丹羽宇一郎
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社会的活動・発言
愛知県名古屋市生まれ。愛知県立惟信高等学校、名古屋大学卒業後、1962年(昭和37年)4月、伊藤忠商事に入社。油脂部に配属。1968年(昭和43年)から1977年(昭和52年)までニューヨーク駐在[4]。
1998年(平成10年)に代表取締役社長に就任。「20世紀に起きたことは20世紀のうちに片付ける」と宣言、バブル期に膨らんだ不良債権を一気に処理しながら大リストラを断行、成長性が見込めない部門や赤字の関連会社の整理などを猛スピードで進め、多額の負債を抱えていた業績を2001年(平成13年)3月期決算では過去最高の705億円の黒字を計上するまでに回復させた[5]。2004年(平成16年)から取締役会長となり、2010年(平成22年)4月1日より取締役相談役に転じた[6]。2009年度から義務付けられた役員報酬開示制度で、役員報酬が1億1500万円であることが公表された[7]。
2010年(平成22年)6月17日に、菅直人内閣によって駐中国大使に任命された。これに伴い、伊藤忠商事の相談役取締役など、当時就いていた役職はすべて退任した。民間人が大使に任命されるのは戦後初めてのことで極めて異例であったが、岡田克也外相が主導した人事と報じられた[8]。丹羽のこれまでの人脈や経験を活かし、経済重視を期待されて起用された人事であったが、丹羽が大使に任命された直後の2010年9月には尖閣諸島中国漁船衝突事件が発生し、丹羽は急速に悪化する日中関係の対応・処理に直面することとなった。
2012年(平成24年)には東京都知事である石原慎太郎が尖閣諸島の購入計画を表明し、丹羽はこうした動きに対してイギリスのフィナンシャル・タイムズの紙上インタビューで「実行されれば日中関係に重大な危機をもたらすことになる」などと語った[9]。これには与野党からの批判が相次ぎ、政府は丹羽を交代させることを決定[10]。2012年11月28日に離任して日本に帰国した。
中国大使離任後は、古巣である伊藤忠商事の名誉理事に就任。2013年(平成25年)1月7日、合同会社丹羽連絡事務所の代表社員となる[11]。同年4月には早稲田大学特命教授に就任した。また2015年(平成27年)6月に日中友好協会会長、同年7月にグローバルビジネス学会会長に就任[3][12]。2019年(平成31年)4月、大和市の健康都市大学客員教授に就任[13]。
2024年(令和6年)6月に日中友好協会会長を退任し、名誉会長に就任[14]。
2025年12月24日、老衰で死去[15][5]。86歳没。
2006年(平成18年)から2008年(平成20年)まで内閣府経済財政諮問会議議員、2007年(平成19年)4月1日から内閣府地方分権改革推進委員会委員長を務めた。また2008年(平成20年)には日本・トルコ協会会長に就任し、2010年(平成22年)に同協会の特別顧問に就任。
日本共産党の機関紙「しんぶん赤旗」は2007年(平成19年)、同年1月18日に開催された第1回経済財政諮問会議で丹羽が日本にホワイトカラーエグゼンプションの制度が未整備であることの弊害を指摘したことを報じ、「年収900万円以上に到達しない若手社員に対して長時間労働や残業代削減を強いようとしている」と、名指しで批判した[16]。しかし、丹羽は同会議で「最低賃金の引き上げによる格差是正」や「セーフティーネットの整備」も提言していた[17]。
2017年9月7日の朝日新聞で、「安倍晋三首相と会談する時、習氏はにこりともしないとメディアは騒ぎます。こっちもしかめっつらしているからでしょう。相手は、自らを映す鏡です」[18] と発言している。ただ、2014年11月10日に約2年半ぶりに行われた日中首脳会談では、安倍首相はにこやかに語りかけている[19]。
