西村捨三
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彦根藩士。彦根藩作事奉行・西村又次郎の三男。母親は捨三が生まれた翌年に没した[1]。
- 1857年(安政4年)から4年間藩校弘道館で学び、
- 1861年(文久元年)、19歳で江戸に留学した。戊辰戦争では甲州方面、北関東各地を転戦し、流山では近藤勇の捕縛に立ち会う。
- 1872年(明治5年)藩主井伊直憲の欧米巡行に随行する。
- 1876年(明治9年)政府に入り、大久保利通の推挙により内務省奏任御用掛となる。少書記官、権大書記官、大書記官、庶務局長を経て、
- 1881年(明治14年)、内務省警保局長に就任。
- 1883年(明治16年)、沖縄県令に就任。沖縄県令時代には、北大東島、南大東島の調査に携わり、両島の日本領土編入に尽力した。
- 1886年(明治19年)、内務省土木局長に就任。河川道路の改修に力を入れる。
- 1889年(明治22年)、大阪府知事に就任。特別市制が施行されたため、初代大阪市長代行も兼務した[2]。コレラの流行や新町の火災、水道建設の要望がおこり、その対応に尽力した。2年強の府知事在任期間には、大阪府立商品陳列所、勝山農学校(現大阪府立大学)の創設、木村長門守表忠碑の建碑などの業績を残した[3]。
- 1891年(明治24年)に第1次松方内閣で農商務次官に就任、
- 1893年3月に農商務次官退官[4]。北海道炭礦鉄道 第3代社長に就任。
- 1895年(明治28年)、近江鉄道を創立。
- 1897年(明治30年)、大阪築港事務所初代所長に就任。同年から開始した大阪築港工事に要する資金(大阪市年間予算の230倍に相当)の海外調達に尽力[5]した。就任から5年後、第一期工事がほぼ完成に向かっているとき、病気のため退職。
- 1908年(明治41年)、66歳で死去した[6]。
