帰還した[25]。イスマーイール派に改宗したため弾圧され、最後にはバダフシャーンの山中で没した[25]。彼の『旅行記』には途中出会った文人、学者の記述が含まれていて、ペルシア文学史の典拠となっている個所も多い[25]。また、地方都市のフトバが誰の名で唱えられているかが詳述され、年代記ではわからない統治の実態がうかがわれる[25]。自分の見聞したものと、伝聞によるものとを、文体を明確に分けて記述していて、第一級の史料として活用できる[25]。都市についての関心も、水利・治安・宗教施設・市場・商品・文人のサークルと多方面に及んでいて、今日われわれが都市を考える時の視点に通ずるものがある[25]。彼はまたイスマーイール派詩人としても名高い[25]。
セルジューク朝関係史料としてはザヒール・アルディーン・ニーシャープーリーの『セルジュークの書』、これを一部下敷きにしたラーヴァンディーの『胸襟の安らぎ』がある[25]。後者は大セルジューク朝の流れをくむイラク・セルジューク朝の君主に献呈しようとしたが、イラク・セルジューク朝が滅亡したため、ルーム・セルジューク朝の君主カイホスロー1世に捧げられた[25]。この書にはアラビア語の警句やハディース、コーランの引用、フェルドウスィーの『王書』の詩などがちりばめられている[25]。いわゆる歴史史料として使うには注意を要するが、文章それ自体が有力な情報となっている点に価値がある[25]。これは君主に読み上げて聞かせることを目的としていると考えられるもので、宮廷文化のあり方を示唆するところである[25]。たとえば、アラビア語の文言には逐一ペルシア語の訳がつけられていることから、君主はペルシア語は解したものの、アラビア語には疎かったのではないかと思わせるところがある[26]。ニザーム・アルムルクも、カリフにセルジューク朝のイクター保有者である軍人を一人一人紹介するとき、アラビア語からペルシア語への通訳をしたというから、トルコ系軍人もペルシア語を解したことがわかる[26]。トルコ系王朝のもとで、ペルシア語が成熟し、ペルシア詩が発展し、ペルシア語文化圏が成立していく様子がよくわかる実例である[26]。
建築
君主は点々と移動していたが、トゥグリル・ベクはレイから居住地をイスファハーンに変え、マリク・シャー時代には、いくつかの公共建築物やバーグ(庭園)が造営された[26]。今日残っているものには、大モスク(会衆モスク)がある[26]。時に「金曜モスク」と誤って称せられる建物は、既存のモスクに接してマリク・シャー時代に作られたものである[26]。後代にさらに改修され、化粧タイルも張り替えられているが、セルジューク朝時代の素朴・豪放な趣きを残す部分もある[26]。セルジューク建築の特徴に「セルジュークの青」ともいわれる青タイルがある[26]。タイルづくりの技術はルーム・セルジューク朝に継承され、イズニクはタイル製造の中心地として知られるようになる[26]。バグダードはセルジューク朝の首都となったことはなく、シャフナによる管理だけで満足して、君主は同地を頻繁におとずれることはなかった[26]。アルプ・アルスラーン時代にバグダードで暮らしたイブン・アルバンナーというウラマーの日記が残っている[27]。それによれば、当のウラマーもセルジューク朝や、アルプ・アルスラーンにはさほど興味はなく、たまに来訪したスルターンの名前には綴っていないほどであった[27]。近年、トルコの研究者はアナトリアのセルジューク朝やアクコユンル朝(白羊朝)期の建築物に残る制作者の銘文を分析した成果を発表している[27]。それによれば、マドラサや橋の建築にあたっては、イランから職人、建築家がやってきて工事の主体となっている例があることがわかる[27]。人とモノ、金と情報の流通することで知られるイスラーム世界で、この時代に技術やそれを担う人の移動が確認されたことはイラン史、トルコ史と分けて考えられがちな従来の史観にも一石を投じるものになるだろう[28]。
セルジューク朝の地方政権
歴代君主
大セルジューク朝
| 代数 | 名前 | 在位期間 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1 | トゥグリル・ベグ | 1038年 - 1063年 | セルジューク朝を創始 |
| 2 | アルプ・アルスラーン | 1063年 - 1072年 | トゥグリル・ベクの甥。 |
| 3 | マリク・シャー1世 | 1072年 - 1092年 | アルプ・アルスラーンの子。 |
| 4 | マフムード1世 | 1092年 - 1094年 | マリク・シャーの子。 |
| 5 | バルキヤールク | 1094年 - 1105年 | マリク・シャーの子。 |
| 6 | マリク・シャー2世 | 1105年 | バルキヤールクの子。 |
| 7 | ムハンマド・タパル | 1105年 - 1118年 | マリク・シャーの子。 |
| 8 | アフマド・サンジャル | 1118年 - 1157年 | マリク・シャーの子。 |
イラク・セルジューク朝
| 代数 | 名前 | 在位期間 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1 | マフムード2世 | 1118年 - 1131年 | ムハンマド・タパルの子。イラク・セルジューク朝を創始。 |
| 2 | ダーウード | 1131年 - 1132年 | マフムード2世の子。 |
| 3 | トゥグリル2世 | 1132年 - 1134年 | ムハンマド・タパルの子。 |
| 4 | マスウード | 1134年 - 1152年 | ムハンマド・タパルの子。 |
| 5 | マリク・シャー3世 | 1152年 - 1153年 | マフムード2世の子。 |
| 6 | ムハンマド2世 | 1153年-1160年 | マフムード2世の子。 |
| 7 | スライマーン・シャー | 1160年 - 1161年 | ムハンマド・タパルの子。 |
| 8 | アルスラーン・シャー | 1161年 - 1176年 | トゥグリル2世の子。 |
| 9 | トゥグリル3世 | 1176年 - 1190年 | アルスラーン・シャーの子。 |
| 10 | キジル・アルスラーン | 1190年 - 1191年 | イルデニズ朝のジャハーン・パフラヴァーンの兄弟 |
| 11 | トゥグリル3世(復位) | 1191年 - 1194年 | ホラズム軍と交戦して捕虜となり、斬首された。 |
シリア・セルジューク朝
ケルマーン・セルジューク朝
ルーム・セルジューク朝
系図
| セルジューク | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| イスラーイール | ミーカーイール | ムーサ・ヤブク | ユースフ・イナール | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ラスール・テギン | クタルミシュ | チャグリー・ベク ホラーサーン総督 | トゥグリル・ベグ1 | イブラヒーム・イナール | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| スライマーン | カーウルド | アルプ・アルスラーン2 | スライマーン | ウスマーン | バフラーム・シャー | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ルーム・セルジューク朝 | ケルマーン・セルジューク朝 | マリク・シャー3 | テキシュ | トゥトゥシュ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| バルキヤールク5 | ムハンマド・タパル7 | アフマド・サンジャル8 | マフムード1世4 | シリア・セルジューク朝 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| マリク・シャー2世6 | イラク・セルジューク朝 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||