ロッド・エヴァンス
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生い立ち
イングランドのスラウで生まれる。少年時代にロックン・ロールに興味を持ち、中学を卒業後、ロンドンに移る。
黎明期
1965年頃にMI5というバンドに加入。MI5はやがてメイズ(The Maze)[2]と改名し、ドラマーのイアン・ペイスを迎え[3]、1967年にはシングル・レコードを数作発売する[2]が、いずれも成功を収めることはなかった[注釈 1]。
ディープ・パープル
1967年12月、エヴァンスはジョン・ロードとリッチー・ブラックモアが新たに結成し始めたラウンドアバウトのオーディションに合格した[4][注釈 2]。
ラウンドアバウトは1968年夏にディープ・パープルと改名してデビュー[注釈 3]。彼等は、エヴァンスの在籍期間中、3作のアルバムを発表して「ハッシュ」と「ケンタッキー・ウーマン」のヒット曲を放った。
1969年4月初めから5月末まで行なわれた2度目のアメリカ・ツアーの途中、ロードとブラックモアはハード・ロックを指向してエヴァンスを辞めさせることを決意[5]。エヴァンスは6月にイギリス各地で行なわれたコンサート[5]を経て、7月4日のカーディフ公演を最後に[6]ディープ・パープルを去った。彼の後任にはイアン・ギランが迎えられた。
キャプテン・ビヨンド
エヴァンスはアメリカに渡り、キャピトル・レコードと契約してシングル'Hard To Be Without You' / 'You Can't Love A Child Like A Woman'を録音した。このシングルのプロモーション版[7]は1970年10月に制作されたが、正式発表はなく、未発表のままお蔵入りになった[8]。
1971年、元アイアン・バタフライのラリー・ライノ・ラインハルト(ギター)とリー・ドーマン(ベース・ギター)、ジョニー・ウィンターと優れた演奏を残したボビー・コールドウェル[注釈 4](ドラムス)とキャプテン・ビヨンドを結成した。
彼等は1972年7月にデビュー・アルバムを発表して高い評価を得た[9]が、アメリカでのセールスが振るわず商業的には苦戦を強いられた。エヴァンスは1973年、2作目のアルバムの発表[10]後に脱退した。
キャプテン・ビヨンドはメンバーの入れ替わりが激しく、軌道に乗らないまま1973年に活動を休止。1977年に再結成されたが、エヴァンスは参加しなかった。
偽ディープ・パープル騒動
1980年、エヴァンスはロック史に残る「偽ディープ・パープル騒動」を起こした。彼は1976年に解散したディープ・パープルの名前を騙ったバンドを無断で結成して活動したのである[11]。
彼はTom De Rivera(ベース)、Geoff Emery(キーボード)、Tony Flynn(ギター)、 Dick Juergens(ドラムス)という無名のミュージシャン達とディープ・パープルを名乗るバンドを結成して[12][注釈 5]、新聞に広告を載せ、1980年5月からアメリカ、カナダ、メキシコでコンサートを開いた。彼等はエヴァンスの在籍期間の曲ではない「スモーク・オン・ザ・ウォーター」「ハイウェイ・スター」なども演奏したが、実体は単なる偽者に過ぎなかった。それに気付いた観客は激怒して瓶などをステージに投げつけたという[13]。彼等は同年9月20日まで合計19回のコンサートを開き[14]、ディープ・パープルの管理会社が広告などで虚偽を知らせて[注釈 6]対抗した。
1980年6月、ディープ・パープルのマネージャーだったトニー・エドワーズとジョン・コレッタは、ロサンゼルスの連邦地方裁判所に訴えて、エヴァンスのバンドにディープ・パープルの名前を使わないように命令することを求め、商標に関するアメリカ合衆国の法律であるランハム法(Lanham Act)に基づいてディープ・パープルの管理側が受けた損害の賠償請求を訴えた。エヴァンスはコンサートの予約手数料(booking fee)の印税を受け取る唯一の人物になっていた[注釈 7]ので責任の全てを一人で負わされ、672,000ドルの損害賠償を命じられた。さらに彼は、自分が関わったディープ・パープルのアルバムの印税を所得する権利を放棄させられた[13]。
その後
この騒動の後、エヴァンスは表舞台から姿を消した。
ディープ・パープルのメンバーとは、2023年現在に至るまで絶縁状態にある。2016年にディープ・パープルがロックの殿堂入りを果たした時、彼は8名の受賞者に含まれた[15][注釈 8]が授賞式を欠席し、他の受賞者のスピーチでも彼の名前は一切挙がらなかった[16][17]。
