ナイ・シュエチン

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ナイ・シュエチンモン語: နာဲယှိုဲကျေန် シュエー・キン、ビルマ語: နိုင်ရွှေကျင်英語: Nai Shwe Kyin 1913年3月1日 - 2003年3月7日)は、ミャンマーモン族の政治家、革命家。新モン州党(NMSP)の創設者であり、長年にわたり同党の議長を務めた。本名はナイ・バ・ルウィン(Nai Ba Lwin)。

カレン民族同盟(KNU)のボー・ミャカチン独立機構/軍(KIO/A)のマラン・ブランセンと並び、ミャンマーにおける少数民族運動の著名な指導者であり、軍事政権に対する武力闘争から、1990年代の停戦、そして政治対話への道筋をつけた。

1913年3月1日、モン州タトン郡区コーナッ村(Kawhnat village; ビルマ語: ကော့နှပ်)生まれ。父親は中堅官僚で、本名はナイ・バ・ルウィン(Nai Ba Lwin)[1]

メソジスト系のミッションスクールに通い、その後ヤンゴン大学に入学。大学卒業後は短期間、植民地事務局に勤務した後、英国海軍義勇予備隊に入隊した。日本軍の侵攻の際には教官を務めていた[1]

ナイ・タウンエ(Nai Thaung E)とナイ・バーニュン(Nai Ba Nyunt)という2人の兄弟とともに抗日運動に参加し、兄弟とともに憲兵隊に逮捕されて拷問を受け、後にファシズム闘争への貢献により国家から勲章を受けた。兄弟のうちナイ・タウンエは拷問を受けて死亡したが、ナイ・バーニュンは、1954年から1958年までウー・ヌ政権の下でカレン州の財務大臣を務めた[1]

初期活動と武装蜂起

1945年、日本軍が放逐され、イギリス軍が帰還すると、ナイ・シュエチンは当時影響力が強かったモン族の文化団体・全ラーマニャ・モン協会(ARMA)に参加[2]。しかし、ウー・ヌにモン族の自治権を拒否されると、モン族の自治権を求める武装闘争を画策し始め、モン自由連盟(MFL)、モン問題機構(MAO)、モン統一戦線(MUF)などのモン系組織の設立に関与した[3]。この期間、ナイ・シュエチンは何度も逮捕・投獄を繰り返した[4]

1952年には本名から「ナイ・シュエチン」に改名し[5]、同年モン系武装勢力を結集するためにモン人民連帯グループ(MPSG)の結成に関与。1954年にはコーカレイ近郊にモン族士官学校を設立し、モン族の若者たちに政治学と軍事訓練を施し、新世代の指導者の育成に当たった。MSPGは1955年にモン人民戦線(MPF)に再編された[6]

新モン州党(NMSP)の創設

1958年、当時のモン系武装勢力の多くが政府へ投降する中、ナイ・シュエチンはそのような妥協を拒否し、新たな武装組織として新モン州党(NMSP)を結成し、議長に就任した[7]。KNUのボー・ミャが冷酷で強権的な人物であったのに対し、ナイ・シュエチンは他人の批判を受け容れる非常に寛容な人物で、ボー・ミャのように個人崇拝を助長したり、誕生日を大々的に祝ったりすることはなかったのだという[8]

妻がビルマ共産党(CPB)の党員だったため、容共的な側面があったが、1969年にウー・ヌの議会制民主主義党(PDP)と同盟を組んだ際に、CPBとの関係を断絶[9]。しかし1980年にCPBと協力するか否かをめぐり、ナイ・シュエチンは協力を推進。結果、党内の派閥争いが激化し、1987年までNMSPはナイ・シュエチン派とナイ・ノンラー派に分裂した[10]

1995年の停戦

ナイ・シュエチン(左)

8888民主化運動後、民主派と少数民族武装勢力との連携の機運が高まった際、ナイ・シュエチンは、ビルマ民主同盟(DAB)副議長、民族民主戦線(NDF)議長、ビルマ連邦国民評議会(NCUB)副議長などの要職を歴任。NMSP、NDF、DAB、NCUB同盟を代表してスイス、アメリカ、ドイツ、フランスなどを訪問した[11]

しかし、国軍の猛攻撃に遭ったNMSPは次第に追い詰められ、1995年6月29日、ついに国家法秩序回復評議会(SLORC)と停戦合意を締結した。この決断は内外から「妥協」との批判を浴び、1996年の党首選ではナイ・ロッサー(Nai Rot Sah)に敗れたが、結局、ナイ・ロッサーがナイ・シュエチンに続投を要請する形で、ナイ・シュエチンが党首の座に留まった[12]

同年、ナイ・シュエチンは軍政とタイとの間で進められていたれた、アンダマン海ヤダナ・ガス田英語版イェタグン・ガス田英語版とタイを結ぶパイプライン建設計画に賛成の意を表明し、党中央委員会や海外のモン・コミュニティから「不適切」との非難を浴びた[13]

1998年には当時軍政が進めていた制憲国民議会への支持を表明し、「政治的に言えば、われわれは政府と戦うことをやめた」と述べた。同園、タイ紙『バンコク・プチャカン』のインタビューにおいて、「アウンサンスーチーは民主主義と人権を求めているが、モン族は民族の解放と自決を求めている」と発言し、スーチー率いる国民民主連盟(NLD)などの民主派と少数民族武装勢力の立場の違いを鮮明にした[14]

死去

脚注

参考文献

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