板垣兼信
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武田信義の三男に生まれ、甲斐国山梨郡板垣郷(現・山梨県甲府市善光寺周辺)を苗字の地とする板垣氏の祖である。兄弟に一条忠頼、武田有義、武田信光らがあり、子に四郎頼時、六郎頼重、福士義之がいた。
治承・寿永の乱に際しては、一族とともに源頼朝の麾下に参加。兄の忠頼が頼朝によって誅殺された後は、武田氏の次期棟梁と目される存在となり、治承8年(元暦元年、1184年)2月7日の一ノ谷の戦いでは大将軍源範頼の軍の中に彼の名があり、また備前で平家を撃退するなど功績を挙げた。
『吾妻鏡』元暦元年3月17日条によれば、兼信は土肥実平の配下に加わることを不満とし頼朝に訴えるが、頼朝はこれを退けたという。甲斐源氏では同年6月16日に兄忠頼が誅殺されており、さらに父信義も失脚し勢力を失う。尚、頼朝の晩年には叔父安田義定も失脚している。文治5年(1189年)に兼信は太皇太后領・駿河国大津御厨(静岡県島田市野田)の地頭職を解任された。
建久元年(1190年)、違勅(勅令違反)の罪を問われて円勝寺領遠江国質侶庄[2](静岡県榛原郡金谷町志戸呂)の地頭職をも解任され、隠岐国へ配流された[3]。
子孫とする一族には、戦国時代に武田信玄の傅役となった板垣信方や、『甲陽軍鑑』によれば「両職」を務めたと言われる信方の子の信憲を輩出した。