トーゴランド作戦

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1914年8月6日~26日
結果 連合国側の勝利
領土の
変化
西トーゴランド は併合され イギリス領に、 東トーゴランド 併合された フランス領になった。
トーゴランド作戦
第一次世界大戦におけるアフリカ戦線英語版

1914年におけるドイツ領トーゴランドの地図
1914年8月6日~26日
場所ドイツ領トーゴランド (現在 トーゴ共和国 及び ガーナ共和国)
結果 連合国側の勝利
領土の
変化
西トーゴランド は併合され イギリス領に、 東トーゴランド 併合された フランス領になった。
衝突した勢力
指揮官
部隊
警察部隊, 徴役兵、予備役兵
戦力
  • イギリスの旗 ~1,285
  • 3 銃
  • フランス第三共和政の旗 1,265
  • 2,360 + 運送兵
ドイツ帝国の旗 c. 1,500[1]
被害者数
  • イギリスの旗 43人の死者及び負傷者[2]
  • 13人の死者
  • 30人の負傷者
  • フランス第三共和政の旗 49人の死者及び負傷者[2]
  • 24人の死者
  • 25人の負傷者
  • 36人の運送兵の死傷者[2]
  • 連合軍 128人の死者及び負傷者
  • ドイツ帝国の旗 28から62人の死者及び負傷者[2]
  • 13人の23死者
  • 15から39人の負傷者

 

第一次世界大戦
1914年ー1918年の西アフリカの地図
1914年ー1918年の西アフリカの地図

トーゴランド作戦(1914年8月6日~26日)は、西アフリカにおけるドイツ植民地トーゴランドトーゴ)へのフランス・イギリス連合軍の侵攻であり、第一次世界大戦における西アフリカ戦線英語版の戦闘の始まりの地となった。数的不利なドイツ植民地軍は、首都ロメと沿岸州から撤退し、ドイツ植民地軍は首都ロメと沿岸州から北方へ撤退し、独帝国政府とトーゴランド、大西洋南米を結ぶ通信網の中枢であったカミナ無線局(無線送信所)へ向かう進路上で展開して、遅滞作戦を行った。

近隣の植民地である英領ゴールド・コースト(現ガーナ共和国)とフランス領西アフリカダホメ(現ベナン共和国)から派遣された英仏連合主力部隊は、海岸から道路と鉄道沿いに進軍し、小規模部隊が北からカミナへ合流した。ドイツ軍守備隊はアグベルヴォエの戦闘(戦闘と呼ぶには規模が小さい小競り合い)とクラの戦闘で数日間英仏連合軍を遅滞させたが、1914年8月26日に降伏を宣言し、戦闘は終結した。1916年、トーゴランドは戦勝国によって分割され、1922年7月には国際連盟委任統治領として英国領トーゴランドと仏領トーゴランドが設立された。

1914年のトーゴランド

ドイツ帝国は1884年にトーゴランドを保護領とした。この地域はアイルランドよりやや広く、1914年当時の人口は約100万人程度であった。標高910メートル(3,000フィート)を超える山脈が南西から北東に走り、海岸と内陸部の交通を遮断していた。山脈の南側では、海岸沿いの湿地潟湖から標高61~91メートル(約200~300フィート)の高原へと地形が変化していた。高原は、森林、高草、低木に覆われており、農民たちはパーム油栽培のために森林を伐採していた。気候は熱帯性で、内陸部ほど降雨量が多く、8月には乾季が訪れる。

英領ゴールドコーストとの国境の半分はボルタ川とその支流に沿って引かれており、南部では130キロメートル(80マイル)にわたり国境が東岸を越えていた。ドイツ帝国は南部地域をアフリカで最も発展した植民地の一つとし、首都で主要都市であるロメから三つのメートル軌鉄道線と複数の道路を建設した。港湾施設がない上に、海岸は波が荒く、船は沖合に停泊し、荷物は小舟に積み替えて運ぶ必要があった。1905年、ドイツ帝国により鉄道支線が付属した金属製の桟橋が建設され、船舶から直接貨物を列車に積み替えることが可能となり、物資輸送の効率を飛躍的に向上させた。

ドイツ帝国は1914年以前に三つの狭軌鉄道路線を開通させた。1つ目は、ロメ=アネホ鉄道である。ココナッツ鉄道とも呼ばれ、1905年に開通したトーゴランドで最初の鉄道である。ロメから東海岸沿いの町アネホまで海岸沿いに走り、主に沿岸部でよく採れる油ヤシ製品を輸送していた。ロメ=ブリッタ鉄道(ロメ-アタカパメ鉄道とも言う)はロメとブリッタを結んでアタクパメにサービスを提供した。また、カミナ無線基地に物資や増援を輸送するための生命線として、大戦中に重要な役割を果たした。ロメ=カパリメ鉄道はロメから内陸部のクパリメまで走っていた。ココア鉄道とも言われ、内陸部で栽培されるカカオ豆などの農産物を港まで輸送する役割を担っていた。道路はロメからアタクパメソコデへ、クパリメからケテ・クラチへ、そしてケテ・クラチからマンゴへと建設されていった。1914年にはこれらの道路が自動車通行に適していると報告されている。トーゴランド駐留のドイツ軍部隊はごく少数であった。ドイツ陸軍部隊は存在せず、ゲオルク・プフェーラー大尉指揮下の警察部隊693名と軍事訓練を受けた入植者約300名のみであった。 ドイツ側は侵攻に対抗するため、最終的に警察部隊・予備役・徴用兵を合わせて1,500名を動員することに成功した。

この植民地は前述の通り、北と東はフランス領ダホメ、西はイギリス領ゴールドコーストと、連合国領土に隣接していた。第一次世界大戦中にトーゴランド侵攻を指揮したイギリス軍将校チャールズ・マクファーソン・ドベルは首都ロメと、内陸約100キロメートル(62マイル)に位置し道路と鉄道で海岸と結ばれたカミナ無線局(1914年6月に完成)を、軍事的に重要な唯一の拠点と指摘した。[1]また、ドベルはアタクパメの近隣にある同無線局が、ドイツ、その海外植民地、ドイツ帝国海軍、南米間の通信中継局として機能していたことを掴んでいた。また、英国海軍省はこの基地が大西洋におけるドイツの船舶攻撃を調整するために利用されるのを阻止したいと考えていた。一方のドイツ帝国側は戦争勃発時、トーゴランド総督アドルフ・フリードリヒ・メクレンブルク公はドイツに滞在しており、副総督ハンス=ゲオルク・フォン・デーリング少佐が総督代理を務めていた[1]。

1914年のゴールドコースト

1914年7月、ゴールドコースト総督のヒュー・クリフォード卿、西アフリカ国境軍(WAFF)司令官のチャールズ・ドベル中将、ゴールドコースト連隊司令官のリチャード・ローズ中佐はそれぞれ英国の滞在し不在だった。ウィリアム・ロバートソンが総督代理、フレデリック・ブライアント大尉がゴールドコースト連隊の司令官代理を務めた。[1][1] ゴールドコースト連隊は、1つの先駆中隊、7つの歩兵中隊(各中隊に機関銃1挺)、4門のQF 2.95インチ山砲で構成され、124人の運搬兵と約330人の予備兵を含む、総勢1,595人の兵士を擁していた。他にも約900人の兵士からなる4つの「志願兵部隊」と、1,200人の警察官および税関職員がいた。ゴールドコースト防衛計画(1913年)は、隣接するコートジボワールにおけるフランス軍、トーゴランドにおけるドイツ軍との戦争の両方を想定していた。これには、ドイツとの戦争発生時には、トーゴランドのドイツ軍が実行可能と見込まれた襲撃に対して、ボルタ湖沿岸及び北東部国境地帯の防衛が図られることになっていた。また、湖を越えてトーゴランド北部へ進攻した後、植民地のより人口密集した南部地域へ南下する攻撃も想定されていた。[1]

1914年7月29日、英国植民地省からの電報が、当時英領ゴールド・コーストの首都であったアクラに到着し、防衛計画の予防段階の準備を命じ、ロバートソンは翌日、その情報をブライアントに転送した[1]。ブライアントは、カミナに無線局が建設された後も改訂されていなかったこの計画を廃止し、7月31日までに、トーゴランドとの国境の北部ではなく、南部沿いにゴールドコースト連隊を動員した。[1] それを受け8月3日、ロンドンでドベルは、戦争が宣言された場合、アダーからケタ、そして国境から3.2キロ(2マイル)も離れていないロメへと続く海岸道路に沿って進軍を開始することを提案した。ブライアントはドベルと同じ結論に達しており、すでにクラチとアダーで小規模な遠征部隊を編成し、クマシに主力部隊を集結させて、どちらの方向にも移動できる態勢を整えていた。[1]

序編

英仏の開戦準備

1914年、トーゴランドで閲兵行進する英国軍部隊

8月5日、英国がドイツに宣戦布告した翌日、連合国はモンロビアテネリフェ島を結ぶドイツの海底ケーブルを切断し、カミナにある無線局が植民地とドイツを結ぶ唯一の通信手段にさせた。[1] 独領トーゴランドの代理総督であるドアーリングは、英領ゴールド・コート総督代理であったロバートソンに電報を送り、コンゴ法の X 条および XI 条に基づき、中立を提案しました。この条項は、ヨーロッパで紛争が発生した場合、コンゴ盆地の植民地は中立を保つべきであると定めていたものであった。[1] ドアーリングはまた、西アフリカの植民地間の経済的な相互依存関係、および現地住民を支配するという共通の利益から、中立を訴えた。[1] しかし8月6日、ロンドンの英国内閣は中立の申し出を拒否し、戦争に突入する。[1]

ブライアントは、ダホメフランス軍が協力したい意向であることを聞き、自らの判断で、バーカー大尉とケタ地区長官をドアーリングのもとへ派遣し、植民地の降伏を要求し、これを24 時間以内に返答するよう求めた。翌朝、イギリス軍は、ドアーリングが海岸からカミナへ撤退し、攻撃されればロメは降伏するという無線メッセージを傍受した。[1] ドアーリングによる同様の中立提案は、ダホメの総督にも届いていたが、総督はこれを宣戦布告と受け止め、侵攻を命じた。ダホメ国境からわずか 60 km (37 マイル) のカミナにある無線局の存在を知らなかったフランス軍は、ロメと海岸を占領する緊急計画を立案していた。[1]

英国派遣部隊

英軍は、この作戦中に約 1,285 人の兵士を動員した。ブライアント大佐率いる主力部隊は 558 人の兵士、3 門の大砲、2,000 人の運搬兵で構成された。また、西から侵攻したエルジー大尉の部隊は 3 個中隊(約 480 人の兵士)で構成され、北部のベレウ中尉の部隊は 104 人の兵士と武装警察(20 人の騎兵)で構成されていた。さらに 143 人の武装警察が、北と西からトーゴランドに侵入する各方の部隊に所属していた。全体として、英国軍の主力はゴールドコースト連隊を中心に、1,100 人の兵士、185 人の武装警察、そして少なくとも 2,000 人の運搬兵を擁していた。[1]

フランス軍部隊

フランス軍部隊は1,265名の兵士で構成され、そのうち618名の兵士が南部の二つの主力部隊を編成した。マルシャン大尉の部隊には250名、マロワ少佐の部隊には368名が配属され、後者には360名の運搬兵と2門の砲が含まれていた。北および北東では、武装警察(ガルド・ド・セルクル)92名、アフリカ人補助兵150名、槍・弓・小銃で武装したアフリカ人騎兵405名が、さらに4つの縦隊に分かれてトーゴランドに侵攻した。また、北部では約560名のフランス騎兵がセネガルニジェールからマンゴに向かって進軍した。この作戦における協商国軍の総兵力は、歩兵・騎兵約2,550名に、少なくとも2,360名の荷役兵が加わった。[1]

カミナ進軍

ロメ占領

ギニア湾及びトーゴと現在のガーナ共和国とベナン共和国(旧ダホメ)の位置を表した図

1914年8月6日深夜、フランス警察がアティエメ近郊の税関拠点を占拠。翌7日、ダホメ駐留フランス軍司令官ジャン・マロワ少佐はアグバナケとアネホの占領を命じた。アグバナケは7日深夜に占領され、モノ川を渡河した部隊は同軍大尉、フランソワ・マルシャン指揮下で8日未明にアネホを制圧。これらの動きは抵抗なく進んだ。トーゴの民間人たちはセベの政府庁舎を焼き払ってドイツ軍を見送る手助けをした。また、約460名のドイツ人入植者とアスカリ兵は内陸部へ撤退し、また北上する過程で民間人を徴用し、予備役兵を召集した。この侵攻は第一次世界大戦開戦直後のトーゴランド作戦の一部で、英仏連合軍がドイツの無線局カミナを無力化するため急襲となった。また後のフランス委任統治領となる東部の独立までの基盤を形成する出来事となった。

フランス軍によって、戦闘で破壊されたロメ=アネホ鉄道の修復作業が開始され、またフランス軍はポルト・セグロ(現アグボドラフォ)とトーゴへ進軍したが、ロメがイギリス軍に降伏したことが明らかになると進撃を停止した。

英国軍の侵攻は8月7日深夜に開始された。ドイツ軍へ降伏勧告を行おうとした英国使節団がトラックでロメへ向かうと、ドイツ軍はすでにカミナまで撤退していた。またドイツ帝国軍ロメ地区長官ルドルフ・クラウスニッツァーは、ロメへの海上砲撃を防ぐため、内陸120km(75マイル)のクラまで植民地を降伏させる裁量権を与えられていた。 8月8日、英国使節団はアフラオで14名の英国軍兵士・警察官を指揮下に置き、展開した。また、電信技師が自転車で到着し、ケタ及びアクラへの回線を修復した。この一連の動きは、第一次世界大戦のアフリカ大陸での初戦闘として、無線中継局カミナの破壊を狙った英仏連合の迅速作戦だった。ドイツ植民地軍のアスカリ兵が内陸で抵抗を試みたが、8月26日に降伏し、作戦は終了した。[1]

8月9日、英国主力軍が、酷暑の中、80キロ(50マイル)を行軍してロメに到着した。国境を越えたブライアントは主力部隊を海上で移動させる手配をし、8月10日にはエレレ号に乗船した。他の3個中隊は、カミナへの陸上進軍を開始するため、ケテ・クラチへ派遣される命令を受けた。エレレ号は8月12日にロメ沖に到着し、部隊は波打ち際から上陸した。英仏両軍は、アネホからアタクパメに向けて合流する進軍について、協定を結んだ。これにより、北部のチェッティからマロワ指揮下の仏軍部隊、ケテ・クラチ(エルジー大尉)の英軍部隊が進軍することとなった。北の国境に駐留していた少数の英国軍部隊はマロワの指揮下に置かれ、南へ移動するよう命じられた。一方、約 560 人の仏騎兵隊は、8 月 13 日から 15 日にかけて、セネガルニジェールから北の国境を越え、マンゴへ進軍するよう命じられた。558 人の兵士、2,084 人の運搬人、警察官、志願兵で構成されたロメの英国軍は、ブライアントがドイツ軍がトグブレコヴェに侵攻したとの報を受け、内陸部への進軍を準備した。

バフィロの衝突

カミナ無線局 のアンテナを支えるための鉄塔, (無線送信機)

バフィロの衝突は、8月13日にトーゴランド北東部において、フランス軍1個中隊とドイツ警察部隊の間で発生した。フランス軍は8月8日から9日にかけてフランス領ダホメとトーゴランドの国境を越え、マンゴ地区およびソコデ=バフィロ地区でドイツ警察部隊と交戦した。しかしフランス軍中隊は予想以上の抵抗に遭い、撤退した。[1]

ロメからの前進

海岸沿いのロメを占領した後、ブライアントは中佐に昇進し、作戦における連合軍(英軍と仏軍)全体の司令官に任命された。8月12日にロメに上陸後、カミナへの北進の準備が始まった頃、ブライアントは、ドイツ軍部隊が前日に列車で南へ移動したこ情報を得た。その部隊は、北へ約 10 マイル (16 km) 離れたタブリグボにある小型の無線送信機と鉄道橋を破壊したとのことだった。そこでブライアントは 8 月 12 日、歩兵中隊の半分を分離させ、さらなる攻撃を防ぐため、翌日さらに 1+1/2 中隊を前線へ送った。[1] 夕方までに、英「Ⅰ」中隊はツェヴィエに到達し、偵察隊はアグベルフエの南にはドイツ軍はいないこと、そして主力部隊はタブリグボに到達したことを報告した。[1]

午後10時、英「Ⅰ」中隊はアグベルヴォエへの道路を進み始めた。比較的厳しいブッシュランドと沼地という地形が、連合軍カミナへの進軍を妨げた。また鉄道と道路は荒廃しており、車輪付き車両では通行不能だったため、連合軍は鉄道線と主要道路に沿って徒歩で進軍・留保せざるを得なかった。背の高い草や生い茂った低木が邪魔をして、部隊間の連絡は困難な状況でもあった[1]。主力部隊は8月15日午前6時にタブリグボを出発し、午前8時30分、地元の民間人がブライアントに、ドイツ軍の情報を提供した。それによるとドイツ軍は今朝、ドイツ兵でぎっしり詰まった列車に乗ってツェヴィエ駅に蒸気を上げて到着し、駅を銃撃した、とのことだった。ツェヴィエはロメから約50km北の要所で、鉄道の結節点だった。[1]その日の午後、イギリス軍の前衛部隊はリリ川近くでドイツ軍と遭遇した。ドイツ軍は橋を爆破し、対岸の尾根に陣取り、陣地を構築した[1]。

アグベルヴォエ事件

破壊活動と遅滞作戦により英軍の進軍は午後4時30分まで遅延した。部隊は予定通りに「I」中隊と合流できず、エクニで夜を明かすこととなった[1]。ドイツ帝国軍総督代理ドアーリングは200名の襲撃部隊2個を列車で南下させ、進撃する連合軍を遅滞させるよう命じた。[1] 「I」中隊は、アグベルヴォエの南約 9.7 km(6 マイル)にあるエクニの近くの道路で停車中、午前 4 時に南へ走る列車を耳にした。そこで一部隊が列車を阻止するために派遣され、残りの「I」中隊はアグベルヴォエへと進軍を続けることとした。トーゴ人の民間人が小隊を鉄道まで案内し、コリンズ中尉とその部下たちは、エクニの橋の北約180 m (200 ヤード) の線路上に石や重い鉄板を積み上げ、待ち伏せを行った。20両の列車のうち1両は線路上の障害物によって脱線し、もう1両はアグベルヴォエの戦闘でI中隊の残りの部隊によって停止させられた。フェーラー(ドイツ帝国軍警察部隊指揮官)は殺害され、またドイツ軍兵士の4分の1が死傷した。

クラ事件

トンプソン中尉は第一次世界大戦中、戦死した最初の英国軍将校であった。

北西部のバフィロでの衝突やアグベルヴォエ事件が起きたが、カミナにあるドイツ軍基地へ向かって進軍する連合軍には、大きな戦闘はなかった。カミナ南部の最後の自然障壁はクラ川であり、ドアーリングはここで抵抗することを選択した。川に架かる鉄道橋を破壊し、川や村への進入路には地雷を仕掛けた。8月21日、イギリス軍偵察隊は、川の北岸に460~560人のドイツ警察部隊が陣取っていることを発見した[34]。西アフリカライフル隊(RWAFF)は、東からフランス軍の支援を受け、南岸に集結した。8月22日、ブライアントはドイツ軍の陣地への攻撃を命じた。しかしイギリス軍は撃退され、17%の犠牲者を出した[35]。この戦闘で戦死したジョージ・トンプソン中尉は、第一次世界大戦で戦死した最初のイギリス軍将校となった[36]。

ドイツ軍は補給の容易な、要塞化された陣地から連合軍を撃退したものの、フランス軍は北と東からカミナへ損害なく進撃を続け、イギリス軍部隊は西のケテ・クラチから駅へ向かって着々と進軍していた。[1] 8月23日の朝、イギリス軍はドイツ軍の塹壕が放棄されていることを発見した。ドイツ軍は無線局に撤退しており、また8月24日から25日にかけての夜、カミナ方面から爆発音が聞こえた。8月26日、フランス軍とイギリス軍がカミナに到着すると、9つの電波塔が破壊され、電気設備も破壊されていた。ドアーリングと残っていた200人の警察部隊は、ブライアントに植民地を降伏した。残りのドイツ軍は脱走していた。[1] 連合軍は、3挺のマキシム機関銃、1,000挺のライフル、約32万発の弾薬を回収した。[1]

余波

分析

ドイツ領トーゴランドの分割図(イギリス:緑、フランス:紫)

戦争勃発後、カミナ無線局は破壊されるまでにドイツ、カイザーリッシェ・マリーネ(ドイツ帝国海軍)、植民地間で229通の通信を中継した[1]。第一次世界大戦におけるイギリス軍兵士の最初の軍事作戦はトーゴランドで実施され、イギリスが欧州での作戦を開始すると間もなく終了した[1]。1916年12月、植民地はイギリスとフランスの占領区域に分割され、これはドイツの行政区分や民間境界線を横断する形となった。[1] 両大国は新たな分割を求めており、1919年のパリ講和会議において、ヴェルサイユ条約第22条により旧ドイツ植民地が連合国間で分配された。[1]

1922年7月、旧ドイツ植民地から国際連盟委任統治領として英国領トーゴランドと仏領トーゴランドが創設された[1]。仏領は植民地の約60%を占め、海岸部を含む。英国は西側のトーゴランドのうち、より小さく人口も少なく開発も遅れた地域を割譲された。[1] 英国統治地域は1957年のガーナ独立時に同国と統合。フランス領トーゴランドは1960年にトーゴ共和国として独立した[1]。トーゴランドの割譲はドイツ植民地帝国の終焉の始まりを告げるもので、同帝国は戦争による征服または第22条に基づき、海外領土を全て喪失した[1]。

死傷者

この作戦でイギリス軍は83名の戦死者を出した。フランス軍は約54名、ドイツ軍は41名であった。両軍とも脱走した兵士と輸送車両の数は不明である。ロイヤル・スコッツ連隊第1大隊のジョージ・トンプソン中尉は、この戦争で最初に戦死したイギリス軍将校であった。[1] トンプソンはアタクパメ近郊のヴァルハラ墓地に埋葬されている。[1][1] ロメの病院は接収・拡張され、27人の「欧州人用」と54人の「現地人用」が確保された。ドイツ軍が内陸へ撤退した際に置き去りにされた4名のドイツ人看護師と27名のその他の職員は、ル・ファヌ医師の監督下で勤務を継続した。[1]

13人のヨーロッパ人と53人の「現地人」が病気で入院し、うち18人はセネガル軽歩兵だった。またヨーロッパ人6名と「現地人」45名が負傷で入院した。ドイツ軍が非軍事用弾薬を使用し深刻な傷を負わせたにもかかわらず、死亡者は1名のみであった。通信線沿いに野戦病院が設置され、負傷者は戦闘の2日後には運行を開始した救急列車によりクラから迅速に後送された。負傷・病状のある捕虜は、ドイツ軍医官ベルガー博士の監督下で船上で治療を受けた。[1]

注記

脚注

参考文献

参考資料

外部リンク

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