ラーマ・デーヴァ・ラーヤ
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1614年、父王シュリーランガ2世やその家族が従兄弟ジャッガ・ラーヤに殺害されたとき、その息子であるラーマ・デーヴァ・ラーヤは運よく首都ヴェールールか脱出することに成功した。
ジャッガ・ラーヤはそののちヴィジャヤナガル王となったが、ラーマ・デーヴァ・ラーヤはタンジャーヴール・ナーヤカ朝のラグナータ・ナーヤカなどの助力を得て、1616年末に挙兵した。
1617年初頭、ラーマ・デーヴァ・ラーヤはヴェールール近郊のトップールでジャッガ・ラーヤを破り(トップールの戦い)、ヴィジャヤナガル王国の君主となった。
ラーマ・デーヴァ・ラーヤは権力を保持し、その統治は年を追うごとに自信に満ちたものになっていたが、オランダ東インド会社の職員アブラハム・ロヘリウスによると、その性格は粗暴で傲慢だったようだ。
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「かのブラーミネ(バラモンのパドマナーマ)が言うには、その次の王ラーマ・デーヴェロ(ラーマ・デーヴァ・ラーヤ)は金品や宝物にきわめて貪欲で、先代の例にならおうとするだけでなく、自らを飾り立てるために寺院の高価な宝石類を手に入れようとした。偶像の頭に載せられていたルビーとダイヤモンドをはめ込んだ高価な黄金の冠も、彼が目をつけた宝石類のひとつであった。しかしブラーミネの言うには、こうすることを助言した者がトリペティ(ティルパティ)寺院の建つ山の麓で死に、その直後に王も彼の後を追うことになった。ブラーミネによれば、それはまさに王が受けた当然の報いであった。彼が信ずるところによれば、そのようなことをする人間は罰せられないままでいることはできず、ほどなく報いを受けることになる」 | 」 |