ローマ・アエクイ戦争
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ローマ・アエクイ戦争(ローマ・アエクイせんそう)は、古代ローマ初期の拡大期における、東隣のアエクイ族とのイタリア中央部での一連の戦争である。
ティトゥス・リウィウスによると、王政ローマ最後の王タルクィニウス・スペルブスがアエクイと平和条約を結んだという[1]。
アエクイ族はローマと、紀元前458年のアルギドゥス山の戦い(en)を含む、何度かの戦いを経験している。その中心部は紀元前484年にローマに占領され[2]、またそれから90年後にも再占領されている[3]。
紀元前5世紀の後半になると、ローマとアエクイ族の戦いの記録は減ってくる。この頃にはローマとアエクイ族の関係はより安定したものとなり、結果として襲撃の頻度も減ってきたのであろう[4]。
アエクイ族は第二次サムニウム戦争が終わるまで、征服されることはなかった[5][6]。
紀元前494年、ローマではパトリキ(貴族)とプレブス(平民)の対立が激化しており、それを見たウォルスキ族、サビニ族、アエクイ族は同時に軍事行動を起こした。この危機に、ローマはマニウス・ウァレリウス・マクシムスを独裁官に選出した。10個ローマ軍団が編成されたが、これはそれまで編成された最大の軍であり、うち3個軍団が執政官ティトゥス・ウェトゥリウス・ゲミヌス・キクリヌスの下アエクイ族と戦うこととなった。
アエクイ族はラティウムに侵略、ウェトゥリウスはラティウム同盟都市からの要請を受けて、ラティウムに向かった。ローマ軍が到着すると、アエクイ族はラティウムを離れ東側の安全な山中に撤退した[7]。
ローマ軍も直ぐにアエクイ軍野営地のある山岳部に向かった。アエクイ軍野営地は険阻な場所にあったため、ウェトゥリウスは早急な攻撃を行うことを望まなかったが、ローマでの政治問題のために早くローマに戻りたい兵士達は、直ちに攻撃を行うことを望んだ。このため、ローマ軍兵士達はアエクイ軍野営地に向かって丘を登り始めた。これを見たアエクイ兵はローマ軍の勇敢さに驚き、野営地を捨てて脱走した。ローマ軍は野営地を占領、遺棄された戦利品を確保し、無血での勝利を収めた[8]。
紀元前488年のローマの攻撃
紀元前488年、ローマを追放され復習に燃える将軍ガイウス・マルキウス・コリオラヌスとウォルスキ族のアッティウス・トゥッリウス(en)が指揮するウォルスキ軍がローマを攻撃・包囲した。コリオラヌスはローマ市内にいた母に説得され、撤退した。しかしウォルスキ軍は引き返し、ローマを再び攻撃、さらにアエクイ軍と合流した。しかし、アエクイはトゥッリウスを指導者として受け入れることを拒否、論争となりついには両軍の間に戦闘が発生した。結果、両軍とも弱体化し、どちらもローマの脅威ではなくなった[9]。