ハムネット・シェイクスピア
From Wikipedia, the free encyclopedia
ハムネット・シェイクスピア | |
|---|---|
|
| |
| 生誕 |
|
| 洗礼 | 1585年2月2日 |
| 死没 |
1596年8月11日埋葬 |
| 墓地 | ホーリー・トリニティ教会(ストラトフォード=アポン=エイヴォン) |
| 親 |
ウィリアム・シェイクスピア アン・ハサウェイ |
| 親戚 | スザンナ・ホール(姉)、 ジュディス・クイーニー(双子の姉妹) |
ハムネット・シェイクスピア(英語: Hamnet Shakespeare、1585年2月2日洗礼 – 1596年8月11日埋葬)はウィリアム・シェイクスピアとアン・ハサウェイの息子であり、ジュディスとは二卵性双生児のきょうだいである。
ハムネットはシェイクスピア夫妻唯一の男児であったが、11歳で夭折した。シェイクスピア研究者の中には、父が後に書いた芝居『ハムレット』とハムネットの関係について推測をめぐらす者もいる[1]。また、ハムネットの死と『ジョン王』、『ロミオとジュリエット』、『ジュリアス・シーザー』、『十二夜』の間につながりがあると考えてる研究者もいる。
ハムネットは2018年にケネス・ブラナーが監督した映画『シェイクスピアの庭』や2020年のマギー・オファーレルの小説『ハムネット』と2025年のその映画化作品、2016年から2020年に放送されたコメディドラマシリーズである『アップスタート・クロウ』などの21世紀の作品に登場し、大きな役割を与えられている。
ハムネットの生涯についてはほとんど知られていない[2]。ハムネットと双子の姉妹であるジュディスはウィリアム・シェイクスピアとアン・ハサウェイを両親として生まれ、ストラトフォード=アポン=エイヴォンのホーリー・トリニティ教会で1585年2月2日にコヴェントリーのリチャード・バートンにより洗礼を受けた[3]。この双子はおそらくシェイクスピアの遺言の証人になったパン職人のハムネット・サドラーとその妻ジュディスにちなんでつけられたと思われる[4]。ハムネットは近世イングランドにおいては珍しくない個人名であった[5]。ソリフルの記録簿にある洗礼記録によると、このパン職人は「ハムレット・サドラー」(Hamlette Sadler) という名前になっている[6][7]。
ハムネットが4歳になる頃までには、父のウィリアムは既にロンドンで劇作家として活動していた。人気が高まるにつれ、おそらくストラトフォードの家にはあまり滞在しなくなった[8]。パーク・ホーナンはハムネットが初等学校は修了したかもしれないと考えているが、これは当時の11歳の子どもとしてはそれがふつうであったからである[9]。
ハムネットの死の正確な状況は不明である[10][11]。教区簿は死因を記録していない[10]。ハムネットの死は飢饉か腺ペストのせいではないかと推測する資料もある[12][13]。後者の死因に関しては異論もある[14]。当時のイングランドでは子どもの3分の1程度が10歳になる前に死亡していた[15]。
ハムネットは1596年8月11日にストラトフォード=アポン=エイヴォンのホーリー・トリニティ教会に埋葬された[2][10][16]。8月の初めは巡業でケントにいたと思われる父親が死亡の知らせを知る前に埋葬された可能性がある[13]。
シェイクスピア作品とのかかわり

研究者たちは長きにわたり、ハムネットの死がシェイクスピアの著作に影響を与えたのではないかと推測してきた。例えば、同時代人であるベン・ジョンソンは、自らの息子の死について長い文章を書いているが、シェイクスピアは彼とは違い、状況に応じて何か書き記していたとしても、もっとずっと微妙な形で行っていたと考えられる。息子が死亡した時、シェイクスピアは主に喜劇を執筆しており、この執筆傾向はハムレットの死の数年後まで続き、その後に主要な悲劇作品が書かれた。経験のおかげで悲劇に深みが増した可能性があるとも言える[15]。
批評家が戯曲やソネットの一節を、シェイクスピアの人生で起こった特定の出来事に結びつけようとするような伝記に基づく作品解釈は、少なくともロマン主義の時代にさかのぼるものである。18世紀から20世紀初め頃まで、多くの作家や学者、批評家がハムネットの死とシェイクスピア劇のかかわりについて熟考してきた。こうした研究者や批評家の中にはサミュエル・テイラー・コールリッジ、エドワード・ダウデン、ジョン・ドーヴァー・ウィルソンなどもいた。1931年にはC・J・シッソンがこうした解釈は「行き過ぎ」だと述べた。1934年にシェイクスピア研究者のR・W・チェンバーズはこれに同意し、シェイクスピアの最も明るい作品は息子の死の後に書かれていて、つながりは疑わしいと述べた。20世紀の中頃から末期までは、シェイクスピアに限らずあらゆる著作について、批評家が作家の人生を作品に結びつけることはどんどん行われなくなっていった。しかしながらもっと後になるとニュー・クリティシズムが優位を失っていったため、ハムネットと父親の作品との関係に関する伝記的解釈が復活するようになった[8]。
ハムレット
父親の芝居に対するハムネットの影響に関する理論の中には、1599年から1601年の間頃に書かれたと考えられる『ハムレット』を中心に据えているものがあるが、唯一の息子の死に対する嘆きのせいでシェイクスピアがこの芝居を書こうとしたという考えには必ずしも全員が同意しているわけではない。ハムレット(Hamlet)とハムネット(Hamnet)という名前は事実上互換性があるように考えられており、シェイクスピア自身の遺言もハムネット・サンドラー(Hamnet Sadler)の名を「ハムレット(Hamlett)」と綴っていた[7][17][18]。しかしながら、批評家はしばしば、この芝居の登場人物の名前は完全に違う由来だと考えている[19]。ハムレット王子の名前はサクソ・グラマティクスの『デンマーク人の事績』に出てくるアムレートにちなんでいると見なされることが多く、このアムレートの物語は古いスカンディナヴィアの伝説で、シェイクスピアの芝居の物語によく似ている[20]。ジョン・ドーヴァー・ウィルソンは『ハムレット』の編者として、直接これにコメントした数少ない人物のひとりであり、「この(ハムレットという)名前がウォリックシャーで使われており、シェイクスピア自身の1585年生まれの息子が、この派生形であるハムネットという洗礼名をもらったことは、おそらく偶然である」と述べている[21]。
しかしながら、より後の研究には、ハムレットはスカンディナヴィアの起源があり、商業的な理由で芝居の主題に選ばれたかもしれないが、シェイクスピアが唯一の息子を失った悲しみが悲劇の中心にあると主張しているものもある[17][22]。エリック・サムズは登場人物の名前の前にHを最初につけたのは『原ハムレット』の著者であるようだと指摘し、「単なる英語化ではない。ここでも問題なくアムレート(Amleth)という名前で呼ばれることもできたはずだ。新しい創造者により意図的に新しい名前を与えられた」と述べてこれが重要かもしれないと論じている。サムズはチューダー朝のストラトフォードを除くと、ハムレットという名前は「他のところではこれまで調査されたどのアーカイヴでも記録されていない」と述べ、「知られている劇作家の中でシェイクスピアだけがハムレットという名前につながりがあり、このつながりはきわめて親密かつ強烈である」ため、名前の変更はおそらくシェイクスピアのしたことだと論じている[23]。スティーヴン・グリーンブラットもこの最後の点には同意し、「ハムネットとハムレットは実際は同じ名前であり、16世紀末から17世紀初めのストラトフォードの記録では完全に互換性がある」と述べている[17]。

その他の芝居
シェイクスピアの作品に対するハムネットの影響に関する推測は『ハムレット』にとどまらない。リチャード・ウィーラーは、ハムネットの死はふたごの兄が死んだと信じ込んでいる娘を中心に展開する『十二夜』執筆に影響を与えたという仮説を立てている。最終的にはヒロインは兄が健在であることを知る。ウィーラーは『ヴェニスの商人』、『お気に召すまま』、『十二夜』に出てくる男装する女性たちは、シェイクスピアがハムネットの死後、息子の希望を娘たちの中に見出していたことの表現であるという考えを表明している[8]。
ビル・ブライソンは1590年代半ば頃に書かれた『ジョン王』第3幕にあるコンスタンスのスピーチはハムネットの死に触発されたものであると論じている。 このスピーチの中でコンスタンスは息子アーサーを失ったことを嘆いている[24]。しかしながら、コンスタンスの悲嘆の台詞が書かれた時にハムネットはまだ存命だった可能性がある[8]。
これ以外の多数のシェイクスピア劇についてもハムネットをめぐる仮説がある。こうした仮説には、シーザーがマーク・アントニーを息子がわりのように可愛がる『ジュリアス・シーザー』はハムネットの死に関連しているおか、『ロミオとジュリエット』が息子を失ったことの悲劇的な反映なのか、『テンペスト』でアロンゾーが息子の死に対して感じる罪の意識はこれに関連しているのかといった問いが含まれる[8]。『リア王』の最後に主人公が娘の死を知って発する「命がない、ない、ないのだ!/なぜ犬にも馬にもネズミにも命があるのに/お前は全く息をしないのだ?もう戻ってこない/決して、決して、決して、決して、決して!」(King Lear, 5.3.304-307[25])というシェイクスピアが書いた中でも最も苦痛に満ちたセリフのひとつにも嘆きが反映されていると考えることもできる[22]。
ソネット

マイケル・ウッドは、ソネット33番は通常、シェイクスピアのいわゆる「美しい若者」宛の一連のソネットの一部として考えられているが、そうではなくハムネットの死に言及するものだと考えた。このソネットでは'Even so my Sunne one early morne did shine / With all triumphant splendor on my brow; / But out alack, he was but one houre mine, / The region cloude hath mask'd him from me now'「同じようにわが太陽(息子)がある朝/勝利の輝きをわが顔に浴びせた/しかしながら、ああ、たった1時間しかわがもとにいてくれなかった/高いところにあった雲が今や私から隠してしまった」というように、「太陽」(sun) と「息子」(son) の掛詞が使われている[26]。フアン・ダニエル・ミランは、33番がハムネットの死に言及しているだけではなく「美しい若者」ソネットは全てハムネットに捧げられ、こうしてシェイクスピアは喪失に向き合っていたのだと信じている。この考え方に従うと、ハムネットこそが詩が呼びかけている美しい若者である[27]。
ソネット37番もハムネットの死に対する反応として書かれた可能性がある。ここでは語り手が「老いて弱った父が、生き生きした子が/若さを発揮するのを見て喜ぶように/私は運命の女神に奥まで響く打撃を受けて動くのもままならなくなってしまったが/君の徳とまことから慰めを受けるのみ」だと述べている[28]。それでも、これがハムネットに対する言及だとしても、曖昧なものであるとは言える[15]。
作品への登場

イモジェン・クラークは1897年にハムネットの人生をフィクション化した Will Shakespeare's Little Lad を執筆した[29]。
ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』第9挿話「スキュレとカリュブディス」では主人公のスティーヴン・ディーダラスが『ハムレット』とハムネットを結びつける議論を行う[30]。
1966年のナイオ・マーシュによる探偵小説 Death at the Dolphin にはウィリアム・シェイクスピアの父であるジョン・シェイクスピアが作ったハムネットの手袋が登場し、重要な役割を果たす[31]。
ハムネットはニール・ゲイマンの設定を共有しているコミック2編に登場している。『サンドマン』#19となる「夏の夜の夢」で、ハムネットは父と一緒に登場し、前述した芝居に出てくる取り替え子の少年役を演じる。最後に妖精の女王ティターニアがこの子を妖精に変えたことが示唆される。『ブックス・オブ・マジック』#3の「夏の黄昏の国」では召使いとして出てくる[32]。
スーザン・コリンズの2005年の小説でアンダーランド年代記の3作目である『グレゴールとウォームブラッドの呪い』にはハムネットというキャラクターが出てくる[33]。
ハムネット・シェイクスピアはBBCのコメディドラマシリーズでロンドンとストラトフォード=アポン=エイヴォンでのウィリアム・シェイクスピアの暮らしを描いた『アップスタート・クロウ』に登場する。ハムネットの死は第3シリーズ最終話で起こる[34]。
ベン・エルトン脚本、ケネス・ブラナー監督の2018年の映画『シェイクスピアの庭』ではハムネットが重要な役割を果たす。ほとんどはフィクションでこの物語では、ウィリアム・シェイクスピアがハムネットの死や家族との関係に向き合って受け入れる様子が描かれている[35]。
北アイルランドの小説家マギー・オファーレルの2020年の小説『ハムネット』はハムネットの生涯に関するフィクションである[36][37]。2025年にクロエ・ジャオ監督で映画版が作られ、ジャコビ・ジュープがハムネット役を演じた[38]。