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ベニー・アグバヤニ

アメリカ合衆国の野球選手 From Wikipedia, the free encyclopedia

ベンジャミン・ピーター・“ベニー”・アグバヤニ(Benjamin Peter "Benny" Agbayani , 1971年12月28日 - )は、アメリカ合衆国ハワイ州ホノルル出身の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。千葉ロッテマリーンズでの登録名は「ベニー」。

生年月日 (1971-12-28) 1971年12月28日(54歳)
身長
体重
183 cm
100 kg
概要 基本情報, 国籍 ...
ベニー(ベニー・アグバヤニ)
Benny Agbayani
2015年12月5日
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ハワイ州オアフ島ホノルル
生年月日 (1971-12-28) 1971年12月28日(54歳)
身長
体重
183 cm
100 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手、指名打者
プロ入り 1993年 MLBドラフト30巡目
初出場 MLB / 1998年6月17日
NPB / 2004年3月27日
最終出場 MLB / 2002年9月29日
NPB / 2009年9月27日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
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来歴

MLB時代

ニューヨーク・メッツ時代

1993年のMLBドラフト30巡目でニューヨーク・メッツに指名され契約。

1994年8月から1995年4月にかけてMLB史上最長のストライキが実施された影響で、1995年のスプリングトレーニングには球団フロントの命で代替選手として参加。そのため、MLB選手会からはスト破りを行った報復措置として、メジャー昇格後も選手会への加入を認められなかった。

1996年、ハワイ・ウィンターリーグに参加。所属したヒロ・スターズ(英語版)の監督はトレイ・ヒルマンであり、後にニューヨーク・メッツで同僚となる新庄剛志も派遣されていた[1]。

1998年、メジャー初昇格。2000年に東京ドームで行われたシカゴ・カブスとの試合では代打満塁本塁打を記録している。

2002年にコロラド・ロッキーズに移籍。シーズン途中にはボストン・レッドソックスに移籍した。シーズンオフには、中日ドラゴンズがケビン・ミラーを獲得発表しながら、ウェイバー公示で紳士協定を破り入札したレッドソックス側から、ミラーの譲渡要求と、その代替選手としてベニーの名前が挙がったが、中日側が拒否したことで来日には至らなかった(いわゆるケビン・ミラー問題。その後、中日はミラーの代わりとしてアレックス・オチョアを獲得)[2]。

2003年は、カンザスシティ・ロイヤルズ傘下の3Aオマハで.238、16本、OPS.784[3]の成績に終わり、MLB昇格はならなかった。同年オフ、ボビー・バレンタインが9年ぶりに一軍監督として復帰する千葉ロッテマリーンズに入団することが決まる。背番号は50。

ロッテ時代

2004年は開幕戦の対西武ライオンズ戦(西武ドーム)に5番・左翼手で先発出場し、初回の来日初打席で西武先発の松坂大輔からタイムリーヒットを記録。キャンプ中から前年韓国で56本塁打を放った実績を引っさげて来日した李承燁に注目が集まっていたが、李は日本野球への適応に苦しみ、わずか1ヶ月で二軍に降格。一方のベニーは打率3割を上回る好調な打撃を維持し、5月には4番の座を奪取。日替わり打線の中でベニーだけはシーズン終了まで不動の4番として定着し、最終的にチーム三冠となる打率.315、35本塁打、100打点、さらに両リーグ最多の86四球も記録してシーズンを終えた[注 1]。また守備・走塁の面でも外国人としては期待以上の動きを見せ、8月からは中堅手のレギュラーとして活躍し、チームトップの8盗塁を記録した。しかし、ベストナインはSHINJO、谷佳知、和田一浩に敗れて選出されなかった。

2005年は4月6日と8日に2試合連続満塁本塁打を放つ(2003年のタフィ・ローズ(近鉄)以来日本プロ野球史上5人目、パ・リーグ史上4人目)など活躍するが、故障が目立ち夏場に離脱。ベニーと同じく外国人で外野を守れる選手がマット・フランコ、ヴァル・パスクチ、李承燁と3人もいたこともあり、シーズン終盤はレギュラーを再び獲得するまでには至らなかった。最終的に98試合の出場に終わり、規定打席にも到達せず前年を下回る成績に終わったが、プレーオフ、日本シリーズ、アジアシリーズではほとんどの試合に6番でスタメン出場し、アジアシリーズでは9打点の活躍でMVPを獲得した。

2006年はワールド・ベースボール・クラシック日本代表のエキシビションゲームにおいて、12球団選抜チームの4番を務めた[4][5]。レギュラーシーズンでも7月まで4番の座を守ったが、この年も夏場に離脱し、里崎智也に4番を譲る形となった。足の故障から半分以上が指名打者としての出場となったが2年ぶりに規定打席に到達し、打率.281、17本塁打、65打点を記録した。

2007年は交流戦では首位打者を獲得したが、故障の影響で122試合の出場で打率.272、13本塁打、51打点に終わった。

2008年も故障や不振の影響で97試合の出場に終わり、本塁打も5本にとどまり、規定打席に到達することなくシーズンを終えた。

2009年も前年と同様の起用法がなされ、バレンタイン監督の退任が決まると同時にベニーもチーム構想から外れた。バレンタインの計らいで9月27日の対オリックス・バファローズ戦が「引退試合」となり、2回裏に山本省吾から勝ち越しのソロ本塁打を打った直後の3回、早川大輔と交代。場内アナウンスで、「ベニー選手、ただ今の打席がマリーンズでの最終打席となりました」と、ファンに向けて唐突に退団が明かされた[注 2][6]。同年は95試合の出場に終わり、10月7日にチェイス・ランビンとゲイリー・バーナム・ジュニアと共に退団が発表され、現役を引退した。

引退後

故郷のオアフ島で、高校の教育アシスタントをしていた[7]。2016年にサブロー、2019年に福浦和也の引退試合にビデオメッセージを送り、ファンに健在をアピールした。

現在はハワイアン航空職員として働いており、同航空会社の公式Twitterに登場した[8]。また、2018年に千葉ロッテマリーンズがハワイアン航空とパートナーシップ契約を締結したことに伴い、ハワイアン航空側の広報として「謎の魚」(千葉ロッテのマスコットキャラクターの一つ)とコラボレーションをたびたび行っていた[9]。

選手としての特徴

パワーに加えて柔軟性もある打撃が特徴[10]で、外に逃げる変化球にバットがしっかりと止まるため三振が少なく、チームプレーに徹した打撃もできる[11]。また、接戦や試合終盤での勝負強さに定評があり、2006年は1点差以内の得点圏打率が4割を超え、9回の打率は.394を記録した[10]。守備も悪くなく[11]2004年当初は中堅手の起用が多かったが、故障の影響もあり翌年以降は左翼手や指名打者での起用が増えた。

後年は長打力に衰えが見られたが、通算613安打は球団の外国人野手としては歴代4位であり、在籍6年は千葉移転後の最長記録である[12]。

人物

性格は温厚で、頭部付近に危険球が来ても基本的には何事もなかったかのようにやり過ごしていたが、以下のように例外もある。

  • 2006年に本柳和也から死球を受けた際には、ベニーがヘルメットを地面に叩きつけあわや乱闘という状況になったが、本柳の降板後にベニーが相手ベンチ裏へ謝罪に向かい、握手を交わしたとのこと[13]。
  • 2008年9月24日の埼玉西武ライオンズ戦の4回表の攻撃では、里崎智也、フリオ・ズレータが死球を受け、さらにベニーがこのイニング3つ目の死球を受けた。これにはベニーも怒り、相手捕手の細川亨を首投げしたことから両チーム総出の大乱闘に発展。ベニーは暴力行為で退場処分を受けた[14]が、試合後に細川に謝罪し、和解している。

ハワイ出身にちなみ、「ハワイアン・パンチ(Hawaiian Punch)」の愛称で親しまれていた。背番号50は、ハワイ州がアメリカ合衆国50番目の州であることに由来している。ロッテ入団時には本人の希望もあり、当時背番号50を着けていた浅間敬太から譲ってもらう。ロッテでの応援歌はハワイ民謡の『アロハ・オエ』が原曲。

メッツ時代、2001年のシーズンにチームメイトだった新庄剛志と共に「チームの注目選手」として抜擢され、球団テレビCMで共演している。

ロッテ在籍中にチームメートの福浦和也の野球に取り組む姿勢に感銘を受け、2007年に誕生した息子のミドルネームに「カズヤ」と名付けた[8][15]。「カズヤ」の名前を付けられた息子ブルーイン・アグバヤニ(英語版)は2025年のMLBドラフトの指名候補に入った[16]。順位次第ではミシガン大学へ進学する予定だったが、MLBドラフトではミネソタ・ツインズから6巡目(全体179位)で指名を受けて[17]入団している。尚、ブルーインのポジションは外野手だった父親と異なり、内野手(遊撃手/二塁手/三塁手)である[18]。

詳細情報

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球 団 ...
年

度
球

団
試

合
打

席
打

数
得

点
安

打
二
塁
打
三
塁
打
本
塁
打
塁

打
打

点
盗

塁
盗
塁
死
犠

打
犠

飛
四

球
敬

遠
死

球
三

振
併
殺
打
打

率
出
塁
率
長
打
率
O
P
S
1998 NYM 1116151200020020010051.133.188.133.321
1999 1013142764279183141454264033243608.286.363.525.888
2000 11941435059101201151686055035427686.289.391.480.871
2001 913392962882142611827451136057311.277.364.399.763
2002 COL 481281171024504411900011000354.205.266.350.616
BOS 134337511100128100061051.297.395.324.720
'02計 611711541535604532710011610405.227.298.344.642
2004 ロッテ 13055245789144311352821008104861257710.315.426.6171.043
2005 9838935149952201315671110334015115.271.334.444.779
2006 118473417591171811718865430449037217.281.357.451.808
2007 122454390451062101316651740353188612.272.368.426.793
2008 97323279357912351124231014201518.283.378.401.779
2009 95320272237214171093103034411598.265.366.401.767
MLB:5年 383125410911452995863948615616161813971524631.274.362.445.807
NPB:6年 6602511216630061311869010133602313018308141939670.283.374.468.842
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  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績

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年

度
球

団
左翼 (LF) 中堅 (CF) 右翼 (RF) 外野 (OF)
試

合
刺

殺
補

殺
失

策
併

殺
守
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率
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合
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補

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失

策
併

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試

合
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併

殺
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率
試

合
刺

殺
補

殺
失

策
併

殺
守
備
率
1998 NYM 210001.00010000----650001.000-
1999 460001.0004749110.9804566110.985-
2000 390001.000102142330.980129010.900-
2001 -84123160.954--
2002 COL -37521001.000--
BOS 110001.0001120110.955330001.000-
'02計 110001.0004872210.987330001.000-
2004 ロッテ ---122205420.991
2005 ---7492220.979
2006 ---4557210.983
2007 ---91129420.985
2008 ---54630001.000
2009 ---39462001.000
MLB:5年 10170001.0002823867110.9736683120.977-
NPB:6年 ---4255921470.989
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表彰

NPB

記録

NPB初記録

背番号

  • 39 (1998年)
  • 50 (1999年 - 2002年、2004年 - 2009年)

関連情報

出演

CM

脚注

関連項目

外部リンク

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