モン族の民族運動
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モン族の民族運動(モンぞくのみんぞくうんどう)は、ミャンマーおよびタイの一部に居住するモン族による、政治的自決権の確立、独自の言語・文化の維持、および歴史的民族自尊心の回復を目的とした一連の活動である。
モン族は、ミャンマーのカレン族、カチン族、チン族といった「山岳民族」とは歴史的背景が根本的に異なる。彼らは紀元前から東南アジア大陸部の低地部に定住し、タトン王国やペグー王朝といった複数の強力な王国を築き、数世紀にわたって現在のビルマとタイの大部分に上座部仏教や文字、建築様式などの高度な文化を伝播・支配させてきた文明の担い手であった。しかし、1757年のペグー王朝滅亡以降、ビルマ族の支配下でその政治的地位を失い、文化的な同化政策にさらされてきた。
現代の民族運動は、1948年のビルマ独立以降に本格化した。主要な政治組織である新モン州党(NMSP)は、単なる「少数民族としての権利」の要求にとどまらず、かつての王朝の栄光を背景とした「民族の尊厳の回復」と「母国語教育・文化遺産の保護」を掲げている。彼らの闘争は、低地文明を支えてきた誇り高い歴史を、ビルマ族中心の国家主義から守り抜くための、長期的かつ文化主義的な側面を強く持っている。
イギリス植民地時代(1826年 - 1942年)

モン文化再興と危機(19世紀)
1824年の第一次英緬戦争で下ビルマの一部(タニンダーリ地方域、ラカイン州)が、1852年の第二次英緬戦争で残る下ビルマ全域がイギリスに割譲された。そして1885年の第三次英緬戦争を経て、ミャンマー全土がイギリスの完全な植民地となった。モン州に隣接するタニンダーリ地方域にはモン族の住民も居住しているので、モン族はイギリス統治下で暮らした最初の「ミャンマー人」の一部だったということになる[1]。
この植民地化の過程で、モン族はビルマ族の支配からの脱却を期待し、カレン族とともにイギリス軍側に立ち、たびたび死に体のコンバウン王朝に対して反乱を起こした。第一次英緬戦争時、イギリスはモン族の協力を得るため、かつてのモン族王朝(ペグー王朝)を再興させるという構想さえ抱いていたが、最終的にイギリスは直接統治を選択し、この約束は果たされなかった。英植民地化下では、モン族が多数居住する現在のモン州は、「管区ビルマ(英語: Ministerial Burma)」の一つであるテナセリム管区に組み込まれ、植民地政府の直接統治の対象となった[2]。
植民地期におけるモン族の大きな特徴は、同じ「非ビルマ族」でありながら、カレン族のようにキリスト教へ大規模に改宗しなかった点にある。モン族は一貫して上座部仏教を堅持し、自分たちこそがビルマにおける仏教文化の正統な伝播者であるという強い自負を持ち続けた。しかし、イギリス統治下での近代教育や行政の普及はビルマ語を公用語としたため、モン族の文化・言語は「再興」の兆しを見せつつも、実態としては都市部を中心に急速な「ビルマ化」が進むという逆説的な状況に陥った。例えば、エーヤワディ地方域ヒンタダ郡区は、1856年の国勢調査では人口の半分がモン族だったが、1911年の国勢調査では人口53万2,357人のうち、モン族と自称していたのはわずか1,224人だった。このようにモン族の民族主義者の間では、失われゆく民族・文化への危機感が常に存在した[3]。
反植民地運動と民族意識の台頭(20世紀初頭)
20世紀に入りミャンマーの独立運動が本格化すると、その主導権は、タキン党らビルマ族の民族主義者が握るようになり、モン族を含む少数民族の役割は限定的なものとなった。それでも、ビルマ族との混血も多かったモン族は、ミャンマー独立運動の指導者であるチッフラインを支持したり、1920年のラングーン大学第一次学生ストライキや、1930年のサヤー・サンの乱にも一部が参加したりするなど、反植民地闘争の枠組みには深く関わっていた[4]。
1930年代後半になると、ビルマ族中心のナショナリズムの影で、モン族独自のアイデンティティを守ろうとする動きが明確化する。1939年8月6日、モン民族主義者によって、モン族初の近代的な文化団体である全ラーマニャ・モン協会(All Ramanya Mon Association: ARMA)が結成された。ミャンマーの独立運動が分裂するのを警戒していたARMAは、政治活動には消極的であり、カレン族ののカレン民族協会のように、モン族の言語・文化・宗教の保存活動に従事するのみだった。第二次世界大戦中は活動休止していたが、1946年に復活し、以降1958年まで『モン・ブレティン(The Mon Bulletin)』という雑誌を発行した。戦後のモン族民族主義指導者の多くが元ARMAのメンバーであった[5]。
日本占領期から独立(1942年 - 1958年)
独立後の民族組織の設立
1942年、日本軍の侵攻に伴いイギリス軍が撤退すると、ミャンマーは日本の占領下に入った。この際、多くのモン族の若者がアウンサン率いるビルマ独立義勇軍(BIA)に参加し、モン青年機構(Mon Youth Organisation:MYO)を結成した。しかし、日本軍の傀儡とされるバー・モウ政権は、モン語を含む少数民族の言語教育を禁止し、彼らの献身と期待は裏切られた形となった[6]。
1945年の日本降伏後、イギリスが再びビルマに戻ると、民族自決の機運は一気に高まった。1945年11月9日、元ヤンゴン大学英語講師で、モーラミャイン生まれのキリスト教徒モン族であるナイ・ポーチョー(Nai Po Cho)が中心となり、初めてのモン族の政治組織とされる統一モン協会(United Mon Association:UMA)が設立された。UMAは、モン建国記念日を制定し、モン語の公用語化、ビルマ連邦内のモン族国家の樹立を主張した[注釈 1][7]。
アウンサン、ネ・ウィンらビルマ族の民族主義者の多くがナイ・ポーチョーの教え子だったこともあり、当初、UMAは反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)に協力的だった。しかし、穏健派のARMAは、ナイ・ポーチョーらUMA幹部を除名した[7]。
1947年2月に開催されたパンロン会議にモン族代表が招待されず、モン州の設置すら認められないことが判明すると、急進派のモン民族主義者たちはカレン民族主義者に接近し始め、1947年2月5日~7日にヤンゴンで開催された全カレン会議に出席し、同年4月に実施された制憲議会選挙にも、その全カレン会議で結成されたカレン民族同盟(KNU)と歩調を合わせて、大半のモン民族主義者が棄権した[7]。

選挙後の同年8月、のちにナイ・シュエチンと改名するナイ・バールウィン(Nai Ba Lwin)[注釈 2]が、モン族政党・モン自由連盟(Mon Freedom League:MFL)を設立し、完全な自治権を有するモン州の設立を訴えた。その後、モン民族運動の指揮系統を統一するためにモン問題機構(Mon Affairs Organisation:MAO)を設立。同年後半にはモン統一戦線(Mon United Front:MUF)に改組されたが、武装闘争に関与してミャンマー政治の主流から外れることを恐れたUWAは参加しなかった。結成後、モン族全国大会が開催され、「民主的・政治的手段でモン州の樹立が達成されなければ武力的手段に訴える」という決議が採択され、ついに武装闘争がモン民族運動の戦略的手段の一つとされた[8]。
独立後の反乱とKNUとの同盟

1948年1月4日、ビルマ連邦は独立したが、その直後の1948年4月2日、ビルマ共産党(CPB)が蜂起し、同年、カレン族のKNUが反乱を起こした。また人民義勇軍(PVO)の共産党支持派、ミャンマー軍(以下、国軍)内の共産党支持派も離反し、ミャンマー全土が内戦状態となった[9]。
同年3月、モン族民族主義者たちは、カレン民族防衛機構(KNDO)をモデルにした武装組織・モン民族防衛機構(Mon National Defence Organisation:MNDO)を設立。同年7月20日、30人のモン族の若者たちが、モーラミャイン東部ザルタビン村の警察署から機関銃3丁を略奪した。後年この日はモン革命(抵抗)記念日(Mon Revolution 〈Resistance〉 Day)とされた。同年8月、ナイ・シュエチン率いるモン民族主義者はKNUと4項目の覚書で合意し、10月批准した。この覚書はその後長く続くKNUとの同盟の基礎となった[10]。

同年8月31日、KNDO・MNDO連合軍はモーラミャインを占拠するとともに、同市以南の主要拠点を制圧して州南部における支配を確立した。またこの時期、UMAの分派がモン民族団結運動(Mon National Solidarity Movement:MNSM)を結成し、MUFと同盟を結んだ[10]。
一方、ウー・ヌ政権は地方自治調査委員会(Enquiry Commission for Regional Autonomy)を設置して、少数民族の自治要求を検討する姿勢を見せた。これを受けてKNDO・MNDO連合軍は9月8日にモーラミャインから撤退。委員会でモン族代表は、「タニンダーリ地方域、バゴー地方域、エーヤワディ地方域からなる、完全な主権を有する独立したモン州の設立」を要求したが、ウー・ヌはこれを拒否。結局、ウー・ヌはカレン州の設置だけを認め、モン州については、「モン族とビルマ族は同一であり、別個の民族アイデンティティは考慮すべきではない」と述べて、これを拒否した。この態度は、譲歩に応じたばかりのモン民族主義者たちを激怒させ、政府への不信感を決定的なものにした[10]。
時を同じくして、モーラミャイン周辺では国軍やPVOなどが少数民族地区を襲撃し、恐怖政治を敷き始めた。モン民族運動の指導者たちが何人も暗殺されたり、逮捕された。弾圧を逃れたリーダーたちは農村部の「解放区」へと逃亡し、部隊を再組織した。これにより、「政府が都市を、少数民族勢力が村を支配する」という二重統治の構図が鮮明となった。1948年末から1949年初頭にかけて、政府はMNDOとKNDOを非合法組織と宣言し、全国で本格的な軍事作戦を展開した。当初は交渉による解決を模索していたモン民族主義者たちも、政府の強硬姿勢を目の当たりにし、ついに「武力による目的達成」へと舵を切った[10]。
戦線の膠着

しかし1949年5月にKNDO・MNDO連合軍がインセインの戦いに敗れ、1950年8月12日、KNUのリーダー・ソー・バウジーが戦死すると、KNDO・MNDO連合軍は勢いを失った[11]。
1952年、バラバラになっていたモン族武装勢力を再結集するために、モン人民連帯グループ(Mon People's Solidarity Group:MPSG)が結成され、同年のカレン州設立を見届けた後の1953年3月27日、「モンランド暫定政府」の樹立を宣言した。KNU・MPSGはシャン州に陣取った中国国民党軍(KMT、泰緬孤軍)との連携を試みるも失敗。次にタイ在住のモン族を介して1954年までにタイ王国軍との連携を構築した。当時、タイの首相はモン族の血を引くとされるプレーク・ピブーンソンクラームで、タイにとって泰緬国境地帯のミャンマーの武装勢力は、ミャンマーの弱体化を図るため、国境警備隊代わりにするため利用価値があった[11]。
1955年、MPSGはモン人民戦線(Mon People's Front:MPF)に再編され、翌1956年、KNU、カレンニー民族進歩党(KNPP)、統一パオ民族主義者機構(UPNO)とともに初の少数民族武装勢力の同盟・民主諸民族統一戦線(DNUF)を結成した。しかし、組織はイデオロギーによって左右に分裂し、全体として戦線は膠着していた[11]。
一方、ARMAの政界におけるロビー活動が功を奏し、1954年2月、ウー・ヌ首相とARMAは共同でモン族問題グループ(Mon Affairs Group:MAG)を設立し、1950年代半ばまでに100校以上のモン族小学校、17校の中学校、5校の高等学校を設立し、いくつかの大学でモン語の授業が導入することに成功した[11]。
この時期、モン民族運動は、武装闘争よりもむしろ、政治活動のほうが成果を上げていたと指摘されている[11]。
新モン州党(NMSP)の活動
NMSPの結成と議会民主主義下におけるモン州設置運動
1958年にウー・ヌ首相が、「民主主義のための武器」と呼んだ全反乱軍に対する恩赦を発布すると、反共派のMPF隊員1,111人がこれに応じて降伏した。彼らが降伏した理由は、先の見えない武装闘争に疲弊したこととともに、MPFに共産主義思想が浸透しつつあったことに対する嫌悪感があったとされる。彼らはUMAとともにモン民族連盟(MonNational Federation:MNF)を結成したが、その活動は限定的だった[12]。

一方、降伏しなかった唯一のMPF幹部であるナイ・シュエチン[13]は、同年7月20日、ジャングル地帯で新モン州党(NMSP)を結成した。現在でもその日は新モン州党記念日(NMSP Day)として祝日となっている[12]。
NMSPは、KNUが国境ゲートを設置していたスリーパゴダ峠近郊のナムコック村(Nam Khok)に本部を置いた。結成当初は100人にも満たないメンバーだったが、KNUとCPBの支援を受け、翌1959年にはCPBも加盟する親共同盟・民族民主統一戦線(NDUF)にも参加した。KNUがボー・ミャの個人独裁色が強かったのに対し、NMSPは幹部批判も許容されるより民主主義色が強かったと伝えられる[12]。
政界ではモン民族主義者のロビー活動が着々と成果を上げつつあるように見えた。1958年~1960年のネ・ウィン選挙管理内閣下でも、その後のウー・ヌ内閣下でも、モン族の閣僚が要職に就き、1950年代後半には、彼らの尽力により、モーラミャインおよびタニンダーリ地方域から数百世帯に及ぶモン族の貧農がバゴーへと移住し、ペグー王朝依頼の同地におけるモン族コミュニティが再建された[12]。
1960年2月の第4回総選挙の際には、ウー・ヌはモン州とラカイン州の設置を公約。総選挙ではウー・ヌの連邦党が圧勝、モン族議員も4人当選し、モン州設置の準備を進めるためのモン省が設立された。シュエダゴン・パゴダ南には、モン・ホール(Mon Halls)という建物が建設され、ヤンゴンのモン族コミュニティの中心地となった。1961年6月、シャン族の初代大統領・サオ・シュエタイッらシャン州の元ツァオパーたちが中心となり、「真の連邦制(フェデラルムーブメント)」を求めてタウンジーで開催した全州会議にもモン族代表が出席し、チン州、ラカイン州と並びモン州の設置を求める決議が採択された。武装闘争ではなく、政界でモン州の設置が実現しそうに見えた[12]。
しかし、1962年3月2日、ネ・ウィンは軍事クーデターを決行し、ビルマ連邦革命評議会が全権を掌握し、モン州の夢は水泡に帰した。ARMAが推進していたモン文化活動も廃止に追い込まれ、地下に潜伏することを余儀なくされた。翌1963年、ネ・ウィンは全反乱軍を対象にした和平交渉を主催し、ナイ・シュエチンはNDUF代表として参加したが、交渉は決裂。軍政のこの一連の動きに不満を募らせた多くのモン族の若者が、NMSPに新たに加わった[12]。
国境地帯の反乱と闇経済
ミャンマー内戦は、熱帯特有の気候条件に強く依存して展開されてきた。国軍による攻勢は主に乾燥した乾季に行われるが、6月から11月にかけての長い雨季が到来する前に撤退を余儀なくされるのが通例であった。これは、雨季に入るとインフラが未整備な山岳地帯や森林地帯において、孤立した前線陣地への補給維持が極めて困難になるためである。このような季節的な軍事行動の盛衰により、明確な「前線」という概念は曖昧となり、ビルマ地方部の広大な地域は、いずれの側によっても完全には実効支配されない空白地帯(ブラウンエリア)となった[14]。
また、少数民族武装勢力が支配する「解放区(ブラックエリア)」の多くは、単なる軍事拠点を超え、独自の行政機構を持つ「ミニ国家」としての様相を呈した。NMSPは自らの「領土」を、メルギー、ダウェイ、モーラミャイン、タトンの4つの行政地区に分割し教育、保健、外務などの各専門部門を備えた独自の行政機構を構築した。具体的には、モン民族教育委員会(Mon National Education Committee:MNEC)やモン民族保健委員会(Mon National Health Committee:MNHC)を通じて自治領域内に学校や診療所を設立・運営し、さらにモン女性機構(Mon Women's Organization:MWO)や党青年部といった社会組織を整備するなど、国家に準ずる公共サービスを展開した[15]。
こうした活動を支え、兵士に食料と武器を供給するためには、当然のことながら資金源が必要だった。この時代、中国やタイとの国境地帯に「解放区」を築いた、NMSP含む少数民族武装勢力の主要な資金源は国境密貿易だった[14]。
ネ・ウィン時代、ビルマ式社会主義の下、ほぼすべての商工業資本が国有化されたことにより著しい経済不効率、深刻なモノ不足が生じ、その穴をインド人、中国人を主とする闇商人・密輸業者が埋めた。彼らはタイ、中国、インド、東パキスタン(バングラデシュ)の国境地帯に赴いた。特にKNUやNMSPが陣取っていた泰緬国境での密貿易は盛んで、タイからミャンマーへは消費財、繊維製品、機械類、医薬品、ミャンマーからタイへはチーク材、鉱物、ヒスイ、宝石、アヘンが流入した。当時、ミャンマーで入手できる消費財の80%がタイからの密輸品だったとされ、1970年代後半にはKNUが扱う貿易額は年間1億ドル、ミャンマー政府の公式貿易額の3分の1に達したという推計もある。政府としても即座にモノ不足を解消する手立てがないために密貿易を黙認するしかなかった[16]。
KNUやNMSPは、国境にゲートを設立し、貿易品の価格に3~5%の通行税をかけて莫大な利益を上げ、幹部たちはタイ領土内に豪邸を構え、贅沢な暮らしを享受した。組織は財務、外務、法務、貿易、軍事などの部門に分かれてミニ国家然とし、領土内には学校や病院が建設された。貿易利権をめぐって他の武装組織と衝突したり、組織内での諍いも頻発した[17]。
タイ政府も、タイ共産党(CPT)とCPBとの関係を断つために、泰緬国境地帯の少数民族武装勢力を国境警備隊代わりに利用し、密貿易を黙認するだけではなく、彼ら自身も密貿易に関わって莫大な利益を上げた。KNUやNMSPはバンコクに事務所を設立し、彼らの部隊はタイの極右準軍組織レッドガウルと協力してパトロール、情報収集、通信活動を行った。またKNU、NMSPはタイで兵器・弾薬を購入したほか、当時内戦中だったラオス、カンボジアの国境にも赴いて戦場から直接兵器を購入し、タイ領土を横断して泰緬国境まで輸送する際に、タイ当局に賄賂を支払った[17]。
議会制民主主義党との同盟
1969年、元首相のウー・ヌが、独立の英雄・30人の同志や民政時代の旧政治家を引き入れて議会制民主主義党(PDP)を結成、さらにKNU、NMSPとともに民族統一解放戦線(NULF)という同盟を結成した。NMSPはモン州を設置しようとしたウー・ヌに対する恩義を忘れていなかった。またこれを契機にNMSPはCPBとの関係を一切断った[18]。
KNU・NMSP・PDP同盟軍は、ダウェイ、モーラミャイン、タトン、タウングーにある国軍の前哨基地を攻撃した。PDPの発表によれば、戦闘回数は1971年に30回、1972年に80回、1973年前半には47回に及び、この2年半で国軍兵士925人を殺害、1,000人以上を負傷させたとされる。一方、連合軍側の損失は死者88人、負傷者92人であった[19]。また、連合軍は鉄道や送電線などのインフラ破壊による攪乱作戦を展開[20]。MNLAP-PLA同盟軍は、モーラミャイン~イェー間の鉄道線路を繰り返し破壊し、KNLA-PLA同盟軍は、ミェイクのジャングル地帯からタウングーの山岳地帯まで活動し、バルーチャン(ローピタ)水力発電所からの送電線を爆破し、首都ヤンゴンで度重なる停電を引き起こした[21]。
しかし1972年4月、KNUの幹部がカレン州の分離独立権を主張すると、ウー・ヌは「各州の分離独立権を認めると、外国の内政干渉を許し、連邦崩壊を招く」と主張してPDP議長を辞任。PDP、NULFは事実上崩壊した[22]。
分裂
1971年8月、NMSPが最初の党大会を開催した際、兵力は約1,000人にまで回復し、CIA、タイ王立軍、カンボジアのロン・ノル政権[注釈 3]から支援を受けていた。この党大会では軍事部門のモン民族解放軍(MNLA)が正式に発足し、1973年には10年間の獄中生活から持ってきた、初期独立運動の闘士で人望の厚いナイ・ノンラー(Nai Non Lar)が総司令官に就任した[23]。1974年、政府は新憲法を制定してモン州を設置したが、NMSPは新憲法下でもモン族の自治権は認められないままと主張し、武装闘争を続行。同年12月、ウ・タントの葬儀の際に国軍がデモ隊を弾圧すると、弾圧から逃れてきた若者たちの一部がNMSPに加わった[24]。
しかし貿易利権やPDPから提供された200万バーツの資金をめぐり派閥抗争が激化し、組織は分裂を繰り返した。1980年にはCPBへの協力をめぐって、NMSPは親共派のナイ・シュエチン派と反共派のナイ・ノンラー派に分裂し、後者は「公式NMSP」を名乗り反共主義のKNUの支持を得、軍事的優位を誇った。1981年3月、両者の間で戦闘が勃発し、約200人のナイ・シュエチン派は泰緬国境のタイ側の町・サンクラブリーに退却、CPBの支援を受けて存続した。1982年6月10日、公式NMSPは民族民主戦線(NDF)に加盟した[注釈 4][24]。
1987年12月9日になってようやく、カレンニー民族進歩党(KNPP)の仲介によりNMSPは再統合を果たし、ナイ・シュエチンが議長、ナイ・ノンラーが副議長に就任した。これによりNMSPは勢力を回復し、1988年には過去最大級の約4,000の兵力を擁した(KNUは約8,000人)[25]。
KNUとの衝突
しかし、1988年7月23日、8888民主化運動の最中、ネ・ウィンがビルマ社会主義計画党(BSPP)議長を辞任したその日、スリー・パゴダ峠でNMSPとNKUとの間で戦闘が勃発した。NMSPとKNUは長らく同盟を結んでいたが、NMSPがモン州のほか、バゴー地方域、タニンダーリ地方域、エーヤワディー地方域をモン族の伝統的領土と主張していたのに対し、KNUもモン州を除くそれらの地域とカレン州をカレン族の伝統的領土と主張しており、両者は領土問題を抱えていた。また泰緬国境のゲートから得られる税収の大半がKNUに流れていることにNMSPはかねがね不満を抱いており、両者の間では度々小規模な衝突が生じており、今回はこれまでのNMSPの不満が爆発した形だった。KNUはNMSPを「格下」と見なしていた。戦闘は27日間続き、少なくとも50人のMNLA兵士と30人~100人のKNLA兵士が死亡し、民間人も多数死亡、約6,000人の避難民が国境のタイ側へ逃れた。再びKNPPが仲介に乗り出し、国境貿易の利益は両者の間で折半することになったが、大きなわだかまりが残った[26]。
停戦合意
戦線の崩壊
1988年9月18日、クーデターによりて国家秩序回復評議会(SLORC)が樹立されると、8888民主化運動に参加した学生や若者たちは、KNU、KNPP、NMSPの領土にも逃れてきた。1988年~1990年の間にほんとんどがモーラミャイン出身のモン族の若者が約1,300人、泰緬国境に集ったと伝えられるが、そのほとんどが全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)ではなくNMSPに加わった。またNMSPは、ウー・ヌの息子ウー・アウンやバーモウの息子で、元PDP幹部だったザリモウが、泰緬国境で結成したビルマ民主団結同盟(Alliance of Democratic Solidarity Union of Burma:ADSUB)および、元泰緬孤軍将校・フランシス・ヤップとも連携した[27]。
同年11月、少数民族武装勢力と民主派組織の同盟・ビルマ民主同盟(DAB)が結成され、ナイ・シュエチンは副議長に就任した。この後、ナイ・シュエチンは1991年にNDF議長、1992年にはビルマ連邦国民評議会(NCUB)副議長にも就任し、KNUのボー・ミャと並びミャンマーの少数民族武装勢力の重鎮としての地位を確立した。1991年から1995年にかけては、NMSP、NDF、DAB、NCUB同盟を代表してスイス、アメリカ、ドイツ、フランスを訪問した[28]。
しかし、当時のNMSPを取り巻く状況は、次のように厳しいものだった。
- 民主派組織との不和:1989年8月8日、亡命学生たちの間で人気があったナイ・ノンラーが急死したこと、1990年にABSDFと共同で実施したイェー襲撃作戦で敗北を喫したこと、NMSPが元ミャンマー空軍大佐が結成した国民防衛隊(PDF)を支援したことなどにより、NMSPとABSDFとの関係が険悪なものとなり、1991年までにABSDFの拠点はすべてKNU領土に移転した[28]。
- ビルマ共産党(CPB)の崩壊と国軍による包囲網形成:同年3月12日、CPBがコーカン族、ワ族の末端兵士の反乱により崩壊したが、民主派勢力とCPB残存勢力との同盟を恐れた国家法秩序回復評議会(SLORC)は、直ちにCPB残存勢力であるワ州連合軍(UWSA)、ミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA)、民族民主同盟軍(NDAA)、カチン新民主軍(NDA-K)と停戦合意を締結した。同年、シャン州軍(SSA)政府と停戦合意を締結した。シャン州における反乱が一段落したことにより、SLORCは泰緬国境のKNU、KNPP、NMSPに対する軍事作戦に集中する環境が整った[27]。
- タイの政策転換と経済的圧力:CPTの脅威を排除したタイが、これまで国境警備隊代わりにに利用していたミャンマーの少数民族武装勢力を、むしろ両国に跨る広域経済圏形成の障害と見なすようになり、泰緬国境地帯の武装勢力に対して非協力的になった。1994年、タイ当局はバンコクのNMSP事務所を閉鎖した[29]。当時のタイ首相・チャートチャーイ・チュンハワンは「戦場を市場に変える」と喝破した[30]。当時、タイでは、「建設的関与」の名目の下、アンダマン海で発見されたヤダナ・ガス田とイェタグン・ガス田とタイを結ぶパイプラインの建設計画が持ち上がっていたが、このパイプラインはKNU・NMSPの領土を通る予定であった[31][32]。
- 国内避難民の増大:この時期、モン族の国内避難民は数万人規模に膨れ上がっていた。1990年以降の国軍の猛攻により、多くのモン族がタイ領内へ逃れたが、方針を転換したタイ政府は彼らの定住を許さず、国境のミャンマー側で戦闘の危険が残る地域(ハロチャニー・キャンプなど)への強制送還を度々強行した。NMSPの関連組織であるモン民族難民救済委員会(Mon National Relief Committee:MNRC)が国際NGOなどと連携して食糧や医療物資の確保に奔走したが、タイ当局による国境封鎖や支援物資の搬入制限による兵糧攻めのような圧迫を受け、難民の生活状況は限界に達していた[33]。
1990年1月から2月にかけて、KNU・NMSP幹部の家族と共同事業を営んでいたタイ人実業家の支援を受けた国軍の部隊が、KNU・NMSP領土に猛攻撃を仕掛けスリーパゴダ峠を占拠、NMSPは最大の収入源を失った[注釈 5]。NDF、DABに加盟する他の少数民族武装勢力も苦境に立たされ、カチン独立機構・軍(KIO/A)含め加盟組織が続々と政府と停戦合意を締結し、NDF、DABは事実上崩壊した[27]。
一方、政界では、1990年総選挙において、モン民族主義者たちが多数集結したモン民族民主戦線(Mon National Democratic Front:MNDF)が5議席を獲得して、第5党となった。しかし、SLORCが選挙結果を反故にし、1992年にMNDFは非合法化され、民族主義者たちも多数逮捕された[34][35]。
停戦合意締結
こうした状況下、1993年から1994年にかけてNMSPもSLORCとの和平交渉に臨んだが、条件が折り合わず決裂した。1995年1月26日にはKNU、NDF、DAB、NCUPの本部が設置されていたマナプロウが陥落し、反政府勢力の劣勢は決定的なものとなった[36]。
モン民族運動のコミュニティでは賛否両論あったが、1995年6月29日、NMSPはついにSLORCと停戦合意を締結した。これによりNMSPの領土は、イェー川の両岸に広がる一続きの概ね三角形のブロックと南北に点在する数箇所の孤立した拠点に限定され、モン州以外への影響力を完全に失うことになった。一方、当時約2,500人の兵力を擁したMNLAは武装解除されず、そのまま兵器の所持を許可された[36]。
またNMSPは、停戦合意後すぐにラマニャ・インターナショナル社(Rehmonya International Company)という企業を設立し、政府から輸出入ライセンスと航空貨物・旅客ライセンスを与えられた。しかし、ビジネス感覚の欠如によりすぐに経営難に陥り、むしろ貿易税などの税収源を失い、党の財政は悪化した。さらに停戦合意後、モン州における政府のインフラ開発が進んだが、その際、村落の強制排除、強制労働などの人権侵害が報告され、新たに建設された道路・橋によって国軍の部隊がモン州の奥深くまで進入できるようになり、彼らに戦略的利益をもたらした。停戦合意後、国軍の住民に対する処刑・恣意的な殺害は減少したものの、強制労働や恐喝などの人権侵害はかえって増加したと報告されている[37][38]。
モン系武装勢力の乱立

1996年には、新たなモン民族組織の包括組織・モン統一連盟(Mon Unity League:MUL)が結成され、初代議長に当時NMSPの若手リーダーだったナイ・ホンサ(Nai Hong Sar)が就任した。しかし、停戦合意による恩恵の乏しさや、国軍への支配地域の明け渡しに対する不満から、モン武装勢力の軍閥化が進み、非NMSP武装グループが台頭した[39]。
1995年半ば、元泰緬孤軍将校で、NMSPのアドバイザーでもあったフランシス・ヤップがホンサ司令部 (Hongsa Command)を結成。しかし、これは理念にもとづいた武装組織というよりも、単なる私兵集団で、兵力も50人程度と小規模だった。結局、結成された年の末に幹部がタイ当局に逮捕され、組織は瓦解した[40]。
1996年にはMNLAの元兵士たちを中心にナイ・ソーアウン・グループ (Nai Soe Aung Group)が結成された。指導者のナイ・ソーアウンが一時追放された後も、残された部下たちによって組織が再編・維持され、地元住民やタイから帰還した難民の一部から一定の支持を得ていた。彼らは国軍だけではなく、NMSPとも激しく対立し、両者との間で武力衝突を繰り返した。しかし、NMSP本部から武器弾薬を強奪しようと試みた潜入作戦に失敗して多数の死傷者を出したことにより急速に勢力を失い、マラリアの蔓延によりさらに弱体化。1998年にはNMSPに投降した[41]。
1996年11月には、メルギー地区からの撤退を拒否したMNLA司令官たちが、モン軍・メルギー県(Mon Army Mergui District:MAMD)を兵力は約250〜300人だったが、重装備で、この時期出現したモン系武装勢力の中ではもっとも影響力があった。彼らはABSDFなど他の武装勢力と同盟を結んで国軍と激しく抗戦したが、1997年4月の国軍による大規模な掃討作戦と一部将校の裏取引により、最終的に1997年5月に国軍へ降伏した[42]。しかし、この降伏に不満なMAMDの兵士約100人ほどが同年11月、ラーマニャ復興軍(Ramanya Restoration Army:RRA)を結成。国軍および国軍の傘下に入ったMAMDの残党に対してゲリラ攻撃を展開した。しかし、彼らは確固たる拠点を確保できず、最終的には国軍の軍事攻勢と分断工作、タイ当局の国境警備によって撃破され、組織は散逸した[43]。
1998年末〜1999年初頭には、元MNLA兵士が中心となってモン民族防衛軍(Mon National Defence Army: MNDA)を結成した。NMSP本部からは、政治的目標のない単なる海賊・盗賊集団だとして、蔑称的に「モン武装集団(Mon Armed Group)」と呼ばれることもあったが、1998年中頃からKNUの支援・補給を受け始め100名以上の規模へ拡大。彼らもまた国軍およびNMSP双方と武力衝突を繰り返した。2001年にはNMSPを離脱した150人ほどの部隊と合併し、ホンサワトイ復興党(Hongsawatoi Restoration Party:HRP)を結成した[44]。
こうした様々な分派の台頭や不満が渦巻く中にあっても、NMSP本部はかたくなにミャンマー政府との停戦合意を守り続けた。その大きな要因となったのが、1997年にKNUがミャンマー国軍による大規模な猛攻撃(四断作戦)を受け、最後の主要拠点を次々と陥落させられたという「凄惨な教訓」を目の当たりにしたことである。停戦を破棄して全面的な武力闘争に戻れば、NMSPもKNUと同様に国軍の圧倒的な戦力によってジャングルへ追いやられ、壊滅的な被害を受けるのは火を見るより明らかだった。しかし、軍事政権の言いなりになり停戦の維持に固執するNMSPの姿勢は、多くの反発を生んだ。とりわけ、モン民族運動の精神的支柱でありNMSP議長であったナイ・シュエチンは、「軍事政権に妥協しすぎている」として、海外のモン族コミュニティや民主化勢力からしばしば激しく批判され、時には党内からも彼に対する公式な非難の声が上がるほどであった[45]。1999年3月、ナイ・シュエチンは、自宅を訪れたジャーナリストのマーティン・スミスに「マーティン、どうやらわれわれは彼ら(国軍)とともに生きることも、彼らなしで生きることもできないようだ」と漏らしたのだという[46]。ナイ・シュエチンは2003年3月3日、モーラミャインの自宅で亡くなった[47]。
武装闘争から議会政治への転換
全国停戦合意(NCA)への署名
1995年の停戦合意後、軍政とNMSPは比較的平和な状況を維持していた。しかし、2008年に新憲法が制定されると、憲法の「ミャンマー国内の軍事組織は国軍のみ」とする規定に則り、SPDCは既に停戦合意を締結していた少数民族武装勢力に対して、国境警備隊(BGF)または民兵団への編入を要求してきた。しかしNMSPは、新憲法に少数民族の意向が反映されていないことを理由に、新憲法を支持せず、BGFへの編入も拒否した[48]。

2011年、テインセイン政権の発足に伴い新たな和平プロセスが開始されると、同年2月、NMSPはKNUやKIOらと共に少数民族武装勢力の連合組織・統一民族連邦評議会(UNFC)を結成し、ナイ・ホンサが総書記や議長を歴任するなど主導的役割を果たした[49][50]。しかしNMSPは、1995年の停戦合意が2010年9月1日に失効したのを受けて、2012年2月に政府との間で州および連邦レベルの停戦合意を新たに締結したものの、2015年10月の全国停戦合意(NCA)には署名しなかった[51]。
しかし当時、国軍はNMSP支配地域への侵入を強めるとともに、関係者を逮捕して「釈放にはNCA署名が必要である」と迫る強硬な姿勢を見せていた。同時にKNU等との領土紛争において政府が対立勢力を支援することへの懸念も高まっていた。また、UNFCの影響力低下や、NCAを「唯一の和平ロードマップ」とみなす国際社会から取り残されることへの危機感に加え、モン族僧侶(サンガ)や市民社会組織(CSO)からの強い働きかけ、さらには署名と引き換えに提示された開発支援の約束などの経済的誘因も存在した。このようにさまざまな政治的・社会的圧力を受けたNMSPは、2018年2月13日、ラフ民主同盟(LDU)とともについにNCAに署名した[51][52]。
ただ、NCA署名後も国軍による土地没収が相次ぎ、住民は法的保護を欠いたまま耕作地を失っている事例が報告されている。また、モン州の経済は原料ゴムの輸出に過度に依存しており、加工技術の欠如と国際価格の変動に脆弱な構造が続いている。地元の産業が育たない中で、多くの若年層がタイへの出稼ぎ労働に従事しており、その送金がモン州の生活を支える生命維持装置となっているのが実情と報じられている[53]。
NLD政権との関係と「アウンサン将軍橋」命名問題
1995年の停戦合意後、NMSPは民主化勢力のリーダーであるアウンサンスーチーおよび国民民主連盟(NLD)に対し、「軍事政権への抵抗」という共通の目的を持ちつつも、一定の距離を保つ「待機政策(wait and see)」をとった。停戦によって軍政の一部に組み込まれたNMSPは、武力闘争から合法的枠組みへの移行を重視したため、NLDとの過度な接近による軍政の報復を警戒したのである[54]。
1998年、NMSPは1990年総選挙で当選者を出したあるモン民族民主戦線(MNDF)と連携し、NLDが主導する議会代表委員会(CRPP)への支持を表明して一時的に共闘体制を築いた[55]。しかし、NMSP議長ナイ・シュエチンは「アウンサンスーチーは民主主義と人権を求めているが、モン族は民族解放と自決を求めている」と述べ、ビルマ族中心の民主化運動と少数民族の自決権追求の間の本質的な目的の相違を指摘した。また、彼は軍政が掲げた「シンガポール・モデル」や「スハルト・モデル」といった開発独裁的アプローチに一定の関心を示すなど、NLDの求める欧米型民主主義とは一線を画す現実主義的な立場をとった[56]。
2010年総選挙には、NLD、MNDFの後継政党・モン民族党(MNP)がボイコットした一方、議会政治を通じた民族権利の確立を目指す勢力は全モン地域民主党(AMRDP)を結成した。AMRDPはモン州議会および連邦議会で計16議席(民族代表院4、人民代表院3、州議会9)を獲得し、国軍系政党である連邦団結発展党(USDP)に次ぐ勢力として、議会内でモン族の利益を代表する足がかりを築いた[57]。
しかし、ミャンマーの民主化が加速した2015年総選挙では、モン系政党はAMRDPとMNPに分裂して臨んだ結果票が分散し、AMRDPは人民代表院1議席、州議会2議席、MNPは州議会で2議席にとどまる惨敗を喫した。この結果、モン州政府の主導権はNLDに握られ、モン民族主義者たちの間には危機感が広がった[58]。

さらに2017年には、モーラミャインとチャウンゾンを繋ぐ橋に対し、NLD主導の連邦議会が地元の強い反対を無視して「アウンサン将軍」の名前を冠することを決定。モン族住民はこれを、自地域の歴史的呼称や独自性を否定する「ビルマ化」の象徴と見なし、数万人規模の大規模な抗議デモが発生した[注釈 6][59]。
この事件は、分裂していたAMRDPとMNPを再統合させる触媒となり、2019年にモン統一党(MUP)が結成された[60]。2020年総選挙において、MUPは「民族の団結」を武器にモン州内で12議席(民族代表院3、人民代表院3、州議会6)を獲得。NLD旋風が続く中で、モン族の代弁者としての影響力を回復させることに成功した[61]。
2021年クーデター以降の混乱と再編
2021年ミャンマークーデター後、モン族の政治・武装組織は「軍政(国家行政評議会〈SAC〉)との対話」と「武装抵抗」の間で深刻な分裂に直面した。NMSPは、1995年以来の停戦維持を名目にSACとの対話路線を継続し、中立的な立場を模索した。一方、モン州の政党統一組織であるMUPはSACへの参画を決定し、中央執行委員のバニャーアウンモー(Banyar Aung Moe)がSAC委員に就任した。しかし、この親軍政路線は党内外の激しい反発を招き、中央執行委員21名を含む50名以上の主要メンバーが離党する事態となり、MUPの正統性は大きく揺らぐこととなった[62][63][64]。
一方、この状況に飽きたらない若者を中心にモン解放軍(Mon Liberation Army:MLA)、モン州防衛隊(Mon State Defense Force:MSDF)、モン州革命機構(Mon State Revolutionary Organization:MSRO)などの新たな武装組織が次々と結成された[65]。さらに2024年2月14日には、NMSPの対話路線に不満を募らせた幹部らが、連邦民主主義の確立を掲げて、新モン州党・反軍事独裁(NMSP‐AD)として分離を宣言した[66]。NMSP-ADは2025年3月時点で約1,000名の兵力を擁し、軍事政権に対する実力的排除を目指す急進派の核となっている[67][68]。
また、政治面ではモン州連邦評議会(Mon State Federal Council:MSFC)とモン州諮問評議会(Mon State Consultative Council :MSCC)という2つの抵抗政治組織が活動している。MSFCはNMSP-ADや若手グループと密接に連携し、州南部で連邦制の構築を目指しているのに対し、MSCCは州北部でビルマ族の国民防衛隊(PDF)等との連携を重視する傾向が強い。両組織間の公式な同盟関係は2025年時点では確立されていないが、対軍政という目的において緩やかな協力関係にある[69]。
このように武装組織・政治組織が乱立しているのが最大の課題だったが[70]、2025年1月20日、NMSP-AD、MLA、MSDF、MSRF(モン州革命隊)の4組織が軍事統合し、「ラーマニャ・コラム(Ramanya Column)」が結成された[71]。この統合は、カレン民族解放軍(KNLA)との緊密な軍事協力関係の上に成り立っており、モン州内でのKNLAの政治的・軍事的影響力の増大を懸念する声も一部で上がっている[62]。
一方、2025年12月から2026年1月にかけてSAC主導で実施された総選挙において、MUPは参加を強行[72][73]。国際社会から「偽りの選挙」として強く批判され、多くの有権者が投票を棄権、あるいはボイコットする中で、MUPは系29議席(民族代表院3、人民代表院5、州議会21)を獲得する大躍進を遂げた[74]。USDPが議会の大部分を独占する中で、MUPはこの結果を「議会内での生存と影響力の維持」として躍進と捉えているが、多数の犠牲者を出している抵抗勢力や離党者からは、軍政の支配を正当化する協力者として批判を浴びている[75][76]。
教育・文化事業
1939年に設立された全ラーマニャ・モン協会(ARMA)以来、モン民族主義者たちはモン族の文化・教育活動に取り組んできた。ミャンマーでは1962年から始まった軍事政権時代以降、モン文化が弾圧され、各州の学校においてモン語の授業すら禁止されるようになった。しかし、民族主義者たちは地下活動として文化・教育活動を継続した[77]。
1972年にはNMSP内に教育局が設立され、1970年代から80年代にかけて、国軍の支配が及ばない「解放区」において独自の学校運営を開始した。当初のカリキュラムは政府系学校とは完全に切り離された「分離型」であったが、この時期に培われた教育ネットワークが、後の組織的な教育体制の基礎となったとされる[78]。
NMSPがナイ・シュエチン派とナイ・ノンラー派に分裂していた1984年には、モン系タイ人の学者・政治家であるチャムロン・トーンディー博士(Dr.Chamlong Thongdee)により、「亡命非キャンパス型大学」であるモン民族大学(Mon National Univercity:MNU)が設立された[79]。ナイ・シュエチン派が支援し、顧問にはモン系タイ人の著名人が名を連ね、教員はタイ国内および海外の大学から集められ、政治学、国際関係学、リベラルアーツ、教育学の通信制学士課程が設けられ、大学院課程も構想されていた。しかし実際には、在籍学生数はごく少なく、数年のうちに活動停止状態に陥り、タイ国内でいくつかの政治・文化セミナーを開催し、NMSPの歴史書をいくつか出版するなどの活動を行うにとどまった[79]。
一方、隣国タイに定住するモン族コミュニティ(タイ・モン族)の間でも、文化復興の動きが見られ、タイ・ラモン協会(Thai-Raman Association:TRA)が中心となって、モン語の教科書を作成し、タイ国内のモン族村落やミャンマーからの難民に対して識字教育を実施した。1992年にはラーチャブリー県にワット・ムアン民俗博物館(Wat Muang Folk Museum)を設立した。ただし、ミャンマー側に比べると政治的な闘争色は薄く、あくまで「過去の文化遺産の保存・顕彰」という側面が強いとも指摘されている[80][81]。
1995年に軍政と停戦合意が締結されると、モン民族教育委員会(Mon National Education Committee:MNEC)が中心となって独自の学校システムを大きく拡大した[82]。この時期のMNECの最大の特徴は、カレン族などの他の武装勢力とは異なり、政府の教育システムと「並行・統合」する戦略をとったことにある。小学校ではモン語を教授言語とするが、中等教育以降は政府のカリキュラムを導入し、ビルマ語で授業を行うことで、卒業生が国家の大学入学資格試験(Matriculation Exam)を受験できるようにした。この「ハイブリッド・モデル」により、モン族の若者は民族のアイデンティティを保持しつつ、国家の高等教育や職業機会にアクセスすることが可能となった[78]。
2019年の時点で、MNECは133校のモン民族学校(Mon National Schools、高等学校3校、中学生は18校、残りは小学校)を運営し、約1万2,000人の生徒を教え、686人の教師を雇用する規模に成長した。ほとんどはモン州にあるが、カレン州とタニンダーリ地方域にも数校ある。また、MNECは政府支配地域にある政府系学校に対しても、放課後などにモン語を教える「許可校」としての提携を広げ、民族教育の裾野を拡大させていった[83]。
また、モン文学・文化委員会(Mon Literature and Culture Committee:MLCC)は、僧侶や教育者たちと連携して、モン語・モン文字の識字キャンペーンを実施した。この活動を通じて、大学進学後に初めてモン語の読み書きを習得してモン風の名前に改名する若者が現れるなど、モン族の若年層の民族意識の覚醒に大きく貢献したとされる[84][85]。ただし、こうした活動は常に政治情勢に左右され、2010年代初頭には政府によるモン民族学校の閉鎖圧力が高まった際、MNECは一部の学校を非政治組織であるMLCCの管理下に置くことで弾圧を回避するなどの柔軟な対応を迫られた[78]。
2022年、MNECはイェーチャウンピャーに再びモン民族大学を設立した。これは10年生以上を対象としたもので[86]、教育内容は普通教育開発、モン文化、英語、コンピューター、ジェンダー平等・障害・社会的包摂(GEDSI)、教育研修、メディア、モン語とされている[87]。同校はタイ王国のパーヤップ大学およびマハーチュラロンコーンラージャヴィドゥャ大学と高等教育強化に関する協力の覚書を締結した[88][89]。この再興されたMNUは、単なる高等教育機関としてだけでなく、長年MNECが追求してきた「民族の自決」と「近代的専門性」を統合する象徴的なプロジェクトとして位置づけられている[86]。
海外コミュニティ

8888民主化運動とその後の国軍による大規模な弾圧、そして数十年にわたる内戦を逃れ、多くのモン族が難民としてタイを経由し、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどの第三国へ再定住した。彼らは移住先で新たなコミュニティを形成し、アメリカのモンランド復興評議会(Monland Restoration Council:MRC)、カナダのカナダ・モン・コミュニティ(Mon Community of Canada:MCC)、オーストラリア・モン協会(Australian Mon Association:AMA)などの組織を設立した。 1990年代後半以降、これらの海外ディアスポラ組織はインターネットなどの新技術を駆使して、ミャンマー国内における人権侵害や難民の実態を国際社会に対して発信する強力なロビー活動の拠点となった。また、毎年、モン建国記念日を大々的に開催し、祖国の言語や文化を次世代へ継承するなど、海外からモン民族運動を精神的・財政的に支援し続ける重要な後背地として機能している[90]。
民族主義的記念日
出典[91]
- モン州記念日(Mon State Day) - 毎年3月19日。1974年憲法の下、ビルマ社会主義計画党(BSPP)政権によってモン州が設置されたことを記念する日。主にミャンマー政府によって主導される祝賀行事であるが、多くのモン族民族主義者からは「自治権のない紙面上の州に過ぎない」と見なされているため、後述のモン建国記念日ほどの熱狂的な人気はない。
- モン建国記念日(Mon National Day) - 毎年2月(太陰暦ミデ月の最初の下弦の日)。紀元825年にサマラとヴィマラの2人の兄弟によって、ペグー(バゴー)の地にモン族のホンサワディー王国が建国されたとする神話を記念する日。モン族コミュニティにとって最大の祭典であり、モン族の団結や力強さ、言語と文化の復興を示す象徴である。新モン州党(NMSP)の解放区や国内外の亡命者コミュニティ、さらにタイ・モン族の間でも広く祝われているが、政府支配地域では民族主義を扇動するとして当局から弾圧や制限を受けることもある。
- モン革命(抵抗)記念日(Mon Revolution 〈Resistance〉 Day) - 毎年8月の満月の日(太陰暦カドイソイの月)。1947年にモン族の反乱軍が自決権を求めて初めて武装蜂起した日を記念する。政府支配地域での祝賀は推奨されておらず、事実上、NMSPの管轄下にある解放区に限定して祝われている。
- 新モン州党記念日(NMSP Day) - 毎年7月20日。1958年に指導者であるナイ・シュエチンによって新モン州党(NMSP)が結成された日を記念する。
- モン国民解放軍記念日(MNLA Day) - 毎年8月29日。1971年にNMSPの軍事部門であるモン国民解放軍(MNLA)が結成された日を記念する。