オーストリア・ハンガリー軍はドイツ軍の浸透戦術を間近に見ながらこれを学習せず、持てる戦力を前面に配置しての平押しに訴えた。一方で兵員面では東部戦線帰りの兵士達はドイツ軍式の訓練を受けていたので、新しい戦闘に対応できる錬度の高さを保っていた。
しかし軍事的な改革はイタリア軍の側にもあり、アルマンド・ディアズ将軍はカポレットの敗因を分析して、最たる原因は「機動的な防御」の欠如にあると判断した。詳細だが柔軟性に欠ける作戦計画、司令部を中心にした余りにも現場主義が欠如した指揮系統、そしてカドルナの死守命令の乱発によって硬直化した防衛線、全てが敗北の原因となっていた。ディアズは連続塹壕の廃止と柔軟な指揮系統への改革を推進し、小規模な部隊でも前進と後退や砲撃支援を自主的に判断出来るようにして、現場主義による柔軟な防御戦術を獲得した。更に13個の師団に関しては自動車による補給を本格的に導入、劇的に前線の補給状態を改善した。
オーストリアの攻勢作戦が発動されると、ディアズ将軍はボロイェヴィッチのピアーヴェへの攻勢を予測して、6月15日午前3時00分に先制砲撃を行った。攻勢で混雑していたボロイェヴィッチ軍の上空に砲弾が降り注いで大量の負傷者が発生、うろたえたオーストリア兵の多くは攻勢を放棄して陣地に逃げ戻った。それでも一部の師団はイタリア軍陣地に到達したので、ボロイェヴィッチ将軍はピアーヴェ川の中央に攻撃を命じた。ピアーヴェ川に掛かる橋を進むオーストリア軍とイタリア軍陣地の激しい交戦はイタリア側に軍配が上がり、ボロイェヴィッチの退却命令でオーストリア軍は退却した。
翌日にボロイェヴィッチは二度目の攻勢を開始したが、前日の戦いでピアーヴェ川の橋は完全に破壊されていて渡河しか手段はなかった。運良く川を渡れた師団は装備や物資を少数しか持ち込めず、更にピアーヴェ川の増水で渡河中のオーストリア軍師団が彼方此方で孤立してしまっていた。彼らはイタリア軍師団にとって格好の標的として無慈悲な銃火に晒され、川岸に僅かな橋頭堡を確保した時点でオーストリア軍は2万人という大量の戦死者を出していた。そして6月19日、ディアズはイタリア軍師団に反撃を命令して川岸の橋頭堡を奪還、6月23日までにボロイェヴィッチ軍は敗走を開始した。
ボロイェヴィッチ軍の敗北とほぼ同時期にコンラートの遠征軍がヴィチェンツァを目指して別地域から攻撃を開始した。コンラート軍の攻撃は4万人の損害を出す以外に意味する所は無かった。