ハンス・ハインリヒ・ラマース
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| ハンス・ハインリヒ・ラマース Hans Heinrich Lammers | |
|---|---|
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親衛隊中将の制服を着用したラマース(1938年) | |
| 生年月日 | 1879年5月27日 |
| 出生地 |
ルブリニッツ (現: |
| 没年月日 | (1962-01-04) 1962年1月4日(82歳没) |
| 死没地 |
デュッセルドルフ |
| 出身校 |
ブレスラウ大学 ハイデルベルク大学 |
| 前職 | 陸軍軍人、弁護士 |
| 所属政党 |
(1932年 - 1945年) |
| 称号 |
親衛隊名誉大将 |
| 配偶者 | グリツィヴェ・エルフリーデ・ラマース |
| 内閣 | ヒトラー内閣 |
| 在任期間 | 1939年11月30日 - 1945年4月24日 |
| 総統 | アドルフ・ヒトラー |
| 内閣 | ヒトラー内閣 |
| 在任期間 | 1937年12月1日 - 1945年4月24日 |
| 総統 | アドルフ・ヒトラー |
| 内閣 | ヒトラー内閣 |
| 在任期間 | 1933年1月30日 - 1945年4月24日 |
| 大統領 総統 |
パウル・フォン・ヒンデンブルク アドルフ・ヒトラー |
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| 軍歴 | |
|---|---|
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親衛隊少将の制服を着用するラマース(1937年) | |
| 所属組織 |
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| 軍歴 |
1905年 - 1906年 1914年 - 1919年 (ドイツ帝国陸軍) 1923年 - 1932年(?) (鉄兜団) 1933年 - 1945年 (親衛隊) |
| 最終階級 |
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| 除隊後 | 裁判官、司法官僚、政治家 |
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ハンス・ハインリヒ・ラマース[* 1](ドイツ語: Hans Heinrich Lammers,1879年5月27日 - 1962年1月4日)は、ドイツの裁判官、司法官僚、政治家。ナチス・ドイツの首相官房長官(ドイツ語版)(首相府長官)、ヒトラー内閣の無任所大臣を務め、マルティン・ボルマンと共にアドルフ・ヒトラーの側近として権勢を振るった。陸軍での最終階級は予備役大尉で、親衛隊の最終階級は、親衛隊名誉大将である。
生い立ち
上シレジアのルブリニッツ(現在のポーランド領ルブリニェツ(英語版))に出生。父は獣医であった。プレスの福音派公爵学校に通い、アビトゥーア取得後、ブレスラウ大学やハイデルベルク大学に通い、1904年に法学博士の学位を取得した[1]。法学を修めている間にプロイセン陸軍の第4下士官候補生連隊に一年志願兵として従軍し、1906年に予備役少尉に任官された。軍を除隊した後は大学教授の助手として勤務した。
1907年に司法試験に合格し、プロイセン司法省に入省。1908年にはベルリン地方裁判所および第6軍管区高等軍事裁判所の弁護士資格を取得。当初はブレスラウとベルリンで裁判官補佐を務め、弁護士代理兼補助判事として上シレジアのボイテン地方裁判所に異動し、1912年には同裁判所の裁判官となった。1913年4月29日、グリツィヴェ・エルフリーデ・テペルと結婚し、1914年と1918年にそれぞれ娘を生んだ。
第一次世界大戦
予備役将校であったラマースは第一次世界大戦の際に召集され、当初はグライヴィッツ駐在の予備大隊に配属された。その後は陸軍第51予備歩兵連隊に所属し、ヴォイルシュ軍団(ドイツ語版)に従軍する。1914年12月には二級鉄十字章を受章し、予備役中尉に昇進するが、ウクライナのガリツィアでの戦闘中に重傷を負い、その結果左目を失い、それ以降彼は左目に義眼を着用した。その後はワルシャワ総督府(ドイツ語版)の文民行政機関に配属され、1916年8月に予備役大尉に昇進し、一級鉄十字章を受章した。最終的にドイツの傀儡政権ポーランド摂政王国の行政機関で財務部長を務めた。
ヴァイマル共和国時代
戦後は弁護士として活動し、1920年に内務省に入省し、1922年にはヴィルヘルム・クーノ内閣で内務次官となっている[2]。内務次官時代は憲法部門の専門家として、ドイツ共産党が提案したドイツ帝国構成諸国旧君主の財産接収(ドイツ語版)法案に反対した。このような経歴からラマースは典型的な国家保守主義の官僚であり、君主主義政党のドイツ国家人民党に入党し、党内右派に属した。他にも様々な右派団体に属しており、1919年には国家人民党に近い右派団体ベルリンナショナルクラブ(ドイツ語版)に入団し、1923年からは同じく国家人民党の友団体で退役軍人組織の鉄兜団に入団した[3][4]。1931年10月11日には、共和国に敵対するハルツブルク戦線の設立のための集会に参加したことを理由に、懲戒処分を受ける寸前であった。
保守主義者のラマースはドイツ社会民主党(SPD)の政治家を嫌悪し、ヴァイマル共和政に対しても拒否感を抱いており、1928年に内務大臣カール・ゼーフェリンク(SPD党員)に叱責を受けた。これはラマースが新聞記事にヴァイマル憲法を意図的に貶めるような内容を掲載したからである。なおゼーフェリンクの前任の内務大臣のヴァルター・フォン・コイデル(ドイツ語版)も民族主義者であり、後にナチ党に入党している。
ナチ党・国家幹部


1932年3月1日に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に入党(党員番号1,010,355)。すぐさま党の幹部となり、9月24日にプロイセン州で開催された党集会にヨーゼフ・ゲッベルスと共に出席し、党幹部としての活動を開始する[5] [6] 1933年のナチ党の権力掌握後にはヒトラーはラマースを首相官房長官(首相官邸長官)・国務長官に任命する[7]。同時に内相ヴィルヘルム・フリックの推薦で、全政府機関の主席法律顧問に任命された。ラマースはヒトラーと行政当局の間の連絡役として、党官房のマルティン・ボルマン、大統領府長官のオットー・マイスナー、そして1938年からは国防軍最高司令部総長のヴィルヘルム・カイテルと協議しながら業務体形を組織した。
1937年からヒトラー内閣の無任所大臣に就任し、1939年11月30日には国防閣僚会議のメンバーとなった[2]。同時期にT4作戦にも関与している[8]。ラマースはこうした立場に基づき、全政府機関から連絡と諮問を受けると同時に、全ての政治文書をヒトラーに届く前に検閲することが出来、政権内で影響力を持った。ヒトラーのしばしば突発的な意図や計画を行政上適合可能なまでに集約し、法律文書に変換して、その実行と実施を確保したのもラマースであった。ラマースはかつての恩師であり、1936年にオリンピック組織委員会委員長に就任していたテオドール・レヴァルト(ドイツ語版)とヒトラーの会見をセッティングし、ベルリンオリンピックへの寛大な資金援助を確保するのに貢献した[9]。官僚たちにとって、彼はヒトラーに代わりドイツの権威を代表する存在として映り、歴史家のマーティン・キッチンは、これらの点からラマースを「ナチス・ドイツにおける最重要人物の一人」と述べている[10]。
1933年9月29日には親衛隊(SS)の名誉指導者 (隊員番号118.404)となり、親衛隊上級大佐の階級が与えられた。1935年4月20日に親衛隊少将、1938年1月30日に親衛隊中将、1940年4月20日に親衛隊大将と昇進している[2]。また1933年には、ドイツ法律アカデミーの創設メンバーの一人となり[11]、同年末からはドイツ行政アカデミーの指導者を務めた[12]。
1937年からラマースは、フォン・デア・ハイト通り18番地の宮殿(現在のプロイセン文化財団(ドイツ語版)の本部)を住居として利用できるようになった。1944年にヒトラーは、彼の功績を称え、60万ライヒスマルクの褒賞金とともに、ヴェルベリン湖(ドイツ語版)にある旧皇室の狩猟小屋を彼に贈った。
権勢の低下

ラマースは1939年8月30日に国防閣僚会議の議員に任ぜられたほか、1943年1月からはヒトラーの不在時に閣議が招集された場合にはラマースがヒトラーの代理を務めることと定められた。彼は党官房長マルティン・ボルマンとともにヒトラーの面会相手をコントロールしたため、強大な権力を持った。同年の公用文書で「大ドイツ国(Großdeutsches Reich)」の国号を初めて用いたのも、ラマースによるものであった[13]。スターリングラード攻防戦後の1943年2月には、ボルマンとラマースは、党を代表するボルマンと政府を代表するラマースと軍を代表するヴィルヘルム・カイテルによる「三人委員会」を創設した。しかし、ゲッベルスやアルベルト・シュペーア、ヘルマン・ゲーリング、ハインリヒ・ヒムラーなど他のナチ党幹部に警戒されて、1944年に解散した。さらに、戦局の悪化で党・軍・官庁の連携が失われていったことでラマースの影響力は低下し、反対にボルマンの影響力は増大していった[14]。
大戦末期の1945年4月24日、ラマースはゲーリングの「反逆」に関与した容疑で逮捕された。これはボルマンの陰謀であった可能性があるが、ヒトラーは銃殺に反対したため命は助かった。彼は5月にアメリカ軍によって解放されたが、オーバーザルツベルクにいた妻エルフリーデはこの拘束の最中に自殺しており、2日後には娘イルゼも自殺した[15]。解放後、ラマースはゲーリングをはじめとする党と軍の幹部と共に、モンドルフ=レ=バン(英語版)のアシュカン収容所に収容された。
逮捕と死去


敗戦後の1946年4月8日から9日にかけて、ニュルンベルク裁判の証人として出廷した。その後は彼自身も戦争犯罪と人道に対する罪、でニュルンベルク継続裁判の1つ「大臣裁判」にかけられ、1949年4月11日に懲役20年の判決を受けた。1951年1月31日に駐ドイツ高等弁務官ジョン・J・マクロイの指示により10年に短縮された後、さらに恩赦されて12月16日には釈放された[16]。
参考文献
- Bullock, Alan (1962) [1952]. Hitler: A Study in Tyranny. London: Penguin Books. ISBN 978-0-14-013564-0
- Evans, Richard (2006). The Third Reich in Power. New York: Penguin Books. ISBN 978-0-14-303790-3
- Fischer, Klaus (1995). Nazi Germany: A New History. New York: Continuum. ISBN 978-0-82640-797-9
- Kitchen, Martin (1995). Nazi Germany at War. New York: Longman. ISBN 978-0582073876
- Wistrich, Robert S. (1995). Who's Who in Nazi Germany. London and New York: Routledge. ISBN 978-0-41511-888-0
脚注
注釈
- ↑ 姓は「ランメルス」と訳されることもある。
出典
- ↑ Dissertation: Die Rentenschuld des Bürgerlichen Gesetzbuchs
- 1 2 3 Robert S. Wistrich, Who's Who in Nazi Germany (London and New York: Routledge, 1995), 149.
- ↑ Bert Hoppe (Bearb.): Sowjetunion mit annektierten Gebieten II. Generalkommissariat Weißruthenien und Reichskommissariat Ukraine (= Die Verfolgung und Ermordung der europäischen Juden durch das nationalsozialistische Deutschland 1933–1945. Band 8). Walter de Gruyter, Berlin 2016, ISBN 978-3-486-78119-9, S. 264, Anm. 2.
- ↑ Volker Koop: Hans-Heinrich Lammers. Der Chef von Hitlers Reichskanzlei. Bonn 2017, S. 18.
- ↑ Lammers, Hans Heinrich (1879-1962) auf Zukunft braucht Erinnerung
- ↑ Zukunft braucht Erinnerung: Lammers, Hans Heinrich (1879–1962) (Memento vom 24. 4月 2015 im Internet Archive).
- ↑ Hans Heinz Sadila-Mantau, German political profiles, Terramare Publications, Berlin, 1938
- ↑ Raimond Reiter: Hitlers Geheimpolitik. Verlag Peter Lang 2008, ISBN 3-631-58146-7, S. 92.
- ↑ Arnd Krüger, Rolf Pfeiffer: Theodor Lewald und die Instrumentalisierung von Leibesübungen und Sport. In: Uwe Wick, Andreas Höfer (Hrsg.): Willibald Gebhardt und seine Nachfolger (= Schriftenreihe des Willibald Gebhardt Instituts. Bd. 14). Meyer & Meyer, Aachen 2012, ISBN 978-3-89899-723-2, S. 120–145.
- ↑ Martin Kitchen, Nazi Germany at War (New York: Longman, 1995), 11.
- ↑ Jahrbuch der Akademie für Deutsches Recht, 1. Jahrgang 1933/34. Hrsg. von Hans Frank. (München, Berlin, Leipzig: Schweitzer Verlag), S. 255.
- ↑ In: Uwe Hoßfeld, Jürgen John, Oliver Lemuth, Rüdiger Stutz (Hrsg.): Kämpferische Wissenschaft: Studien zur Universität Jena im Nationalsozialismus. Böhlau, Köln/Weimar 2003 (Google Books).
- ↑ Erlass RK 7669 E ウィキメディア・コモンズ
- ↑ Klaus Fischer, Nazi Germany: A New History (New York: Continuum, 1995), 312.
- ↑ NNDB
- ↑ Robert S. Wistrich, Who's Who In Nazi Germany (New York: Routledge, 2001), p. 149. Nonetheless, there are conflicting reports about his release date. According to Zentner and Bedürftig, in The Encyclopedia of the Third Reich vol. 1 [A-L] (New York: MacMillan Publishing, 1991), p. 254, Lammers was not released until 1954. Dr. Louis Snyder has him released sometime in 1952 in Encyclopedia of the Third Reich (New York: McGraw-Hill, 1976), p. 204, Gerald Reitlinger reported Lammers free in November 1951 in The SS: Alibi of a Nation, 1922-1945 (New York: Da Capo Press, 1989), p. 470, Tim Kirk claims Lammers was released sometime in 1951 in The Longman Companion to Nazi Germany (New York: Routledge, 1995), p. 222, Roderick Stackelberg has him amnestied at an unspecified 1951 date in The Routledge Companion to Nazi Germany (New York: Routledge, 2007), p. 220, as does William Shirer in The Rise And Fall Of The Third Reich (New York: Simon & Schuster, 1990), p. 965 fn.
| (1933年1月30日 – 1945年4月30日) | |
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| 副首相 | |
| 外務相 | |
| 内務相 | |
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