井伊直憲
日本の侍、政治家 (1848-1904)
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経歴
父・直弼が実兄(直憲の伯父)直亮の世子だった時代に生まれる。母は側室の西村氏・里和。幼名は愛麿。実質的な長男(兄は生後間もなく夭逝)であったが、側室の子でもあり、直弼の生前に嫡子としての届け出はなされていなかった。
安政7年(1860年)3月3日の桜田門外の変で直弼が暗殺された後、彦根藩は幕閣の政治的配慮により取り潰しを免れ、万延元年(安政から改元)4月28日、数え13歳で家督相続が認められた(直弼の死は周知ながら、藩は閏3月晦日まで直弼の存命を装い家督相続の手続を進めた)。大老として辣腕を振るった父とは対照的に地味な性格だった。同年8月26日、従四位下・左近衛権少将に叙任され、掃部頭を兼任する。
文久2年(1862年)11月20日、松平春嶽らによる幕政改革(文久の改革)において、父の専横・圧政を糾弾され、20万石へ減封された。これに先立ち、家老岡本半介の進言で父の腹心であった長野主膳と宇津木景福を処刑したものの、処分は緩和されず、譜代筆頭でありながら幕府との関係は険悪化する。それでも天誅組が挙兵した際は幕命により出兵し、鎮圧に貢献した。
元治元年(1864年)4月18日、左近衛権中将(掃部頭は如元)に転任。池田屋事件や禁門の変での功により同年8月22日、旧領のうち3万石を回復する。
慶応2年(1866年)、第二次長州征討では高田藩及び彦根藩兵が芸州口の先鋒となったが、大村益次郎の訓練を受けた長州藩諸隊の散兵戦術に旧式の装備・戦法で臨んだため、大敗を喫する。以後、藩内では谷鉄臣や大東義徹ら勤王派が台頭し、徳川慶喜に近い岡本半介の影響力が低下する。

慶応4年(1868年)、戊辰戦争の端緒となった鳥羽・伏見の戦いでは、谷鉄臣らの藩兵が当初から新政府軍に属して東寺や大津を固めた。その後、東山道鎮撫総督に属し、近藤勇を捕縛するなどの功を挙げたが、小山の戦闘では大鳥圭介らの旧幕府軍に撃破される。彦根藩軍はその後、白河口の攻防から会津に転戦する。
明治2年(1869年)6月初め、戊辰戦功により賞典禄2万石を付与[3][4]された後、6月17日の版籍奉還により彦根藩知事に任じられ、谷や大東、西村捨三ら下級武士出身者主導の藩政改革を承認し、人材登用を推進する。明治4年(1871年)2月に東京府貫属となり、同年7月14日の廃藩置県により知事を免ぜられる。この間、明治2年9月より湖上蒸気船製造を計画・指揮し、明治4年3月に完成、「金亀丸」と命名して松原–大津間の航行に充てた[5]。
その後、弟の井伊直安とともに、欧米視察のため明治5年(1872年)10月に横浜を出帆、ニューヨーク・ロンドン・パリを拠点に巡遊し、新暦1873年(明治6年)11月に帰国した[6]。
1877年(明治10年)、彦根の小学校への視察が契機となり、小学校10校に各300円を寄付した。また、旧藩校由来の彦根学校(現滋賀県立彦根東高等学校の母体)の創立にあたり建築費を、さらに同校が県立中学校となるまで教育費を補助し続けた[7][8]。
1884年(明治17年)7月、華族令により伯爵に列せられ、1890年(明治23年)に貴族院伯爵議員に選出、1897年(明治30年)まで務めた[4][9]。