ファット・フェイス (書体)

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マシュー・カーターがデザインしたデジタル・ファット・フェイス書体「Elephant」。ヴィンセント・フィギンズ英語版の書体を基にしている[1]

タイポグラフィにおいてファット・フェイス(fat face)とは、ディドニ(モダン)様式のセリフ書体、またはレタリングの一種で、極端に太いデザインを特徴とする[2]。ファット・フェイスは1805年から1810年頃にロンドンで登場して広く人気を博し、ジョン・ルイス英語版はこれを「最初の本格的なディスプレイ書体」と評している[3][4][5][注釈 1]

インライン書体や影付き書体などの装飾的な書体やレタリングは、それ以前にも存在したが、ファット・フェイスの極端なデザインと、非常に大きなポスターサイズで制作されたことは、19世紀初頭のディスプレイ・タイポグラフィに即座に影響を与えた。歴史家ジェームズ・モズリーは、ファット・フェイスを「その商業的メッセージを叩きつけるため、海軍の舷側砲撃のように、重い金属の攻撃的な重量感によってデザインされた」と表現する[1]。また(スラブセリフ書体とは異なり)、「太い線は非常に太いが、細い線はそのまま、つまり相対的に見れば極めて細いままだった」と述べている[1]

19世紀には、この同じスタイルの文字が活字書体としてだけでなく、建築、墓石、看板などのカスタムレタリングとしても広く用いられた。ローマン体正立体)やイタリック体で制作されたほか、太い主線の内側に白い線を入れたり、果物や花などの模様や装飾を施したりするデザインもあった。ファット・フェイスは、その直後に登場したスラブセリフ書体とはスタイルが異なる。スラブセリフでは、セリフ自体も太くデザインされている。

1840年代頃のロンドンのポスター
初期の劇場ポスター(1808年)。本文用書体に近い書体のみで構成されている。
1818年のポスター。様式が完全に変化している。全体にわたりファット・フェイス、あるいは少なくともボールド体の字形が用いられ、主要な見出しはインライン・イタリック体である。

1750年以降の100年間で、活字鋳造所英語版が提供する活字のスタイルは大きく変化した。この時代の初め、ラテンアルファベットの印刷に用いられるフォントは主に書籍印刷を目的としていた。本文用書体に対応するボールド体を持つという現代的な概念は存在せず、より太い文字で強調する場合は、いくつかの太い見出し用大文字書体が用いられるか、あるいはブラックレター体が用いられることもあった[7]

1475年頃のローマン体の登場から18世紀後半に至るまで、文字デザインの発展は比較的緩やかであった。当時のフォントの大半は本文用であり、そのデザインは類似したものにとどまっていた。これは、各地域の筆記スタイルや、より新しい「尖ったペン」によるカリグラフィーの様式が、活字デザインにおいて一般に取り入れられていなかったためである[8][注釈 2]

ファット・フェイス書体はBodoni(上)のようなモダン・フェイス書体と同様に細い横画を持つが、縦画ははるかに太い。

17世紀後半から、活字鋳造所は現在トランジショナル体、そしてディドニ体と呼ばれる書体の開発を始めた。これらの書体は、大胆なまでに細い水平線とセリフの細部を特徴としていた。これは、同時代の硬質なカリグラフィーや銅版彫刻の様式に追随し、当時高度化しつつあった紙や印刷技術を誇示するものであった[9][10][11]。さらに、ディドニ体は例外なく垂直のストレス(線の太さの強弱)を持ち、垂直線が水平線よりも太く設計されたため、より幾何学的でモジュール化されたデザインが生み出された[注釈 3][12][13]

19世紀初頭の主要な動向は、印刷ポスターの登場と、広報や広告素材における印刷利用の増加であった。これにより、人目を引く新しい書体を印刷に用いたいという需要が生まれたと考えられる[14][15][16][17]。ポスター用途を明確に意図した大きな活字は、18世紀後半にロンドンで現れ始めた。活字鋳造家のトーマス・コットレル、ならびに1764年までにウィリアム・カスロン2世によって導入されたが[18]、それ以前にも書籍のタイトル用に砂型で大型の金属活字を鋳造する手法は、何世紀にもわたり用いられていた[19][20]。カスロンの活字は、見本シートに町名を列挙し、駅馬車サービスでの使用を想定して販売されていたようである[21]。これらの活字は建築の文字に関する教科書の影響を受けていたものの、なお本文用書体を拡大したものに近く、新しい出発点とは言いがたかった。しかし、後にファット・フェイス体やモダン・フェイス体全般が踏襲する先例を一つ確立した。それは、数字が高さの異なる従来のテキスト数字ではなく、一定の高さに揃えられていたことである[22][注釈 4]

「ファット・フェイス」という用語自体は、現代のジャンル名よりも古い。この語は、標準ウェイトより太い書体(ただし現代の基準ではわずかに太い程度)を意味し、1683年にジョセフ・モクソン英語版が「太いステムの文字」として用いた[23]。19世紀の印刷に関する参考文献でも、以前より太いが本文英語版の印刷を意図した新しいディドニ体を指す語として用いられていた[24]

初期の登場

ロバート・ソーンが1803年の見本帳で示した、後にファット・フェイス・スタイルとなる初期の書体[25]

モズリーによれば、「(ファット・フェイスの文字の)成長は既存のモデルから連続的に追跡することができる。同時代の建築レタリングにも明確な並行関係が見られ、印刷活字においては、その太さは着実に増していった」とされる[26][注釈 5]

1816年頃の初期の作例。特に太くはない[31]。この形式の「W」はラウンドハンド英語版のカリグラフィーで一般的だった[32][33]

同時代の二つの資料は、ファット・フェイス書体が活字鋳造業者ロバート・ソーン英語版によって普及したという点で一致している[34]。ソーンは、大型ポスター用活字の先駆者トーマス・コットレルのもとで見習いを経たのち[35]、ロンドン北部に自身の会社、通称ファン・ストリート鋳造所英語版を設立した[35]トーマス・カーソン・ハンサード英語版は(1825年)、「現在、商業用印刷物で流行している極めて太いファット・レターは、主に気鋭で成功した活字鋳造業者であるソーン氏の導入に負うところが大きい」と述べている[35]ウィリアム・サヴェージ英語版も(1822年)、「彼は掲示広告に起こった革命において、ファット・タイプの導入によって主要な役割を果たした」と記している[36]。しかし、この時代の書体見本帳やソーンの鋳造所に由来する現存資料は少なく、この説の裏付けは困難である。加えて、当時の書体見本帳は、掲載書体について一切の解説を付さないのが通例であった[29][37][38][39]セバスチャン・モルリゲムフランス語版は見本帳の研究にもとづき、この流行はソーン単独の力で推進されたものではないと考え、「あまり知られていないが、カスロン鋳造所英語版も決定的な貢献をした」とし[40]、「複数の人物——パンチカッター、鋳造業者、印刷業者、出版業者——がその開発と普及に関与したと見るのがより正確である」と指摘している[41]

これらの書体の顧客について、モズリーは宝くじ販売代理店主トーマス・ビッシュを、その背後にいた存在と「見るのは魅力的である」と述べている。トーマス・ビッシュは同名の親子が存在し、派手で人目を引く広告で知られた宝くじプロモーターとして著名であった[注釈 6]。モズリーは、後年の書体見本帳で「Bish」という一語のみでファット・フェイスが紹介されている点を重視し[注釈 7]、ビッシュのポスターが当初は「木版に彫られた重厚なローマン体で始まり、ファット・フェイス活字の利用が可能になるとそれに取って代わられた」と指摘する[26]。さらに、ファット・フェイスはよく設計された太字の数字を備えていたため、価格表示を要する広告の植字に理想的であったと論じている[46]

普及

1838年。同一テキスト内で、極太から平均よりやや太い程度までのさまざまな太さの字形が用いられている。
1829年、ニューヨーク州オールバニのA.W. Kinsley & Co.による極めて太いファット・フェイス。カウンターはごく小さなスリット状にまで狭められている、

ファット・フェイスは急速に普及した。初期のポスター用書体や見出し用大文字書体は一般にローマン体の正立体のみであったが、ファット・フェイスはローマン体とイタリック体の両方が作られた[29]。A、M、N、V、W、Yのスワッシュ・キャピタルも一般的で、カスロン活字鋳造所はこれらを紹介するために「VANWAYMAN」という文字列を見本として使用した[29][47][注釈 8]。また、かなり小さいサイズまで作られていた[29]

1841年のカスロン鋳造所英語版の見本帳では、スワッシュ・キャピタルの見本として「VANWAYMAN」の文字列が使われている。

ファット・フェイスはアメリカでも使用され、墓石にも用いられた[49][50]。アメリカでは、1810年代に新聞の題字にファット・フェイスを用いることが流行したが、その後はブラックレターに取って代わられることが多かったと、バーンハーストとネローネは指摘している[51]

モズリーは、ヴィンセント・フィギンズ英語版の鋳造所の書体(マシュー・カーターによってElephantとしてデジタル化された)を特に高く評価しており、「誇張は、少しでも全体の一貫性を保とうとするならば、デザイナーに大きな負担を課す。ヴィンセント・フィギンズのファット・フェイスを彫った人物が誰であれ、その問題を、エレガンスとしか言いようのない手腕で処理した」と述べている[52]。各活字鋳造所は、コンデンス体、ワイド体、コントライタリック(逆傾斜イタリック)体などの新たなバリエーションを追加した[29][53][54]。これをきっかけにほかのディスプレイ書体も急増し、1821年までに登場したリバースコントラスト書体は、ファット・フェイスのスタイルを反転させたものと見なすことができる[55][56]

装飾書体

A geometric ornamented typeface
An ornamented typeface with vines and grapes on a stippled background.
オースティン活字鋳造所の1838年の見本帳に掲載された2種の装飾活字[57][注釈 9]

単純な書体だけでなく、模様や装飾を施したバリエーションもデザインされた。これらは単純なインライン(輪郭の内側に線を入れる)から、花や収穫といった主題のアートワークまで多岐にわたった。装飾的なファット・フェイスは木に彫られ、ダビング(型取り)やステロタイプといった技法で複製された。ステロタイプは、固まりかけの溶融金属に木製の原版を押し当てて鋳型を作る技術である[59][60][19][61]

装飾書体のデザインで特に知られた活字鋳造所のひとつに、1818年[注釈 10]から1830年まで活動したロンドンのルイ・ジョン・プーシェ英語版の鋳造所がある[28][61]。プーシェはフリーメイソンであり、彼の鋳造所の活字の一部はフリーメイソンのエンブレムから着想を得ていた。彼が用いた木製原版の多くは現存している[62][63][64][注釈 11]。これらの活字は非常に目を引いたが、実際に多用されたかは定かでない。ジョン・ドレイファス英語版は、印刷史家でありフリーメイソンでもあったエリック・ハウが、プーシェのフリーメイソン活字が用いられた印刷物を一点も見つけられなかったと報告している[65]。ドレイファスは、プーシェの装飾活字の緻密なディテールは当時の商業用印刷物には実用的でなく、また一部のデザインは、想定された市場である劇場のポスターやチラシには大きすぎたのではないかと示唆した[65]。最終的に、大型の金属活字は短期間しか使われなかった。より軽量で安価な、ルータパントグラフ英語版で彫られた木製ディスプレイ活字英語版にすぐに取って代わられたからである[61][66]

太字のレタリングは、当時の銅版画地図などにも見られる。デジタルフォントデザイナーのアンディ・クライマーの報告によれば、銅版画地図では太字のレタリングは全面を黒く塗りつぶすのではなく、彫り残しによって装飾的に処理することが一般的であったという。「太くなるほど、単に塗りつぶされるのではなく、何らかの装飾が施されることが多かった」[67]。この傾向は、19世紀初頭に英国陸地測量部英語版が内部で使用した書体見本帳『A Specimen of the Print Hands』にも見られ、最も太い書体には装飾が施されている[46][68]

19世紀後半

19世紀後半には、新種のディスプレイ書体が急増した[69]。1863年、マドラスの印刷業者H・モーガンは、ファット・フェイス体の文字が「今ではほとんど使われない」と記している[70]。1901年には、アメリカの有力な印刷業者セオドア・ロウ・ド・ヴィニが、このスタイルを「ばかばかしさの格好の見本」と批判した[71]

もっとも、「ファット・フェイス」という用語は、極太のポスター書体だけでなく、より太い書体全般を指す語として使われ続けた。1893年、アメリカの主要な活字鋳造所マッケラー・スミス・アンド・ジョーダン英語版社のウィリアム・B・マッケラーは、植字工の賃金体系を論じる中で、ファット・フェイスと称される字幅の広い本文用書体を示している[72]

20世紀以降

注釈

脚注

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