中山愛親 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 江戸時代中期 - 後期生誕 寛保元年5月25日(1741年7月7日)死没 文化11年8月18日(1814年10月1日)官位 正二位、権大納言、贈従一位 凡例中山愛親時代 江戸時代中期 - 後期生誕 寛保元年5月25日(1741年7月7日)死没 文化11年8月18日(1814年10月1日)官位 正二位、権大納言、贈従一位主君 桜町天皇→桃園天皇→後桜町天皇→後桃園天皇→光格天皇→仁孝天皇氏族 中山家父母 父:正親町実連、母:広幡豊忠の娘、養父:中山栄親、養母:勧修寺高顕の娘兄弟 養兄弟:花山院愛徳、四条隆師妻 正室:今城定種の娘子 忠尹、砥予子、績子、野宮定静室、今城定成室テンプレートを表示 中山 愛親(なかやま なるちか)は、江戸時代中期から後期にかけての公卿。権大納言・正親町実連の子。官位は正二位・権大納言、贈従一位。中山家21代当主。 権大納言・中山栄親の養子となる。 宝暦11年(1761年)参議に任命され、安永3年(1774年)権大納言に至る。天明2年(1782年)議奏となり、光格天皇に近侍した。天皇の父・閑院宮典仁親王に対し太上天皇号を宣下することに腐心したが、幕府はこれを認めず事態は紛糾した(いわゆる「尊号一件」)。寛政4年(1792年)幕府の命により武家伝奏正親町公明と共に江戸に喚問され、老中松平定信と対談釈明したが、閉門を命じられた。帰洛したのち蟄居し、議奏を罷免された。 明治17年(1884年)従一位が贈られている。なお明治天皇は愛親の来孫に当たる[1]。 尊号一件で愛親が勅使として江戸に下った際に、江戸城の11代将軍・徳川家斉の前で堂々たる抗議をしたという伝説が生まれ、これを元に『反汗秘録』『中山東下記』『中山伝記』といった小説(共に事件よりあまり隔たらない時期の成立と見られる)が密かに書かれている。田中暁龍によれば、同名異本を含めて103種類が現存しているとされる[2]。一番最初期に成立したとされる『反汗秘録』には、当時の京都では「越中(定信の官位)が越されぬ山が二つある。京で中山(愛親のこと)、備前岡山(池田治政)」という落首が詠まれて流行したと記されている[3]。またこの経過に触れている漫画として、みなもと太郎の『風雲児たち』がある。 系譜 父:正親町実連 母:広幡豊忠の娘 養父:中山栄親 養母:勧修寺高顕の娘 正室:今城定種の娘 男子:中山忠尹 寛尹: (母同忠尹。従五位下。後出家、日巌院権僧正法印) 男子:(母同忠尹。河鰭為実子) 重基:(母同。庭田重能嗣) 家女房 女子:砥豫子 - 藤波寛忠室 女子:野宮定静室 女子:中山績子 - 高松局、仁孝天皇典侍 女子:今城定成室 脚注 [脚注の使い方] ↑ 愛親-忠尹-忠頼-忠能-慶子(孝明天皇典侍)-明治天皇 ↑ 田中暁龍「寛政期の尊号一件風説書の展開」『近世の公家社会と幕府』(吉川弘文館、2020年) ISBN 978-4-642-04331-1 P218-220. ↑ 田中暁龍「寛政期の尊号一件風説書の展開」『近世の公家社会と幕府』(吉川弘文館、2020年) ISBN 978-4-642-04331-1 P208-209. 表話編歴中山家21代当主 忠親 - 兼宗 - 忠定 - 基雅 - 家親 - 定宗 - 親雅 - 満親 - 定親 - 親通 - 宣親 - 康親 - 孝親 - 親綱 - 慶親 - 元親 - 英親 - 篤親 - 兼親 - 栄親 - 愛親 - 忠尹 - 忠頼 - 忠能 - 忠愛 - 孝麿 - 輔親 - 忠敬 - この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。表示編集 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。表示編集 典拠管理データベース 全般VIAF国立図書館日本 Related Articles