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三ヶ島葭子

日本の歌人 From Wikipedia, the free encyclopedia

三ヶ島 葭子(みかじま よしこ、本名:三ヶ島よし→倉片よし、1886年明治19年〉8月7日 - 1927年昭和2年〉3月26日 )は、日本の歌人である。

死没 (1927-03-26) 1927年3月26日(40歳没)
東京都麻布区谷町
墓地 埼玉県所沢市実蔵院
職業 歌人
概要 三ヶ島 葭子みかじま よしこ, 生誕 ...
三ヶ島 葭子
みかじま よしこ
1918年(大正7年)7月、宮城県宮床村原阿佐緒を尋ねた際、阿佐緒宅の庭で撮影。
生誕 三ヶ島よし
1886年8月7日
埼玉県入間郡三ヶ島堀之内村
死没 (1927-03-26) 1927年3月26日(40歳没)
東京都麻布区谷町
墓地 埼玉県所沢市実蔵院
職業 歌人
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 埼玉県女子師範学校中退
活動期間 1909年 - 1927年
ジャンル 短歌短編小説随筆
代表作 歌集「吾木香」
配偶者 倉片寛一
親族 倉片みなみ(長女)
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1886年(明治19年)8月7日、三ヶ島葭子は埼玉県入間郡三ヶ島堀之内村に、小学校の校長を務めていた父、三ヶ島寛太郎、母、三ヶ島さわの長女として生まれた。埼玉県女子師範学校入学後に文学に目覚め、短歌を制作するようになる。しかし埼玉県女子師範学校在学中に結核にかかり、休学したが病状が改善せず退学となった。一時期は回復が絶望視されたが、回復した葭子は1908年(明治41年)6月から東京府西多摩郡小宮村の小宮尋常小学校の代用教員となった。この小宮尋常小学校時代、『女子文学』などの雑誌に投稿する中で、短歌、随筆等で注目されるようになり、与謝野晶子の影響を受けて浪漫的な短歌を詠むようになった。また小学校教員時代、のちに夫となる倉片寛一と知り合い交際を開始した。1914年(大正3年)3月末に小宮尋常小学校を退職し、倉片との生活が始まる。

1914年(大正3年)12月には一人娘のみなみが誕生するが、葭子は倉片からの暴力に悩まされるようになる。娘の誕生後、葭子は育児と創作活動に精力的に取り組んだ。しかし1916年(大正5年)4月、葭子は結核を再発させ血痰を出し、その後、亡くなるまで多くの病に苦しめられる。結核の再発後、娘のみなみは夫、倉片の実家である所沢に預けられるようになり、また葭子は夫からの暴力とともに性関係の強要に苦しめられるようになる。そのような中で原阿佐緒との関係が強まり、阿佐緒の手引きにより『アララギ』に入門して、島木赤彦を師として写実的な短歌を制作するようになった。葭子は『アララギ』の女性歌人の中でも実力をつけていき、夫、倉片の協力により歌集『吾木香』が制作された。しかし葭子は親友の原阿佐緒と『アララギ』重鎮歌人の石原純との恋愛問題に巻き込まれ、1921年(大正10年)9月、『アララギ』を破門となる。『アララギ』破門後、葭子は古泉千樫を師とする。また夫の倉片は単身赴任先の大阪で愛人を作り、帰京後は愛人を自宅に呼び寄せ、妻妾同居の生活となった。やがて夫と愛人は別居するが、1924年(大正13年)8月には脳梗塞を発症して右半身麻痺と言語障害が残り、心臓疾患も併発した。しかし葭子は自在な表現を用いた、人となりが現れた胸に沁みるような優れた短歌を制作していき、晩年の作品は古泉千樫、原阿佐緒や歌人の斎藤茂吉、画家の中川一政らに絶賛された。

1927年(昭和2年)3月25日、葭子は脳梗塞を再発させ、翌26日に亡くなった。葭子の没後、夫の倉片と娘のみなみは葭子の歌集、日記などの刊行に尽力した。葭子ゆかりの所沢市は倉片みなみから葭子の遺品等の寄贈を受け、1994年(平成6年)5月、故郷所沢市三ヶ島に三ヶ島葭子関連の遺品、関連資料を展示する「三ヶ島葭子記念室」が開設された。

葭子の短歌の特徴としては、題材的に主に彼女の身の回りの世界であり、葭子の生涯や境遇を理解しなければ解釈、鑑賞が難しいとの指摘もあるが、困難な境遇を生き抜く姿や地道な愛を求め続けた姿勢から、私小説の抒情化であるとの意見があり、また自らの境遇を飾ることなくストレートに表現しており、そこには妻や母の立場での女性としての自我の確立が見られ、女性の近代短歌の出発点のひとつに位置付けられるべき歌人であるとの評価がある。また厳しい環境下にあっても自らを見失うことなく、作品を通じて当時の女性が置かれていた制度の桎梏、理不尽な地位、耐え続けなければならなかった不条理を告発したとの見方もある。その一方で、葭子は厳しい環境を打破するには至らず、現実に忍従する形で作品化しているとの意見もみられる。

生涯

誕生

中氷川神社

三ヶ島葭子は1886年(明治19年)8月7日、埼玉県入間郡三ヶ島堀之内村(現・所沢市)に生まれた[注釈 1][2]。葭子が誕生した頃の堀之内はサツマイモ、麦などを栽培する畑や田がある戸数約40戸の農村地帯であり[2]、街道が交わる三ヶ島には商店が並んでいた[3]。また所沢は俳諧や歌作が熱心な土地柄で句会などがしばしば開催されており、そのような文化的背景の中で三ヶ島葭子のような歌人が育っていった[4]

三ヶ島家の本家は代々中氷川神社の神職を務めていた[注釈 2][6]。葭子が生まれる2年前の1884年(明治17年)、中氷川神社に、有栖川宮幟仁親王筆の「日歌和翁之碑」と篆書された日歌和翁(ひかわおう)の顕彰碑が建立された[7]。日歌和翁はは義信といい、三ヶ島葭子の曽祖父であり、多くの門人を抱え、天保の大飢饉時などに貧民救済に尽力したことでも知られる著名な神職であった[8]。日歌和翁の二男、光五郎は本家から分家して中氷川神社の隣地で農業を営んだ。光五郎の長男が三ヶ島葭子の父、三ヶ島寛太郎であった[2][9]。寛太郎は数学を得意としていて、師範学校を卒業し、葭子の誕生時、三ヶ島小学校の校長を務めていた[2][9]。葭子の母、さわは東京都西多摩郡伊奈村(現あきる野市)の伊奈岩走神社で代々神職を務めていた宮沢家の出身であり、葭子は寛太郎、さわの最初の子どもであった[注釈 3][9]。生まれたばかりの長女は「無事に生まれたのだもの、男でも女でもどちらでもよし」と考えた父、寛太郎により「名前はなんでもよしよし、よしとしようではないか」と、三ヶ島よしと名付けられた[11]

小学校の校長を務めていた父の寛太郎は転勤が多かった。1888年(明治21年)、葭子が2歳の時、三ヶ島小学校から秩父郡槻川村(現・東秩父村)の小学校校長に転勤となるが、翌年には三ケ島村の隣村である小手指村(現・所沢市)に新設された小手指村尋常小学校の校長に任命され、一家で小手指村に住むようになった[2][12][13]。1890年(明治23年)には弟、栄一が生まれた[13]。寛太郎は英才と言われた人物であったが[14]、依怙地で融通が利かないところがあった[15]。葭子と親交があった中川一政は、三ヶ島家はどうも変わったところのある家で、父親の変わった血を葭子も受け継いでいたのではと語っている[16]

1892年(明治25年)4月、葭子は小手指村尋常小学校に入学した。しかし葭子が小学校に入学した直後の4月14日、病気がちであった母、さわが亡くなった[12]。幼い葭子と栄一を抱えた父、寛太郎は妻の死後約半年後の11月に、小手指村の旧家の娘、のぶと再婚する[12][17]。寛太郎よりも15歳年下ののぶは、葭子にやさしく接した。また葭子は祖母のべんに特に可愛がられた[注釈 4][17]。寛太郎と信との間には一郎、園、千代、精一の4人の子どもがほぼ3年おきに生まれた。葭子は母を同じくする弟、栄一と母が異なる弟妹4人たち6人兄弟の長女として、弟妹たちに良く面倒を見て、弟や妹たちから慕われる姉であった[19][20]。異母弟の一郎は後に俳優左卜全となるが、なかなか住所が定まらず、定職にも就けない一郎のことを葭子は常々心配しており、後に左卜全は妻に対し、地味でおとなしく、頭が良かった姉、葭子のことをしばしば話していた[20]。しかしやはり幼い頃に実母を亡くし、父が年若い継母を迎えたことは葭子の心に影を落とすことになった[21][22][23]

修学時代

1894年(明治27年)、父、寛太郎は埼玉県児玉町の児玉町尋常高等小学校の校長に転勤となり、葭子も児玉町尋常小学校に転校する。1896年(明治29年)、尋小学校尋常科を卒業し、高等科に入学した[24]。高等科に通学し始めた葭子は百人一首の注釈本などを読むようになって短歌の制作を始めた。またこの頃から日記の執筆を開始したと言われているが、高等小学校時の日記は残っていない[25]。1899年(明治32年)、父の寛太郎はかつて勤務した槻川村小学校校長に転勤となったが、高等小学校卒業間近であった葭子は祖母のべんと弟の栄一との3人で児玉町に残って生活することになった[25]

1900年(明治33年)、葭子は児玉町尋常高等小学校を卒業した。卒業後、葭子は埼玉県女子師範学校への入学を希望したが、当時まだ未設置であった。そこで継母の実家で養蚕の手伝いをしたり、東京の叔父宅や所沢の継母の叔父宅に住み込んで女子師範学校進学のための勉強を行ったりした[25][26]。この頃から葭子は古今和歌集新古今和歌集を読むようになった[25]。所沢の継母の叔父宅に住み込んでいた時期、継母の親戚筋である2歳年下の杉本寛一と知り合い、文学好きの葭子と杉本寛一はしばしば短歌など文学について語りあった[27][28]。1902年(明治35年)1月からの葭子の日記が残っている。葭子は筆まめであり、後述の病気療養中の3年間を除き、1920年(大正9年)までの日記が残されている[29]。日記には葭子が詠んだ短歌が書き添えられていることがあった。この頃、葭子が詠んだ短歌は伝統的な旧派の歌風であった[30]。この頃から葭子は将来、歌人となる夢を抱くようになった[31]

埼玉県女子師範学校は1901年(明治34年)に開校となり、翌年3月、葭子は埼玉県女子師範学校を受験し合格する[32]。4月、病気のため他の生徒よりも遅れて葭子は師範学校に入学し、寄宿舎生活が始まった[33][34]。師範学校ではバスケットボールやテニスなどを同級生と楽しみ、太陽、帝国文学といった文芸雑誌を読んで文学に親しんだ。また学科では英語やオルガンの時間をとりわけ楽しみにしていた[35]。成績も一学年時は38人中5番、二学年時も6番と上位にいた[36]。しかし葭子は病弱であった。17歳の時、葭子は身長139センチメートル、体重は33.8キログラムであり、非常に小柄であった。また熱を出して寄宿舎で休むことがあり、特に冬季、暖房が不十分な寄宿舎で風邪をこじらせることも多かった[33][37]。後年、葭子本人は師範学校時、試験で良い成績を取るため体力が許す以上に勉強に励んだことが体調を崩す要因になったと述べている[38]。1904年(明治37年)の1学期終了後、体調不良のため葭子は学校を休むことになり、11月14日には休学届を出した。その後も体調は回復せず、1905年(明治38年)9月には退学となった[33][39][40]

療養と回復

1907年9月、結核から回復した三ヶ島葭子

葭子が埼玉県女子師範学校在学中の1903年(明治36年)、父、寛太郎は東京府南葛飾郡船堀村(現東京都江戸川区)の船堀村小学校の校長となり、一家は船堀村に移住していた[40]。体調を崩し、師範学校を休学することになった葭子は船堀村の実家で療養生活に入った[40]。葭子の病は結核であり、微熱が続いて血痰を吐き、1905年(明治38年)頃にはやせ衰えた葭子のことを近所の子どもたちは骸骨が歩くと言われるほどに衰弱した[41][40]。まめにつけていた日記も、体調が悪化してきた1904年(明治37年)2月4日の日記を最後に中断していた[42]。当時の結核の療養法は、薬を飲み滋養のあるものを食べて回復を待つといったものであった。葭子の療養のために家族の家計は圧迫され、弟の栄一、一郎は奉公に出されることになった[43]。師範学校を卒業し、自立した女性として活躍することを願っていた葭子にとって結核の罹患は大きな挫折であり、弟たちが奉公に出されることになったことも大きな心の負担となった[44]。絶望的な病状の中、父、寛太郎は病に苦しみ追い詰められていた娘の精神状態を顧みずに復学にこだわり続け、葭子は「早く見放されたい」と感じるようになっていた[15]

家族も医師も回復を絶望視していたが、療養生活3年目の1906年(明治39年)、食欲が増進し体力が回復してきた[40]。1907年(明治40年)3月30日には3年余り中断していた日記が復活する[45]。ところで1906年(明治39年)2月、末の弟の精一が生まれていた。精一は生後、小手指村の母の実家で生活していたが、船堀村の家族のもとに戻って生活することになった。幼い弟に結核をうつしてしまうことを恐れ、1907年(明治40年)4月になって葭子は実家近くの光明寺の離れを借りて自炊生活を営むようになった[46][47]。その後、叔父の一人の世話で、6月から祖母のべんと葭子は東京市麻布区麻布森元町に住み、手袋の内職をしながら生活した。しかし翌1908年(明治41年)2月、祖母とけんかをした葭子は、職業あっせん所で住み込み就労先を探し、有力者の家で住み込みで働くようになった[47][48]。葭子が奉公勤めをしていた時、旧知の杉本寛一が葭子に恋愛感情が感じられる手紙を送ってきた。その後葭子と杉本はしばしば手紙のやり取りをするようになった[49]

結核から回復した葭子のために父、寛太郎は就職先探しに奔走した。結局、葭子の実母の実家、宮沢家の斡旋で、東京府西多摩郡小宮村(現あきる野市)の小宮尋常小学校の代用教員としての就職が決まり、1908年(明治41年)6月27日、葭子の教員生活が始まった[47][50]

文学に目覚めた教師時代

1910年撮影の、小宮尋常小学校代用教員時代の三ヶ島葭子

小宮尋常小学校の代用教員として赴任した葭子は、小宮村で雑貨商を営む森屋りつ宅の奥の八畳間を借りて自炊生活を行った。休日は間借り先の雑貨商の手伝いをすることもあった[51][47]。赴任した年と翌年は専科教員として勤務し、3年目からは1、2年生の学級担任を任されるようになった。また小宮尋常小学校には川の上流約3キロのところに分校である養沢分教所があり、週に数回、音楽と裁縫を教えに出向いた[52]。教師として赴任した時点で葭子は体調も回復してきており、背が低く小太りな体形から生徒たちからよく「俵、俵」とはやし立てられた[51]

葭子の同母弟の栄一は神田の書店で働くようになっていて、葭子の求めに応じて毎月雑誌などを小宮村の葭子のもとに郵送してくれた[53][54]。そのような中で葭子は雑誌『女子文壇』への投稿を行うようになった。女子文壇は1905年(明治38年)に創刊された少女雑誌であり、文学を愛好する少女たちにとって作家デビューのきっかけを提供していた雑誌であった。執筆陣として夏目漱石島崎藤村泉鏡花永井荷風ら一流の文学者が登場し、新体詩、短編小説、論文、美文、和歌、俳句など、読者の投稿コーナーも充実しており、天、地、人、秀逸、佳作に選ばれた投稿作品が掲載された。三ヶ島葭子が女子文壇に投稿を始めた頃、短歌の選者は与謝野晶子であった[55]。葭子が女子文壇に初掲載されたのは1909年(明治42年)4月号で、三ヶ島秋子名の投稿で佳作であった。なお、この明治42年4月号には後に親友同士となる原阿佐緒が、やはり初掲載されトップの天賞を獲得している[56]。女子文壇には文通希望欄があって、葭子は『女子文壇』の投稿者同士の文通を通じ、後に歌人となる原田琴子や原阿佐緒と親交を深めていった[57][58]

『女子文壇』入選をきっかけに、葭子は与謝野寛、与謝野晶子夫妻が主催していた新詩社に入社した[59]。また短歌が初掲載された直後、葭子のもとに女子文壇社から新作家として誌上で紹介したいと写真の請求が来た。葭子の写真は『女子文壇』5月号で紹介され、5月号には三ヶ島よし子名で投稿した文章が七等となり掲載されたが、短歌は落選した[60]。葭子は短歌の道に進むか、作家の道を目指すか悩むようになった。この悩みはかなり後まで続くことになる[61]。その後、1909年(明治42年)は『女子文壇』にコンスタントに1首ずつ入選した[61]。8月号には

あめつちの あらゆるものに ことよせて 歌ひつくさば ゆるされむかも

が入選した[62]。翌1910年(明治43年)になると、葭子は『女子文壇』の投稿者常連となって、短歌の他に詩や散文などでも相次いで入選し、しかも地賞、人賞、秀逸など上位入選するようになった[63]。そして3月12日には与謝野晶子から『スバル』への投稿を勧める葉書が届いた[64]。喜んだ葭子は早速投稿し、1910年(明治43年)4月号に13首が掲載された[65]。なお、この『スバル』投稿時からそれまで「よし」、「芳」などと名乗っていたペンネームを「葭子」と名乗り、その後「三ヶ島葭子」の名乗りが定着した[66]。また葭子は若山牧水主催で創刊された雑誌、『創作』にも短歌を投稿するようになった。葭子が『創作』に投稿した短歌は1910年(明治43年)5月号に13首が初掲載された[67]。一方、葭子が投稿した文章に対しては、描写は優れているが、地味であり乾いていて情緒に欠ける、色気が無いなどの欠点が指摘されていた[68]。葭子はこのような指摘に対し、情熱的に恋を詠む作風であった与謝野晶子を学び、やがて自らも情熱的な恋の歌を詠むようになっていく[69]。与謝野晶子のことを葭子は終生、師として尊敬し、晶子もまた葭子との関係性を大切にした[70]。例えば後年、葭子は新詩社風の歌風から離れ、『アララギ』に参加するが、その後も与謝野宅で開催される歌会への参加を続けていた[71][72]

『スバル』に初掲載された短歌のひとつ、

名も知らぬ 小鳥きたりて 歌ふとき 吾もまだ見ぬ 人の恋しき

は、恋のときめきを待ちわびる女ごころを詠んだ[73][74]。『スバル』で頭角を現していく葭子の短歌について、愛の対象への一途な思いで生きている葭子の激しい思いをストレートに詠んでいるとの評価がある[75]

一方、『創作』に初掲載された短歌では

寂しさを 歌ふ人なく なりし時 ろをま(ローマ)の国は 亡びしときく

と、ローマ帝国滅亡を題材にして、文化の衰退が国の滅亡を招くという思索的な短歌を詠んだ[76][74]。葭子は発表する雑誌と撰者の傾向を見定めて、投稿する歌の詠みぶりを変えるテクニックも身に着けていた[77]

文芸雑誌の投稿欄で活躍をするようになった葭子は、1910年(明治43年)5月5日の日記に

きのふきた『創作』を読む。検定試験などうけるひまはもう惜しくつて私には投げ出せぬ。あああわが第二の生命時間的なものではない。たとひ一つでも自分の心もちを人の目に残してからではなくては死なない。

と、文学で名を残していく強い意欲を見せた[78][79]

ところで日記に書かれた検定試験とは准教員になるための検定試験であった[79]。師範学校中退の葭子は職位的には代用教員であり、資格を取るためには改めて試験を受ける必要があった[80]。1912年(明治45年)1月、葭子は検定試験全科目を一回で合格した。検定試験は難しい試験として知られていて、一回で全科目を合格することは極めてまれなことであり、葭子が全科目一回の試験で合格したことは西多摩教育委員会の中で話題となった[50]。試験合格後、葭子は代用教員から准訓導に職位が変わった[81]

青鞜への参加と恋の成就

中川一政、倉片寛一との出会い
1913年撮影の、右から三ヶ島葭子、中川一政、倉片寛一

葭子の文通相手の杉本寛一は巣鴨監獄で受刑者の作業監督の仕事に従事するようになり、受刑者の面会人や出所した囚人の休憩所である放免茶屋を巣鴨監獄正門前で営んでいた中川一政一家の自宅に下宿をするようになった[82][83]。また葭子の夫になる倉片寛一は杉本寛一の中学校時代の同級生であり、中川、杉本、倉片は文学好きな友人同士となっていく[84]

葭子の恋の対象は、当初、旧知の杉本寛一であった。しかし文芸雑誌に投稿を続け、文学面で頭角を現しだした葭子は次第に杉本のことが疎ましく感じられるようになってきた[85]。杉本からは頻繁に手紙が届いていたが、葭子はその内容になにか飽き足らないものを感じとってかなり失礼とも取れる返信を送るようになり、ついには文通を止めたいとの手紙を書き送った[86][87]。しかし杉本からはその後も手紙が送られてきた。1910年(明治43年)夏、実家の船堀村に帰省した際に葭子は杉本寛一に会いに行く。久しぶりに再会した葭子は別人のように変わっていたが、落ち着いた雰囲気の女性になっていた。2、3日後に杉本は船堀村の三ヶ島家を訪ね、結婚話を持ち掛けたが葭子は断った[注釈 5][87][49]

1911年(明治44年)、中川一政が17歳の時、御岳山登山の旅の帰り道、杉本寛一の故郷である狭山と小宮村の葭子を尋ねた。初対面の中川に葭子は「私は廃人です」と語った[89][82][90]。そして1912年(明治45年)、杉本を通じて倉片寛一は葭子と文通を始めるようになる[91][82][92]

青鞜への参加と活躍

葭子の教員生活は多くのストレスがあった。学校の女性教師は葭子一人であり、校舎の障子張りや、終業式の日に校長から酒宴用の火鉢や鉄瓶、燗徳利を用意するように命じられるなどの雑用を言い渡されたり、宴会時にはお酌をさせられたりした[93][94]。当時、多くの女性教師は宴席で同僚としてではなく女中や接待係のように働かされ、お酌係扱いであったことの悩みを訴えていた[95]。また葭子の文学への傾倒は同僚教師の間でも知られていたが、彼らは葭子の文学趣味に理解を示さなかった[96]。日記の中で葭子は校長からのいじめ、嫌がらせについて書いており、自分という人間が葬られていく感覚を訴え、女も人ではないかと自らに問いかけていた[97]

そのような頃、平塚らいてうは雑誌の創刊を目指していた。平塚は雑誌の発行を通じて、社会的に抑圧されている女性の解放によって、女性たちがこれまで発揮できなかった能力を引き出していくことを目指していた[98]。1911年(明治44年)9月、雑誌『青鞜』が創刊され、平塚らいてうは創刊の辞で「元始女性は太陽であった」と宣言した[99]。1911年(明治44年)9月号の『女子文壇』において、葭子は散文で入選者トップの天賞を獲得した[100]。また短歌では自己の内面を見つめ直す作品を制作していた。葭子は青鞜社への入社を願い、1912年(明治45年)3月、正式に青鞜社社員となり[101]、1912年3月号から『青鞜』に葭子の作品が掲載されるようになった[102]

葭子は『青鞜』誌上で積極的に短歌を投稿した。葭子が『青鞜』で発表した短歌は1016首に及び、これは約200首の岡本かの子、原阿佐緒らと比較して圧倒的な数字である[103]。『青鞜』に投稿するようになった葭子の短歌は、そのほとんどが新詩社風のロマンチックな夢幻的な恋歌であった[104]。平塚らいてうは当時の葭子の短歌を「恋する女の微妙な照りかげりが、くまなく歌いつくされ、息づまるほどの迫真力をもって、同じように若いわたくしたちの胸を打った」。と回想している[104][105]

水色の 雨の中にて 火の燃ゆる 夜明けの山に 君を思へる[105][106]

その一方で葭子は『青鞜』に、

新しき 女ぞ夢の 女ぞと いつの日待ちて 吾をとなへん

と、自らもいつの日にか自立した「新しい女」になりたいとの歌を投稿していた[107]

後述のように『青鞜』への投稿開始をきっかけとして葭子は倉片寛一との交際が始まり、関係が深化していく。交際の進展につれて葭子の詠む恋の歌は実感が込められたものになっていく[108]

倉片寛一との交際

『青鞜』に初掲載された葭子の短歌を読んだ倉片寛一は、友人の杉本寛一に葭子への手紙の転送を頼み込んだ。杉本は倉片寛一と中川一政からの葭子宛の手紙を、二人の男からと題して送付した。手紙を受け取った葭子は三人への返信を書いたものの倉片の居場所がわからなかったため、やはり杉本に転送を頼んだ[104]。すると倉片からすぐに手紙が届いた。葭子は倉片からの真剣な内容の手紙を読み、動揺した[104]。中川一政は倉片は葭子の才能と名声に目をつけて、声を掛けることにしたのではないかと推測している[注釈 6][16]

葭子と倉片との仲は急速に近づいていった。倉片は8月26日、友人とともに船堀村に帰省中の葭子を尋ねてきた。倉片は吉井勇の歌集、『酒ほがひ』を手土産に持ってきた。その後倉片は夏休みを終え、小宮村に戻る葭子を新宿駅で見送り、9月には倉片は葭子を尋ねるために小宮村を訪れた[110][111]。その後も葭子と倉片は頻繁な手紙のやり取りを続け、逢瀬を重ね、親密さの度を深めていった[111][112]。倉片は葭子に対して新詩社風の短歌はダメであり、与謝野晶子が選ばなかったような短歌を『青鞜』に出すように勧めたりもした[113][114]

教員生活の終了

1908年(明治41年)に小宮尋常小学校に赴任してしばらくの間、職場環境は比較的良好であった。教え子たちは後年、葭子は愛相が良い先生であったと評価していて、小宮村の村民からの評判も良好であった[115]。しかし1912年(明治45年)4月に校長が変わった後、職場環境は一変した。新校長は教育熱心で整理整頓をしっかり行う人物であったが、葭子とのそりが合わなかった[115][116]。また文芸雑誌への投稿で実力を発揮しつつあったことも新校長には目障りであったと考えられる[116][117]。また新校長と小宮村民との関係性も悪く、校長と仲が良くない葭子に対して村民の同情も集まるようになっていく[118][119]。その上、間借りをしていた雑貨店の店主が養子を迎えることが決まり、引っ越しをしなければならなくなった[120]。葭子は退職の気持ちが強くなっていく[118]

1913年(大正2年)、原阿佐緒、原田琴子が歌集を出版して評判となっていた。葭子も歌集を出したいと願って与謝野晶子に相談してみたところ、前向きな返事が返ってきた。1914年(大正3年)2月、歌集の草稿を与謝野晶子に送付したところ、校正がなされた状態で戻ってきた。葭子としては退職して小宮村から離れたい気持ちがますます固まっていく[118]。一方、倉片からは毎日のように手紙が届いたが、倉片の母からの結婚反対の手紙が同封されていたかと思えば、3月15日には「3月25日に来い、間違いなく来い……オレと一緒になるのには飢え死にするつもりでないといかぬ……だからオレはお前の将来のため、むしろ、離れた方が得策かと思ふ」。といった手紙を送ってきた[121][119]。実際のところ、倉片には親族から縁談の話が持ち掛けられていて、また、当時勤めていた勤務先が人員整理を行う話が浮上していた[119]

倉片からの手紙の内容に関わらず、葭子はもう後には引けなかった。退職に当たり、小宮村の村民たちは盛大な見送りの宴会を開き、葭子に多額の餞別を贈った[122][123]。そして退職した3月25日には、生徒200人が勢揃いして五日市の町まで葭子のことを見送った[124]

結婚生活の苦労

夫と父の失職

三ヶ島葭子の夫となる倉片寛一は、倉片作輔の二男として1888年(明治21年)、所沢に生まれた[125]。葭子よりも2歳年少であった[126]。幼い頃から気性が激しく、暴れん坊であったと伝えられていて[127]、葭子と倉片寛一の一人娘である倉片みなみによれば少し突飛な性格であり[128]。非常に怒りっぽく、しばしば葭子のことを殴っていたことを伝えている[129]。その一方で前述のように文学好きであり、大変な読書好きであった[127]

小宮尋常小学校を退職した葭子は、倉片が住む下宿に向かった。同棲を始めて3日目、葭子は倉片から衝撃的な事実を知らされた。倉片が職場の人員整理の対象となり、失業したのである。その上で倉片は退職金の一部を持って『創作』で発表している関西の歌人を頼り、関西へ行くと宣言した[130]。小学校を退職し、自らも無職となっていた葭子は困惑した。仕方なくいったん葭子は小宮村の下宿先からの荷物を送っていた船堀村の実家に戻ることにした。実家に戻った葭子に、さらに衝撃的な事実が伝えられた。荒川放水路の工事が始まるために船堀村の110戸が移転を余儀なくされ、船堀村が隣の松江村に合併されることになって、父、寛太郎が校長を勤めていた船堀村小学校も廃校となって松江村の小学校と合併された。寛太郎は松江の小学校の校長になれないのならば退職するとして、定年一年前に退職していたのである。葭子は実家も頼ることが出来なくなった[131][132]

中川一政は、この頃の倉片寛一は自暴自棄な状況に陥っていて、遊び抜いて野垂れ死にしても構わない精神状態であったと語っている[91]。その一方で、関西に出発する日の朝には、新聞社や雑誌社に三ヶ島葭子の歌集が近日発売される予定であるため、文芸欄に広告を載せて欲しいとの葉書を送った[133]。折しも葭子と親交が深まりつつあった原阿佐緒から、与謝野晶子は原阿佐緒、原田琴子、三ヶ島葭子の3名の中で葭子の短歌が一番上手いと評価していると聞いていて、歌集を出版するのは今が一番良いと勧める手紙が届いていた[133]。葭子は倉片が頼るに足らないとして自立を模索しながらも、倉片と離れられない自分も感じていた[134]

妊娠と同居の開始

倉片が関西に旅立ち、葭子は不安にさいなまれ体調がすぐれず、職探しも停滞気味であった。そのような中で葭子は妊娠に気づいた。前述のように倉片は両親から葭子との結婚に反対され、この時点では絶縁状態であった。経済的に生まれてくる子どもを養育できる見通しは全くない中、葭子は倉片に妊娠した旨の手紙を送った[135]。手紙を受け取った倉片は中川一政に葭子からの手紙を見せ、「俺は帰らなけばならん」と言い、東京に戻った[91]

東京に戻った倉片は葭子と同居することになった[91]。二人の新居は家賃が安いという理由で選んだ神田にある砂糖店の2階であり、1階では台湾から送られてくる砂糖を精製し、その搾りかすから黒蜜を作る作業が行われており、作業中悪臭が発生していた。しかも部屋には蚤やトコジラミがいた[136][137]。職探しが難航する中で倉片はもともとの短気な性格がより激しくなり、しばしば癇癪を爆発させた[16][138]。同居生活に入ってからの様々なストレスの中で、葭子の短歌は交際時代の甘い夢やときめきを詠む内容から、パートナーの倉片に感じる距離感、そして受け入れられていない寂しさを詠むようになった。倉片はそのような葭子の短歌に関しては、思いをストレートに詠んだものであるとして評価をしていった[139]。この頃の葭子の短歌は、困難な状況のもとでこれまでの歩みを踏まえながら自己確立を目指す内容になっているとの評価がある[140]

10月、二人の新居を原阿佐緒夫婦が訪ねてきた。阿佐緒は初恋の人であった庄司勇と結婚したばかりであった。葭子は阿佐緒から夫が歌を詠むことを嫌っているとの手紙を貰っていて、そのことに関して倉片と、庄司勇の態度は理解できないと話し合っていた。葭子と阿佐緒は容姿や性格的に対照的な面も多かったが、才能を認め合い、一生涯の親友となっていく[141][142]。阿佐緒との交流の中で、葭子の短歌はより磨かれていくことになる[143]

一人娘、みなみの誕生

1915年1月に撮影された、左が娘、みなみを抱く三ヶ島葭子、右が息子の保美を抱く原阿佐緒

倉片が東京に戻ったのと同時期に、中川一政もまた東京に戻った。中川はあまりに劣悪な倉片、葭子の住まいを見て、巣鴨監獄のそばの平屋を探し出した。前述のように中川の実家は巣鴨監獄の放免茶屋を営んでいたため、中川が斡旋した新居は家賃が低額であり、11月半ばに転居が行われた[144][145]。1914年(大正3年)12月28日、葭子は一人娘となるみなみを出産する[144][146]。倉片は早速所沢の実家にみなみの誕生を伝えたが返事がない、息子が年上の女性である葭子と結婚し、子どもを儲けたことについて、倉片の両親はなかなか受け入れようとはしなかったものの、1915年(大正4年)の夏になってようやく巣鴨に息子夫婦を尋ねた[147]。これまでかたくなに息子と葭子との仲を認めようとしなかった倉片の両親であったが、葭子と出会うとその人となりが気に入って、入籍を快諾して秋に簡単な結婚式まで挙げることになった[148][147]

みなみの誕生は、母、葭子の創作意欲を掻き立てた。授乳やおむつ換えなどの合間を縫って創作に励み、多くの雑誌に短歌、短文、小説、エッセイを精力的に発表した。多くの媒体で発表の機会を得たことは、葭子の実力が広く認められてきたことを示していた[149][150]。葭子は

何よりも わが子のむつき 乾けるが うれしき身なり 春の日あたり

春の日を浴び、子どものおむつが乾くことを喜ぶ母性を詠む短歌を制作しながらも[151]、自分の時間を何とか作って創作に勤しむ葭子にとって、育児や家事に追われ、何でも指示をしてくる夫に悩まされる日常は、文学で身を立てていく夢が遠ざかっていく焦りを感じてもいた[149][152]。育児に追われる現状は文学に挺身していた葭子にとって、愛すべき我が子さえも自らの命を奪う存在に見えてしまうこともあった[153]

子のために ただ子のために ある母と 知らば子もまた 寂しかるらん

葭子は、ただひたすらに子どものためだけに生きる母親であっては、子どもにとっても良くないのではないか、母も一人の人間としての生き方を追求していくべきではないかと詠った[153][154]。  

アララギへの参加

血痰の再発

夫の倉片寛一の求職はなかなかはかどらず、乳飲み子を抱えて極貧状態の生活が続いた[155]。1915年(大正4年)10月、失業後約1年半にして赤坂溜池の大日本水産会に雑誌「水産界」編集の職を得た。以後、倉片は水産業界に所属していくことになる[156]。定職を得たものの、長くなってしまった失業時代の質入れ品を取り戻さなければならないなど、生活はなかなか楽にはならなかった[155]

1916年(大正5年)4月2日、葭子は血痰を出す[157]。乳飲み子を抱えながら創作活動に邁進した過労がたたり、結核を再発させたのである[158]。医師の診察を受けたところ、膀胱炎にもり患しており安静を言い渡された[159]。ちょうど息子夫婦宅に来ていた倉片の父は、幼子に結核が感染することを恐れ、みなみを所沢の祖父母宅に連れていくことにした[159]。その後、みなみは父方の祖父宅で養育されることになって、多くの時間、母、葭子と離れて暮らすことになった[160]。葭子のその後の人生は病気続きとなって薬が手放せなくなる[157]。体調を崩し、娘と別れて暮らさなければならなくなった葭子は心が晴れず、ふさぎ込むようになった[159][161]。なお葭子はしばしばみなみが住む所沢を訪れており、みなみもよく葭子のところを尋ねていた[162]

夫との性的不和

体調を崩した葭子は、夫、倉片との関係性も悪化してきた。悪化の原因は性的な不和であった。健康な倉片は毎日のように葭子の体を求めたが、体調を崩し、精神的にも不安定になっていた葭子にとって、倉片の性的欲求は耐え難いものであった。しかし倉片は欲求に応えるのが当然であると強引に関係してきた。葭子は精神的にも肉体的にもぐちゃぐちゃにされた感覚となり、夫のことを呪わしく感じるようになった[161][163]。葭子は「人のからだを何とも思はないあの行為に比べば、嘘つきや盗みは何でもない」とまで日記に吐露するようになる[164]

葭子が発表の場としていた『青鞜』は、1916年(大正5年)2月号で終刊となっていた[165]。有力な発表の場を失い、夫との不和が表面化するといういわば八方ふさがりの中、助け舟を出したのは原阿佐緒であった。葭子からの苦境を訴える手紙に、阿佐緒は宮城宮床村の阿佐緒宅で静養してはどうかと何度も誘ってきた[166]。娘のみなみは夫の所沢の実家に適応してきており、倉片もとげとげしてきた葭子との生活に疲れ、阿佐緒宅での静養を認めることになった[167]

アララギ入門

8月、葭子はたまたま上京していた阿佐緒の母、しげの帰郷に同行する形で宮城に向かうことになった。葭子は阿佐緒宅で40日間静養し、阿佐緒とは毎日、制作した短歌について批評し合い、阿佐緒とともに近隣の温泉に湯治に出かけたりもした。自然に恵まれた宮床村の環境下で詠まれた葭子の短歌は、美しい光景をみずみずしい感覚で捉えたものが多かった[168]

葭子は阿佐緒に『青鞜』という発表の場を失い、袋小路に入ってしまった自らの苦境について相談した。すると阿佐緒は『アララギ』の斎藤茂吉に送付した歌稿を見せた。歌稿は茂吉の懇切丁寧な添削指導によって真っ赤になっていた。葭子は『アララギ』入門を決意して、入門依頼状を歌稿を送付した[注釈 7][170][171]。するとほどなく原阿佐緒宅着付で、島木赤彦から『アララギ』は他の短歌結社と意見を異にしていて頑固であり、意に沿わない点も多いのではと伝えた上で、入会した場合には他の媒体にはなるべく出稿しないよう求める内容の返信が届いた[注釈 8][172][170]

『アララギ』は当時、斎藤茂吉、島木赤彦、古泉千樫中村憲吉の4名が中心となって活動しており、歌壇を席巻する活躍をするようになって全国的にその組織を広めていた[173][174]。そのような中で原阿佐緒を始めとして、今井邦子杉浦翠子ら、新詩社風の短歌を詠んでいた女性歌人の多くも『アララギ』に入社していた[175]。しかし実際問題として写実を重んじる『アララギ』入門が彼女たちの短歌制作にプラスになったのかというと、それまでのロマンティシズムに溢れ、豊かな才気や奔放さが魅力であった歌風の良さを封じ込めてしまったのではないかとの評価もなされている[175]。そのような中で、自身の資質、性格そして生活環境が向いていたため、葭子にとって『アララギ』入門はプラスになった[176][174][175]。師匠となった島木赤彦は、そのような葭子のことを熱心に指導していくことになる[177]

アララギでの成功

『アララギ』に入門したものの、葭子としてはすんなりと馴染めたわけではなく、入門後、親友の原阿佐緒に歌作の悩みをしばしば打ち明けていた[178]。もともと『スバル』などでの葭子の短歌は、自らの感情を素直に表現したものであった[179]。また葭子の文章も感傷に流されずに飾り気がなく、自らの心の動きを率直に表現したものであった[180]。葭子は『アララギ』で、身の回りの世界を受けとめる写生の技術を学んでいく。その中でもともとの資質であった、感傷に溺れることなく自己を率直に表現する能力を引き継ぎながら、葭子自身の生活を写しだす表現が身についていった。その結果として心の動きがより切実に作品に反映されていくようになった[179]

1917年(大正6年)2月、夫、倉片寛一の勤務先に近い麻布区谷町に転居した[181]。しかし日当たりが悪い家であったため、1919年(大正8年)5月には同じ麻布区谷町の表通りにあった2階建ての家に引っ越した[182]。葭子は相変わらず病気がちではあったものの、この頃の生活は比較的安定していた[183]。なお、1919年(大正8年)5月から住むようになった麻布区谷町の表通りの2階建ての家に、亡くなるまで葭子は住み続けることになる[184]

葭子は夫、倉片から日常的な暴力と性関係の強要を受け続けていた[185][186]。1918年(大正7年)の夏には、葭子は夫、倉片の北海道出張に同行する形で、原阿佐緒の実家に二度目の訪問を行うが、訪問前に阿佐緒に送った手紙の中で「あなた(阿佐緒)のお宅にゐる間だけ、なぐらないやうにと嘆願してゐるのですけれど、そんなこと何の役にも立ちますまい」。と書いて寄こすくらいであった[187]。『アララギ』に葭子が投稿した作品の中でも高い評価を受け、石原純釈迢空、島木赤彦らから『アララギ』誌上で批評されたのが、1920年(大正9年)1月に発表した「なやみ」と題した17首の連作であった[186][188]。「なやみ」の主題は、夫婦間のすれ違いの中で葭子が感じた苦悩であった[189]

訴ふべき なやみにあらず 声立てて 泣けば寂しも 人あらぬ部屋に[185][190]

から始まる17首は、石原純、釈迢空、島木赤彦といった評者からはそれぞれ欠点の指摘がなされたものの、一人の女性が感じる生活体験を感傷に溺れることなく切実に歌い上げ、読む人の心を揺さぶる作品になっているとの高い評価を受け[191]、連作を通じて、個人的な悩み、苦しみを越えて、夫婦関係や男女関係、ひいては女の自我のあり方や、一番近い存在であるはずの人物に対しても距離感を感じてしまう寂しさといった普遍性のある作品に仕上げている[192][193]。「なやみ」の高評価から、葭子は『アララギ』の女性歌人の中でも実力者であると見なされるようになり、『アララギ』の歌人としての歌集制作の機が熟しつつあった[194]

歌集『吾木香』の刊行

前述のように1914年(大正3年)、葭子は与謝野晶子に歌集の草稿を送り、題名も「眠の前」と決めていたが発行には至らなかった[195][196]。その後再び「落葉集」と題した歌稿を与謝野晶子に送ったが、やはり歌集刊行には至らなかった[197][198][199]。1920年(大正9年)2月、夫、倉片は大阪にある水産信報社に編集長として招聘されたが、病身の葭子は東京に残ることになったため、倉片は大阪に単身赴任となった[200][201]。夫、倉片の単身赴任により葭子は一人暮らしとなったが、その結果、日常的な夫からの暴力、性生活の強要からは解放された[201]

倉片は葭子の文芸活動に関しては理解を示し、歌会などの会合出席も自由であり[202]、歌集制作についても葭子に持ちかけていた[200]。また倉片は単身赴任先の大阪で、妻の制作する短歌を褒めてよく同僚たちに聞かせていたりもしていた[200]。大阪での倉片の職場は新聞社なので印刷所があった。妻の葭子に対して倉片は、会社のつてで経費も安く上がるので歌集を作らないかと改めて勧め、自費出版で歌集が制作、刊行されることになった[203][204][205]

葭子の歌集の序文は師匠である島木赤彦ではなくて親友の原阿佐緒が執筆した。これは歌人として自立した存在となった葭子にとって、阿佐緒が最も大切な人物であったことを示している[注釈 9][207]。歌集の名前も原阿佐緒の短歌

吾木香 あはれや花の たぐひとも 見えず寂しく 秋の野に咲く

から『吾木香』(ワレモコウ)と名付けたと言われ[注釈 10][208]、序文の中で原阿佐緒も、阿佐緒が詠んだこの短歌の寂しい境地に葭子が共感していたことを紹介し、ワレモコウがつつましやかで寂しい葭子の性格を表していると評している[209]

歌集の構成は新しい作品を最初に紹介して、徐々に古い作品を並べる逆年順となっていて、『アララギ』で発表した作品の他は、新詩社時代の『スバル』などに発表した作品を載せ、『青鞜』に発表した作品はほとんど選ばなかった[204][210][211]。これは『アララギ』に発表した作品を重視した構成であり、当時の葭子が『アララギ』の歌風が自分に合っていると判断したためと考えられる[212]。阿佐緒は序文の中で、寂しい山村で病後の弱った体をいたわりながら暮らしていた葭子は、歌にのみ命を求めて過ごしていて、歌が恋であり恋が歌であったと指摘し[208]、さらに率直さ、素朴さ、真摯さに満ちた葭子の短歌は艶めかしい技巧や余韻に乏しくとも、思いがけない力で人の胸に突っ込んでくる強さがあるとその長所を称えた[213]

歌集の装丁は友人の中川一政がワレモコウの絵を描いた。1921年(大正10年)2月に刊行された『吾木香』は、夫の会社に勤める植字工が活字を拾って版を作成したため誤植が多く、70か所あまりの正誤表をつけての発売となった[214][215]。夫の友人だった橋本徳寿が雑誌に『吾木香』の批評を書き、『アララギ』誌上でも刊行の宣伝が行われ、献本をした歌人らから葭子に礼状が届けられたものの[214]、地味な作品が多く、また当時は原阿佐緒や柳原白蓮九条武子といった才色兼備の歌人にスポットライトが当たっていたこともあって、歌壇で大きな評判にはならなかった[216][215]

アララギの破門

石原純と原阿佐緒の恋愛問題

1920年10月26日撮影の三ヶ島葭子

葭子の親友、原阿佐緒は『アララギ』の主要メンバー歌人である石原純との関係性で悩みを抱えていた[217]。石原は歌人であるとともに東北帝国大学の教授であり、物理学の権威であった[218]。阿佐緒は1918年(大正7年)夏、宮床村の阿佐緒の実家を訪れた葭子に、石原からのアプローチに困惑していることを語っていた[187]。その後、石原からのアプローチはエスカレートしていき、ストーカーとなっていく[219]。葭子は否応なしに原阿佐緒と石原純との恋愛問題に巻き込まれていくことになる。1920年(大正9年)4月、四谷で行われた『アララギ』の歌会に出席した葭子は、やはり歌会に出席した石原に句会終了後に呼び止められ、石原から宮床村の阿佐緒のところに一緒に行って、阿佐緒との仲を取り持って欲しいと頼まれた[220][221]。葭子は即答を避けたが、単身赴任中の夫の倉片から旅費の為替が送られてきたため、気が進まない中で石原とともに宮城の宮床村に向かった[222]。宮床村で葭子は阿佐緒から執拗な石原からのアプローチの数々の他、石原の妻からも連絡があることなど、苦境の訴えを聞いた[223]

10月末、今度は石原から距離を置きたくなった阿佐緒が上京して、一人暮らしの葭子の家に滞在するようになった[224][225]。葭子と夫の倉片は、阿佐緒に対して石原の愛を受け入れるよう説得した。石原は阿佐緒の前で自殺未遂まで行っており、また社会的地位がある石原と阿佐緒が結ばれた方が良いと判断したためであった[226]。1920年(大正9年)11月から約1か月間、石原は京都帝国大学で物理学の講義を行うことになり、阿佐緒に同行を希望した。しかし阿佐緒は了承しようとしなかった。石原は葭子の夫、倉片に対して葭子が阿佐緒を京都まで連れてくるように自殺をほのめかしながら半ば強要した[224][227]。葭子としてはかねがね単身赴任中の夫に会いに行かねばと思っており、また前述のように歌集『吾木香』の発行に向けた作業が進んでおり、入稿の必要性もあった[228]。結局葭子は阿佐緒とともに関西に向かい、阿佐緒は京都の石原の滞在先、葭子は大阪の夫の単身赴任中の住まいに向かった[227]。約2週間、葭子は大阪に滞在した。滞在中、夫の職場の20代の女性事務員である徳田富野のことを語る口調に違和感を感じたが、確かめることなく東京へと戻った[229]

京都の石原の滞在先で、阿佐緒と石原は結ばれた。そして1921年(大正10年)2月には、石原と阿佐緒が葭子宅で事実上の同棲を始めるようになった[230]。『アララギ』主要メンバーの一人である古泉千樫と阿佐緒はかつて関係を持ったことがあり、そのことが原因で古泉と他の『アララギ』幹部との関係性が悪化していた[注釈 11]。そして今度はやはり主要メンバーである石原純にその魔手を伸ばしてきたと考えた『アララギ』幹部は、原阿佐緒のことを危険人物視するようになっていた[232]。『アララギ』幹部の島木赤彦、斎藤茂吉、平福百穂は、石原と阿佐緒の同棲という事態に対し、学者として世界的名声を獲得している石原が一人の女性のために道を誤らないで欲しいと、石原に対して阿佐緒と別れるよう説得することを決めた。斎藤茂吉は一週間毎日葭子宅を訪れ、石原に対して阿佐緒と別れるよう説得を重ねたものの、石原は説得を受け入れようとはしなかった[233]。『アララギ』幹部たちは石原と阿佐緒との関係性に寛容であった古泉千樫を除き[234]、阿佐緒と別れようとはしない石原の態度に困惑していた。またアララギの同人たちは、葭子が石原と阿佐緒との愛の巣を提供していると判断した[235]

生けるものの悲しみ

1921年9月11日、田端の大竜寺で開催された『アララギ』の正岡子規追悼歌会の写真。二列目左端が三ヶ島葭子。その後まもなく葭子は『アララギ』を追放される。

阿佐緒と石原との恋愛問題が大きくなる1920年(大正9年)の夏頃まで、葭子は短歌ばかりではなく小説など他の創作活動にも意欲を見せていた。しかし夏以降、小説等の創作活動は停止状態となる。また葭子が書き続けてきた日記も、1920年(大正9年)6月を最後に以後のものは残っていない[236]

阿佐緒と石原との関係はマスコミの知るところとなって、1921年(大正10年)7月末からセンセーショナルな報道が相次ぐことになった。報道はいずれも妖婦、毒婦の阿佐緒が世界的学者である石原を誘惑、篭絡したといった内容のものであった[237]。原阿佐緒は世間から激しいバッシングに遭い、親族までも中傷に晒された[238]。葭子は雑誌『新家庭』で「事実を闡明す」、『婦人公論』では「生けるものの悲しみ」を発表し、阿佐緒擁護の論陣を張った[239]。葭子としては自らの立場を弁明する意図もあったが[240]、阿佐緒が石原のことを篭絡したとの、世間に広まった事実とは異なる言説を否定し[241][242]、これまでの状況の経過を説明した上で、阿佐緒や石原の言い分を聞きもせずに、世間体や世俗の名誉のために恋を捨てるべきといった意見や安易な断罪を、何のためらいもなく行う人々を痛烈に批判した[243][244]

阿佐緒に対する葭子の弁護は当時の男尊女卑の風潮に逆らうものであった。慎み深く地味な性格の葭子であったが、時流に逆らって親友の弁護に立った[245]。この葭子の行動に『アララギ』の師匠である島木赤彦は強い不快感を感じた。1921年(大正10年)9月16日、島木赤彦に郵送した『アララギ』10月号用の歌稿が、今後、葭子の短歌を見ることが出来ないとの内容の手紙とともに返送された。これは事実上の『アララギ』破門の言い渡しであった[注釈 12][注釈 13][246]

師匠を失った葭子は古泉千樫に師事するようになった[177][215]。古泉の歌風は赤彦よりも自由度が高く、また葭子と同じ結核にり患していて生活も貧しかった古泉は、葭子のことを深く理解して指導していった。古泉のもとで葭子は晩年の自由で朗らかささえ感じられる歌風に到達していく[177][247]

家庭問題の深刻化

妻妾同居

1922年(大正11年)1月13日、父、三ヶ島寛太郎が亡くなった。娘の倉片みなみは、この頃までに夫の倉片は大阪に愛人を作ったことを妻の葭子に伝えていたのではないかと推定している[248]

わが夫(つま)と 心へだてる さびしさを 耐へて(こらえて)今宵 父の死を守る

父の臨終には夫、倉片も駆け付けたものの、父の死を悲しみながら、夫の心が既に自分から離れていることを嘆いた[249][250]

1922年(大正11年)4月1日、単身赴任を終えた倉片は東京に戻ってきた。しかし自宅に戻った倉片の態度はどこかおかしい、思い切って葭子が聞いてみると、愛人の徳田富野が上京したがっていると打ち明けた[251]。離婚の話も出たものの、一人娘のみなみとの関係が途切れてしまうと考えた葭子は拒絶した。倉片は経済的問題を理由に、愛人の富野を家において欲しいと葭子に懇願した。結局、夫と愛人の富野は2階に住み、葭子は1階に住むという妻妾同居が始まった[249][252]

うつそみの 深きさだめと 思ひつつ わが下心 つねに怒れり

葭子としてもこのような状況への強い怒りをため込んでいた[253][252]。夫は休日になるとあでやかな服を着た愛人の富野とともに遊びに出かけたりしたが、葭子は怒りをあらわにすること無く、富野に対して姉のような態度で接していた[254]。葭子は自己を抑制してつつましやかな態度を崩さず、自分の心のうちで重すぎる試練を処理しようとした。そして内的葛藤を割り切ろうと努力を重ねながらも、どうしても割り切れないものが残る思いを、自分自身に言い聞かせるかのように歌を詠んでいった[255]

つつしみを 知らぬやからを 怒りつつ おのが妬を ひそかにおそるる

夫と愛人に対する怒りをぶつけながらも、自己憐憫に陥ることなく己の嫉妬心を冷静に見つめた歌を詠んだ[255][256]。同居時代からの絶え間ない暴力、愛人を自宅に連れ込む夫に心と体をぐちゃぐちゃにされながらも、夫への思いを完全には断ち切れず、しかも経済的に自立していくこともままならない現実を前に、葭子は歌を詠み、発表し続けた[257]

関東大震災と夫との別居

1923年(大正12年)関東大震災が発生した。震災時、東京では大火災が発生したが、葭子の家は焼失を免れた[258]。葭子は夫、愛人の富野の3人で避難し、野宿生活となった[259]。9月3日には倉片の父、作輔が所沢から米や水、ろうそくといった救援物資をリアカーに乗せて駆け付け、ほどなく葭子たちは自宅に戻ることが出来た[260]

1924年(大正13年)3月、夫と愛人の富野は二人で転居した。その後、葭子は亡くなるまで一人暮らしとなった[261]

脳梗塞の発病

日光の創刊

1924年(大正13年)4月、反アララギ派を中心に雑誌『日光』が創刊された。北原白秋土岐善麿前田夕暮木下利玄、古泉千樫、石原純、釈迢空といったメンバーが参加した『日光』は、全国を席巻しつつあった短歌結社『アララギ』の対抗軸として歌壇に新風を吹き込んだ[262][261]。『アララギ』追放後、主な発表の場を失っていた葭子は、師、古泉千樫とともに『日光』に参加した[263]

一人暮らしとなった葭子は短歌制作に専念できる生活環境となっており、積極的に『日光』に投稿していく。病床にはあったものの、『日光』創刊当初は比較的平静で伸びやかな短歌を多く詠み、投稿していった[264][265]

発病と病臥

1924年(大正13年)8月、葭子は月遅れのお盆に合わせて所沢に行き、娘のみなみとともに墓参りなどを行った。その後そのままみなみと共に上京し、葭子の家に向かった。夫と別居後、娘のみなみの上京時には結核の感染を恐れて、寝泊りは倉片と愛人の家で行い、母の葭子の家を朝夕尋ねるのが日課であった[266]。8月半ばのある朝、みなみが母、葭子の家に着くと母の様子がおかしい。帯を締めようとしても思うように手が動かず、言葉もはっきりとしない[267]。近医の診察を受けた結果、軽い脳梗塞であると診断され、3か月の安静加療を言い渡された。葭子の脳梗塞は比較的軽度であったが、右半身が麻痺して口が利けなくなり、字も書けなくなった。その後、葭子は心臓疾患も患うようになった[268]。満身創痍ともいうべき葭子の状況について、師匠の古泉千樫は、「病身といふより病気を生活してゐる人」であると評した[269]

倉片は娘のみなみを所沢から葭子宅の最寄りの小学校に転校させた。みなみは朝夕、母の葭子の見舞いを行い、夜は父の家に泊まる生活となった。また親友の原阿佐緒がしばしば葭子の見舞いに訪れた[270]。脳梗塞の病状は少しずつではあるが回復していき、書字がおぼつかない状況ではあったが11月初旬には歌が詠めるようになった。12月、病状が落ち着いてきたのを見て、みなみは所沢の小学校に戻った[271]

夫、倉片は妻の療養に気を配った。まず1925年(大正14年)初めから、倉片が調整して葭子の妹の千代子が同居して看病を行うようになった。半年ほどで千代子は実家に戻ったが、その後は自分の会社の従業員を朝夕派遣して、様子を見る形にした[272][273]。葭子は脳梗塞の他に結核の持病があり、しかも心臓疾患も抱えていたため倉片は入院を勧めるものの、入院したら家が無くなってしまうと拒否し続けた。この頃の葭子は夫、倉片と対話する中でかたくなになることが多く、古泉千樫らに仲介を頼み込むこともあった[注釈 14][274]。葭子は

わが家と さだめられたる 家ありて 起き臥しするは たのしかりけり

と、安住の地である自宅のことを詠んだ[274]。この短歌は師匠、古泉千樫から実に素晴らしい歌であると激賞された[275]

最後の活躍

友人と弟の死

1925年(大正14年)1月、葭子の歌友のひとりである原田琴子が亡くなった。原田は葭子の一番古い歌友の一人であり、かつては親しく行き来をしていた関係性であった。旧友の死を聞いた葭子は落胆を隠さなかった[276]。続いて3月5日には同母弟の栄一が亡くなった。栄一は葭子と仲が良い弟であった。しかし病状に悪影響を与えることを恐れた家族は、葭子には弟の死を伏せ、葭子が弟の死を知ったのは1年後のことであった[277][270]。また4月には愛人の富野が女児を出産し、戸籍上、葭子の戸籍に入れられた[273]。病状への配慮とはいえ弟の死を隠され、愛人の子を入籍させられる中、葭子は

わが心 知る人は無し あたりまへの われの心を 知る人はなし

と、自分の心を知るものは結局自分ひとりなのだと詠んだ[273][278]

青垣会

1926年(大正15年/昭和元年)になると、病状は比較的安定して口の不自由さは残るものの、短歌を積極的に制作するようになり、1925年に葭子が発表した短歌は350首近くに及んだ[273]。葭子の晩年となる脳梗塞発病後は病の当事者としての心境を表現し、多くの優れた作品を詠んだ[61][279]。病中の葭子の短歌は口語的表現を多用し、気取った感じがない内容となっていった[280]。師匠の古泉千樫は病臥中に詠まれた葭子の短歌の中から、『日光』に掲載するための選歌を行っていたが、「毎月の葭子さんの歌を読むといちいち共鳴されるところがあり、自分でも不思議に思われるほど寛選になってしまう」と述べていた[281]

一方、『日光』に発表される葭子の短歌を読んだ中川一政は、

この夕べ 窓の板戸に はづみたる そのごむまりは 大きくあらん

などの作品に大きな感銘を受けながら[143]、葭子の視点が肉眼ではなく心眼で見るようになっていくのを感じ取り、この世の視点ではなくてあの世の視点に近くなっているのではないかと、不吉な予感を持つようになった[143]

そして葭子の師匠である古泉千樫の門人たちが、門人の会を結成することになった。会員は葭子を含め13人の門人が師匠、古泉により指名され、会の名前も古泉が「青垣会」と命名し1926年(大正15年)5月、発足した。古泉千樫は結核に侵されていて仕事も退職していた。青垣会は古泉の療養資金調達のために短冊等の頒布会を開催したが、病身の葭子は参加できず、夫の倉片が代わりに活動した[282]

死去

1927年(昭和2年)に入り、葭子は連日喀血をした。1月5日に知人が尋ねたところ、葭子は横になっていて、言語障害で話の半分くらいしか聞き取れない中で、喀血が続いて体が弱っていると話し、「もうだめですね、生きませんね」と語った[283]。1月8日に夫の倉片が訪ねてきた際にも、「この上生きたいと思う欲望がないのは困りますね」。と語っていた[284]

それでもこの時はある程度持ち直し、2月には義弟が結婚の挨拶のため尋ねてきて、葭子は喜んだ。折しも離れて暮らしている娘のみなみは、川越高等女学校の入学試験のために勉学に励んでいた[273]。2月から3月にかけて葭子の体調は比較的良く[285]

しみじみと 障子うす暗き 窓の外 音たてて雨の 降りいでにけり

など、後に齋藤茂吉が高く評価した歌を詠んだ[286]

3月25日、父の会社の職員が様子を見に来たところ、葭子が倒れているのを発見した。すぐに近医に診てもらい、診察を受けたところ脳出血の再発であった。知らせを受けた娘のみなみは祖父とともに上京した。みなみは入学試験に合格した通知を受けて、まだ意識が残っていた母、葭子に伝えたところ、かすかに頷いた。26日午前11時30分、三ヶ島葭子は亡くなった[287]

葬儀

1927年4月2日、霊南坂教会で行われた三ヶ島葭子の告別式

3月27日、三ヶ島葭子の遺体は荼毘に付された[288]。棺を閉じる際、葭子の妹が「姉さんはまた、歌を書くでしょう」と言いつつ、雑記帳と鉛筆を棺に入れた[289]。4月2日、赤坂の霊南坂教会で告別式が行われ、夫の倉片や娘のみなみら、親族の他に、北原白秋、中川一政ら、青垣会の同人らが参列した[注釈 15]。なお、病気が重い師匠の古泉千樫に代わって妻が出席した[291]。葭子の友人、原阿佐緒は出棺に間に合わず、告別式は欠席した[292]。告別式の始まる前、川柳作家の阪井久良伎が霊前に進み出て、「三ヶ島の葭子のよめる歌一首このあめつちにとどまらばよし」と2回大声で朗読し、そのまま式が始まる前に帰った[293]。告別式終了後、遺骨はしばらく自宅に安置されたが、その後夫、倉片の所沢の実家に運ばれた[293]

7月3日、葭子の遺骨は倉片家の菩提寺、所沢の実蔵院に埋葬された[294]。埋葬後、墓石は建てられず倉片よし之墓と書かれた白木の墓標のみが立てられていたが、三十三回忌に当たる1958年(昭和33年)になって夫、倉片は倉片の両親と妻、葭子の霊を祀る倉片氏之墓という墓碑を建てた[295]

人物

一人娘であった倉片みなみによれば、葭子は静かでおとなしく、冷静な理想的な母であり、叱られた記憶が無いと語っている[296]。また娘のみなみの前でも夫の倉片はしばしば暴力を振るっていたが、歯向かうことなく夫の怒りが静まるのを待っていたという[129]。後にみなみが葭子の短歌や日記などを読む中で、初めて母の苦悩に気づいた[296][129]。夫、倉片の友人によれば、葭子は都会の女流歌人といったこじゃれたところは全くなく、倉片の友人たちにとって友人の妻というよりも自分の母か姉のような親しみを感じていて、奥さんと呼びかける者は誰もおらず、皆、葭子さんと呼びかけていた[297]。そして妻妾同居という状況になっても、葭子は夫や夫の愛人に怒りを表すことは無かったという[298]

中川一政は、中川本人、中川の母と妹が葭子の人柄を愛していて、仏様のような人であると評している[16]。また中川は葭子のことを始めからこの世に幸福を求めていた人ではなかったと述べており[89]、丹念に地面の奥深く根を下ろして歌を作っていて[143]、親友である原阿佐緒が空を飛ぶ鳥のようであったのに対し、葭子は獣のように確実な足取りで地面を歩いていたと評した[141]。一方で晩年、病状が深刻になっても友人知人に勧められる薬をあれこれと服用し、信頼している主治医の治療方針に従って療養に努めるなど、最期まで生に執着する一面もあった[299]

平塚らいてうは、葭子に会った印象として、さびしく痩せて血の気が感じられず、実年齢よりずっと老けて見えたが、何の飾り気も感じられない、優しさ、素直さがにじみ出るような好人物であったとしている[300]。葭子の師匠であった古泉千樫は、美人ではなかったが実に好い眼をしていて、晩年、病床に就くようになってからも眼だけは澄んでいたと評している[275]。その一方で葭子には融通が利かない面もあったとの指摘もある[254]

長沢美津は、葭子は真面目な中にも天性ともいえる楽天的な面があったと指摘している。そして葭子自身は弱点もあり、強い我執も持っていたが、むしろその稀有な我執を持つがゆえに深刻な苦悩の数々に耐え、内省的な作品を制作し続けることができたのであり、病弱な一女性が劣悪な環境に置かれながらも、高い理念の世界にたどり着く意欲を失わなかったと言えると称賛している[301]

歌人の阿木津英は、葭子は女性の覚醒よりも、妄執ともいうべき文芸への強い意志があったと指摘している。そのために文芸のフィールドに居続けることが葭子の人生の目標となったと考えている[302]田井安曇も、10代半ばにして歌人になる夢を抱いた葭子は、幾多の障害に見舞われながらも、その後の人生において夢をひたすらに追求しつづけたと評している[31]。また田井は、葭子の澄んだ朗らかさは鍛えられながら形成されていて、表現を突き詰めていく中で中川一政の言う仏様のような人にまで到達したものであり、その人生は一見、大正デモクラシーに反するように見えるが、近代、そして女性のひとつの達成した姿であると称賛している[303]

評価

『アララギ』破門後に葭子の師匠となった古泉千樫は、病臥中の葭子の短歌について、淡々と詠んでいるようで胸に沁みてくるような歌が多く、

わが家と さだめられたる 家ありて 起き臥しするは たのしかりけり

を例に出して、歌というものは生活を通してその人柄が匂ってくるのが本物だと述べている[281]

親友の原阿佐緒は、晩年の闘病中の作品について、胸にぴったりと焼きつくように響いてくる歌であり、葭子の優れた人格、人徳そして人生苦の孤独な悩みがにじみ出ていると指摘した。そして当時の歌壇で葭子以外の誰がこのような優れた歌を詠めるだろうかと感じていて、葭子の長い戦いの生活は最後に報われたのだと述べている[304]

齋藤茂吉は三ヶ島葭子の短歌について、真実なものになると一句一句に生がにじみ出ていて、読む人に涙を催さないわけにはいかないと称賛し[305]、さらに葭子は真実の歌を詠んでおり、万葉歌人の風格に通じ、近年の歌人には到達不可能の境地に達しているとした[305]。また茂吉は葭子の歌の特徴として、表現が自在であることを挙げており、特に晩年の作品は自在かつ朗らかに楽々と詠いあげていて、誰も、どのような場面においても到底作り得ない境地に達しているとした[306]

長沢美津は、新詩社で与謝野晶子に師事したことが、葭子の作品の特徴である自在な表現の基礎を作り、その後、『アララギ』入門後に自然を見る目を養って視点が細やかになったと指摘している[307]。また齋藤茂吉は、『アララギ』退会後の晩年の作品の自在な表現は、師匠となった古泉千樫からの影響があるのではないかと考えている[177]。そして長沢は大正時代の女性歌人で最も特徴的なのは岡本かの子と三ヶ島葭子であり、あらゆるものを脱ぎ捨ててみてもぬぐい切れない呪縛がつきまとうのが岡本かの子なら、三ヶ島葭子は初めから裸の歌人であると評価した[308]。さらに長沢は最晩年の作品である

今にして 人に甘ゆる 心あり 永久に救はれ がたき我かも

などを挙げつつ、人の世のあらゆる矛盾、悲しみ、病苦など全てを肯定し、それらを真正面から見据え、平明で虚飾も技巧も必要ない、自己を追求し続けた命のうめきのような作品を制作したと評価した[309]

葭子の前期作品を評価する意見もある。田井安曇は、葭子の活躍のピークが歌歴の後半にあるという常識的な見解を認めつつも、前期作品にもとどめがたい涙が湧く事実があり、二つないし三つの活躍のピークを持つ歌人であったと主張している[310]

奥田亡羊は、葭子の歌歴の初期段階から完成度の高い作品を制作しており、中にはスケールの大きな歌も詠んでいると指摘した[311]。脳梗塞発病後の作品は、素材が身近なものに限られるようになったが、かえって葭子の世界をのびのびと、豊かに展開したものになっているとした[312]。そして葭子は愛する家族、友、家、身の回りの世界、そして最後には消えゆく自分自身の命を詠んだ歌人であり、愛することが詩人の本質であることを踏まえれば、三ヶ島葭子は若山牧水に匹敵する大歌人であったと評価した[313]尾崎まゆみは、葭子の短歌は鋭い観察眼が感じられ、命をいつくしむ心があり、そして私は誰のものでもないという強い意志が感じられると指摘している[314]

尾崎左永子は、三ヶ島葭子の短歌は特に絢爛な作品を生み出したわけではなく、作者として天才であったわけでもなく、作品も地味で平明な生活詠であり、平明かつ簡素な作品であるとした[315]。また表現は抑制が効いていてさりげなく、かつ味わい深く[316]、作品の特徴としては相手のない歌、つまり自分自身に言い聞かせる独白のようなもので、自身の切実な苦しみをストレートに表現し、葭子の真実をそのまま歌にしたものであると指摘している。そして葭子の短歌には自らの非運に甘え、感傷的になる面が全く見られず、自らの悩み苦しむ姿を冷静に見つめ、作品化する自我の確立があると評価している[255]。このような自我の確立は大きな進歩であり、また作為のない、まっすぐに生活を見据えて詠む歌風が、例えば一人娘のみなみに対する母としての愛情表現をストレートに表現した

吾子が持つ もやひの傘に わが濡れず 買物もみな 吾子が持ちたり[315]

のような作品に結実し、このようなまともな形で母の歌を確立したのは三ヶ島葭子の功績であり、葭子は女性が妻として、そして母としての自らの立場を明確にして詠む、初めての短歌作品を制作したと考えている。これは女性の近代短歌の出発点のひとつに位置付けられるべきものであり、葭子は一つの世界を切り開いたと称賛している[176]

篠弘は、葭子のことを典型的な忍苦の歌人であるとした。そして様々な困難な中で生き抜こうとした苦渋に満ちた姿や、地道な愛を求め続けた生涯は近代の私小説の世界に通じ、その作品は私小説の抒情化であると定義した[317]。また妻妾同居の状況を詠んだ作品について、自らの悲しみを鋭く見据えたもので、女性の悲しみを主題とした絶唱であると評価している[256]。また厳しい環境下にあっても歌い続けた葭子は最期まで自分を見失うことなく、当時の女性たちを苦しめていた制度の桎梏、理不尽な地位、耐え続けなければならない不条理を作品を通して告発したとの評価がある[278]。一方、女性として苦難に直面した際の作品から、葭子の芯の強さを読み取ることは出来るものの、現実に忍従する形で作品化しているとの意見もあり[318]、歌人の沖ななもも、葭子は社会に出ていこうとするエネルギーを持ちながらも病弱であり、女性に対する強い抑圧があった大正時代、環境を打破するには至らず、親友である原阿佐緒とともに歯がゆい感じがすると評している[319]。そして富小路禎子は、葭子は過酷な人生をその題材とし、狂うことなく表現を見事なまでに抑制しつつ、時代を超える作品を制作したが、それは果たして葭子の本望だったのかとの疑問を投げかけた[320]

三ヶ島葭子の短歌の欠点としては、その作品が主に日常生活の記録的な内容であるため、葭子の生涯、境遇を把握しないと理解が難しく、作品を作品として鑑賞、評価しにくいとの指摘がある[321]若山喜志子は、葭子の短歌はなかなか大胆な手法を用いており、口語表現を多く取り入れたところなど、粗雑の謗りを受けやすいとしている[322]今井邦子は、葭子の短歌は自らの気持ちを正直に見つめ、歌にしたものであり、感動を沈潜させて表現を工夫して作品化したわけではなく、ある意味最期まで素人歌人であったと評価している[323]。また北原白秋は、葭子の短歌について散文的で常識的な範囲に留まっていると評価していた[324]

死後の顕彰

三ヶ島葭子は亡くなる前、夫の倉片に「自分の歌は2、3首しか取れるのがないから、あとは捨てて欲しい」と言い残したが、夫の倉片は妻の遺言に背き、多くの書簡や日記、歌稿などを一つの大きな行李に入れ、保存し続けた。戦時中も行李は疎開先である倉片の再婚相手となった富野の故郷、鳥取に運ばれ[注釈 16]、戦災を免れて多くの書簡や日記、歌稿が残ることになった[326][327]

1931年(昭和6年)、改造社から、青垣会の橋本徳寿、大熊長次郎らによって選歌された889首を収めた、「現代短歌全集 第20巻 三ヶ島葭子集」が刊行された[328]

所沢市神明社にある三ヶ島葭子の第一歌碑

葭子の夫、倉片はそれまで勤めていた大日本水産会を辞め、後援者から当時としては大金の1000円の支援を受けて、葭子の死の直前である1927年(昭和2年)3月17日に日本水政新聞を創設した[329]。会社を創設した倉片は精力的に仕事を行い、経済的な余裕も生まれた1934年(昭和9年)、亡き妻、葭子の歌集を青垣会の橋本徳寿の協力により制作することを決めた[330]。葭子の死後、青垣会の大熊長次郎らによって『アララギ』以降の葭子の短歌を集める作業が進められていたが[197]、歌集制作のために橋本を中心として各雑誌に発表された作品、歌稿に残されていた未発表作品などを集めた[331]。未発表作品の整理は倉片と娘のみなみが協力をしながら進められた[332][333]。なお、責任者の橋本は独断で13歳頃から葭子が短歌を詠み始めた習作時代から、1914年(大正4年)頃の新詩社時代までの作品については収録しないことにした[334]。集めた短歌は約3000首に及び[335]、序文は齋藤茂吉が執筆し、題字、背文字は夫の倉片が書き、立命館出版部より「三ヶ島葭子全歌集」が刊行された[336]。また倉片は通常版の他に金文字で題字、背文字を書いた特製本も制作した[337]

葭子の一人娘のみなみは国文科を専攻し[330]、青垣会に入会して短歌を詠むようになった[338]。1948年(昭和23年)、1934年(昭和9年)に刊行された「三ヶ島葭子全歌集」を底本として、橋本徳寿と娘のみなみが選歌した800首を収録した、「三ヶ島葭子歌集」が創元社から刊行された[339][340]。この「三ヶ島葭子歌集」は比較的売れ行きが良く、葭子の知名度が上がる中、ゆかりの地である所沢に歌碑建立の話が持ち上がった[341]。歌碑に刻まれる短歌は、晩年の作である

しみじみと 障子うす暗き 窓の外 音たてて雨の 降りいでにけり

が選ばれ、所沢市の神明社境内に建立されることになった。歌碑の文字は娘のみなみが揮ごうして、1958年(昭和33年)11月8日、除幕式が行われた[342][343]

所沢市三ヶ島の中氷川神社にある三ヶ島葭子の第二歌碑

三ヶ島葭子に対しての関心が高まる中で、1976年(昭和51年)、「三ヶ島葭子研究」が刊行された[344][345]。1981年(昭和55年)、夫の倉片と娘のみなみの努力により残された葭子の日記が、娘のみなみの編集により「三ヶ島葭子日記」として刊行された[346]。その後もみなみは葭子の遺した書簡などをまとめた書簡集を公刊した[347]

1986年(昭和61年)には

はるの雨 けぶるけやきの こずゑより をりをり露の かがやきて落つ

を刻んだ葭子の第二歌碑が故郷、所沢市三ヶ島の中氷川神社に建立された[348][349]。1987年(昭和62年)、葭子の生誕100年を記念して、亡くなった3月26日を『吾木香忌』に設定した[348][349]。1991年(平成3年)には所沢に「三ヶ島葭子の会」が発足した[349]。2009年(平成21年)3月には、葭子が教師を務めていたあきる野市乙津にある徳雲院境内に、葭子の第三歌碑が建立されている[350]

1993年(平成5年)、『定本三ヶ島葭子全歌集』が短歌新聞社から刊行される[351]。『定本三ヶ島葭子全歌集』では、これまでの歌集が修学時代、新詩社時代の作品を軽視していたのを改め、倉片みなみを中心に集められた各雑誌に投稿された作品の他、日記や歌稿などに記された歌や下書きまで、葭子の制作した全ての短歌を網羅する方針を採り、総計6000首を越える短歌が集録された[352][353]

三ヶ島葭子の遺品、遺稿などの資料は一括して1991年(平成3年)に、倉片みなみから所沢市に寄贈された[354]。その後、1994年(平成6年)5月、寄贈された三ヶ島葭子関連の遺品、関連資料を展示する「三ヶ島葭子記念室」が、葭子の故郷である所沢市三ヶ島に開設された[348][351]。2021年(令和3年)5月、「三ヶ島葭子の会」は解散することになったが、解散に際して倉片みなみから引き継いできた基金を活用して、『定本三ヶ島葭子全歌集』の復刻版である『新版定本三ヶ島葭子全歌集』が刊行されることになり、葭子ゆかりの地である所沢市に拠点を移した角川文化振興財団により2023年(令和5年)、出版された[355]

作品

歌集

  • 『吾木香』、東雲堂 、1921年[205]
  • 『現代短歌全集 第20巻 三ヶ島葭子集』、改造社 、1931年[345]
  • 『三ヶ島葭子全歌集 青垣叢書第9篇』、立命館出版部、1921年[345]
  • 『三ヶ島葭子歌集』、 創元社、1948年[345]
  • 『定本三ヶ島葭子全歌集』、 短歌新聞社 、1993年[345]
  • 『新版三ヶ島葭子全歌集』 、角川文化振興財団、2023年[351]

日記、書簡集

  • 『三ヶ島葭子日記』、至芸出版社、1981年[346]
  • 『三ヶ島葭子往復書簡抄』、至芸出版社、1982年[345]
  • 『生けるものの悲しみ』(原阿佐緒宛書簡集)、水の原社、1987年[349]
  • 『三ヶ島葭子全創作文集』、ながらみ書房、2000年[356]

評伝

  • 枡本良、川合千鶴子、福原滉子、成瀬晶子『三ヶ島葭子研究』、古川書房、1976年[345]
  • 片倉みなみ『葭子慕情』、水の原社、1987年[345]
  • 秋山佐和子『歌ひつくさばゆるされむかも 歌人三ヶ島葭子の生涯』、TBSブリタニカ、2002年[356]

脚注

参考文献

外部リンク

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