中山忠定
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本文書は宮内庁書陵部に所蔵され、『鎌倉遺文』第8巻に収録されている。
みかはの吉良の西条庄は、少将基雅にゆつりわたすよし、さきにゆつり文をかきてたてまつりてき、所らうありし時、かくゆつりたふよし、宜秋門院へ申いれて、女院の自筆の御書を申たまはりたり、子々孫々につたふへきよし、御下文なりたる所也、さらに他のさまたけあるへからす、すへて基雅は、家嫡なれは、なにも々々一かうに惣領せらるへし、(花押)か父母の方よりつたはりたる物所領以下、みな基雅にゆつり申也、父方の領も文書みなこれにあり、契状委細なれは、大納言殿の(花押)にゆつりたひたる処分状をまもりて、惣領せらるへし、文書資財又同前也、母方の領も又吉良のほかも、文書をつたへたる所、をしなくさたして知行せらるへし、大和井上庄等也、すへて(花押)か所持之物文書以下資財雑物まて、一紙一物もらす事なく、みな少将基雅惣領せらるへきなり、これよりのち、他の子息いすくも、いかなる人申さまたくとも、このゆつりをたかふる事あるまし、もしゐらんの事あらは、のちにかきたる状なりとも、それを偽書に処て、この状を真実とすへし、前後状の分別あるまし、以前の状なりとも、以後の状なりとも、みな不可用之、たゝ此状を一定の眼とすへし、少将子孫あらは、次第に相伝せらるへし、もし子なといてきたまはすは、おとゝ地蔵御前を子にして、ゆつらるへし、おのゝゝ成人以前は、母堂のはからひにて、何事もさたあるへきなり、おとゝともをは、子の定におもひて、いとおしくせらるへし、ゆめゝゝ他のさまたけあるへからす、のちのために、こまかにかきをくなり、あなかしこ々々、
暦仁元年十二月十七日、
正二位藤原(花押)、
本状は、暦仁元年(1239年)に忠定が嫡男の中山基雅に充てた処分状である。三河国吉良荘西条をはじめとする所領、および家伝の文書・資財の一切を基雅に譲与し、彼を惣領として家督を継承させる旨が記されている。特筆すべき点として、他者による干渉の排除、後日作成された文書の無効化、および基雅に嗣子がいない場合の弟への継承順位など、将来の紛争防止と家系の存続を意図した極めて周到な条項が含まれている。