大給近孝
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子爵・大給近道[注釈 2]の長男として生まれた[2][6]。父の死去に伴い、1902年(明治35年)11月22日、子爵を襲爵した[2][7]。近孝は学習院初等科・中学科を卒業後、とくに職には就かず、日本弘道会評議員[8]、子爵会幹事などを務めた[9]。学習院では大正天皇の学友であり[10][9]、1908年(明治41年)の九州視察に際し旧藩主として大分県で出迎えている[10]。1915年(大正4年)、皇子浴場之儀鳴弦控となる[4]。同年12月25日付[11]で貴族院子爵議員補欠選挙に当選すると吉田清風の次席に序され、第3部研究会所属[12]として活動し1925年(大正14年)7月9日まで2期在任した[4]。
親族
ゆかりの地
著作
- 大給近孝「春寒絕峭憶鄕國」『大正詩文』第5巻第4号、雅文会、1918年4月、31頁(コマ番号0020.jp2)。doi:10.11501/1512295、全国書誌番号:00014248。
- 大給近孝「挨拶」『弘道』第314号、日本弘道会、1918年5月、41-42頁(コマ番号0028.jp2)、doi:10.11501/6057857。
- 広瀬淡窓「1、旧府内藩主大給近孝子爵(淡窓先生関係文書)」『淡窓全集』下巻、大分県日田郡:日田郡教育会(編)、1925-1927年、20-21頁(コマ番号0543.jp2)、doi:10.11501/1913251、全国書誌番号:51003782。広瀬貞治に宛てた書状、大正4年(1915年)12月1日付。先代の広瀬求馬(1856年没)と伯父・久兵衛(1871年没)の位階追贈を祝う。
- 「我が団の防訓について」『警防』第7巻第11号、警防社、1941年11月、28-29頁(コマ番号0016.jp2)、doi:10.11501/1537831、全国書誌番号:00006664。

