ヘルムート・リップフェルト

From Wikipedia, the free encyclopedia

ヘルムート・リップフェルト
Helmut Lipfert
生誕 1916年8月6日
ドイツの旗 ドイツ帝国ザクセン=マイニンゲン公国
グレフェンタール英語版
死没 1990年8月10日(1990-08-10)(74歳没)
ドイツの旗 ドイツ
アインベック
所属組織  ドイツ国防軍陸軍 (1937–41)
 ドイツ国防軍空軍 (1941–45)
軍歴 1937–45
最終階級 大尉
除隊後 教師
テンプレートを表示

ヘルムート・リップフェルト(:Helmut Lipfert、1916年8月6日 - 1990年8月10日)は、ドイツ軍人。最終階級は空軍大尉。

第二次世界大戦では多数のエース・パイロットを輩出した第52戦闘航空団(JG52)に所属しており、彼自身も総出撃回数687回、撃墜数203機を誇るエース・パイロットである[1]。彼の戦果のすべては独ソ戦でなされたもので、P-51戦闘機1機、Yak-1戦闘機41機、Yak-9戦闘機41機、Il-2攻撃機39機、その他爆撃機2機などを撃墜している。戦闘の中で彼も15回撃墜されているが、負傷はしなかった。諸々の戦果により、柏葉付騎士鉄十字章を受章した。

リップフェルトは1916年8月6日ザクセン=マイニンゲン公国グレフェンタール英語版に生まれた。当初、彼はドイツ国防軍陸軍に入隊したが、1941年に所属を空軍へと変更している。空軍へと入隊した彼は、最初にパイロットとしての訓練を受けた。1942年12月16日、彼はJG52第6中隊に配属され、独ソ戦に参戦した。1943年1月30日La-5戦闘機を撃墜し最初の戦果を上げた彼は、その後も撃墜数を伸ばし、1943年9月に第6中隊の指揮官に就任した。10月8日には5機のソ連軍機を撃墜、12月5日には4機以上撃墜し、総撃墜数が72機に達した。最終的に、1943年内での総撃墜数は80機にも上った。

1944年4月5日、総撃墜数90機の戦功からリップフェルトは騎士鉄十字章を受章した。しかし5月にはドイツは劣勢になり、彼の所属するJG52第6中隊もソ連の絶え間ない空襲にさらされ多くの航空機を失った[2]。それでも彼は戦果を上げ続け、1944年6月11日には総撃墜数127機目にして彼自身初めてアメリカの四発重爆撃機B-17を撃墜した。さらに2週間後の6月24日モルダヴィア付近でB-24爆撃機を落としている。10月24日ハンガリー王国上空で撃墜したYak-7戦闘機が彼の150機目の撃墜機となった。1945年2月15日、大尉となった彼はハンガリーに基地を置く第53戦闘航空団(JG53)第I飛行隊飛行隊長に就任した。4月16日、Yak-9を撃墜したが、これが彼の最後の撃墜機体となった。翌日、203機撃墜の戦果により柏葉付騎士鉄十字章を受章した。JG53第I飛行隊が解体された後、終戦まではJG52第7中隊へと配属され、未確認ながらも27機を撃墜したといわれる。

終戦後は教師として働き、1990年8月10日に死去した。

叙勲

著書

脚注

注釈

参考文献

関連項目

Related Articles

Wikiwand AI