ハインツ・シュミット
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前半生
1920年4月20日、ヴァイマル共和国バート・ホンブルク・フォア・デア・ヘーエに生まれたシュミットは、1938年11月10日にドイツ国防軍空軍へ入隊した。基礎訓練終了後の1940年7月、最終的な養成のため東部予備戦闘飛行隊第2飛行隊に配属された。
第二次世界大戦
一か月後の1940年8月12日、シュミットはドイツ空軍第52戦闘航空団(JG52)第II飛行隊第4中隊に配属された。そのときの第4中隊は、中隊長ヨハネス・シュタインホフ指揮下でバトル・オブ・ブリテンに赴いており、彼も参戦した。その後、短期間JG52第II飛行隊第5中隊の中隊長代理を務めた後、再び第4中隊へ復帰し、1941年4月1日に軍曹へ昇進した。
シュミットの部隊はバトル・オブ・ブリテンが終結するまで勝利を上げないまま、1941年6月から勃発した独ソ戦へ参戦した。しかし彼はその後すぐにソ連の爆撃機Il-4を撃墜し、初の勝利を記録した。8月12日、彼はソ連領内約70kmの地点に不時着してしまった。彼はソ連側の捕虜にとられることを避けるため、6日を費やしてソ連から逃げ、無事ドイツ本国へと帰還している。8月27日、曹長へ昇進。11月までに15機の撃墜を記録した。
シュミットの記録は、1942年に入ってから爆発的に伸びている。2月1日、少尉となった彼は約2か月間、再びJG52第II飛行隊第5中隊中隊長に就任した。8月1日に中尉へ昇進した彼は、スターリングラード上空で激しい航空戦を展開、8月23日に通算51機撃墜の戦功により騎士鉄十字章を受章した。その僅か3週間後までに彼は総撃墜数を約2倍の100機以上に増加させ、9月16日に柏葉付騎士鉄十字章も受章した[1]。
しばらく部隊を離れた後、11月頃に今度はJG52第II飛行隊第6中隊へと配属された。1943年1月7日には総撃墜数125機を記録。その後、2月中旬にソ連軍によってシュミットは撃墜される。しかし、彼は十分な装備もないままに2日間かけ凍結したアゾフ海を横断し、無事帰還を果たした[2]。
1943年5月25日に独ソ戦へ復帰。その後も記録を伸ばすが、9月5日に行方不明(戦闘中行方不明:MIA)となった。彼が最後に搭乗していたメッサーシュミット Bf109G6"イエロー7"は、同じ空域でともに戦闘をしていたハンガリー軍に誤って撃墜された可能性があるとされている[3]。
最終的に彼は、総出撃回数712回、総撃墜数173機を記録した。死後大尉へ昇進。