今泉嘉一郎
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慶応3年(1867年)、上野国勢多郡花輪村(現・群馬県みどり市東町花輪)に生まれる[3][4][2]。父・彦右衛門(のち彦作)は幕府代官付の村吏を勤め[5]、明治維新後には区長となった[5][4]。母・常子は伊勢崎藩の藩医だった原(入婿し田村)常益の二女として生まれ、12歳で江戸へ出て浅田宗伯に学んだのち、17歳で開業医となった[6]。
1873年(明治6年)に祥禅寺で花輪小学校が開校されると嘉一郎は直ちに同校に入学[7][2]。花輪学校卒業後、1881年(明治14年)に群馬県中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に入学した[8]。しかし1年足らずで退学し、1882年(明治15年)に上京し独逸学協会学校・柳蔭家塾で学ぶ[9][4][2]。独逸協会学校には第1期生として入学し、大倉喜三郎、松井茂らと同級だった[10]。1884年(明治17年)に一ツ橋の大学予備門に入学し[10][4][2]、1886年(明治19年)からは第一高等中学校で学ぶ[10]。第一高等中学校では水野錬太郎、若槻礼次郎、小川平吉などと寄宿生活を送った[10]。この頃まで医師を目指していたが、ふと小学校の卒業論文「志は大なるを要す」を思い出し、医術よりももっと広い殖産興業方面に進むことに改め[10]、1889年(明治22年)東京帝国大学工科大学に入学した[10][4]。鉱害対策技術に深い関心を寄せ、在学中から別子銅山の硫化鉄鉱処理による煙害防止、未利用資源開発などに先鞭をつけ、また、日本の将来の富源は鉱山にありと鉱山の重要性を松山市の海南新聞に「伊豫鉱山論」を投書した[11]。伊豫鉱山論では、伊豫の各銅山が同業者間の組織を作ることにより経営の合理化を図ると同時に、技術上にも、有用含有物の完全採取をもって冶金術を合理化すべきことを述べ、従来いたずらに焼き棄てられていた硫黄分鉄分を完全に採取して、化学工業および製鉄事業の原料とすべきことを唱えて、当事者並びに一般大衆に向かって注意喚起をした[11]。
1892年(明治25年)に帝国大学を卒業し、農商務省に技師試補として入省[4][2]。同年別子銅山で調査を行い「別子銅山における湿式収銅法試験について」で、銅鉱山から排出される硫黄を化学品としての硫酸製造に利用し、従来の乾式精錬法では採りきれない銅の痕跡までも採取し、最後に鉄分は製鉄原料として利用する方法を記した[12]。この調査の結果は後藤象二郎農商務大臣に報告された後、政府案としてまとめられ、1895年(明治28年)に榎本武揚農商務大臣の時に製鉄所設立案が提出され衆議院を通過[11]、翌1896年(明治29年)に製鉄所官制が発布された。
1894年(明治27年)から2年間、ドイツ・フライベルク鉱山大学・ベルリン鉱山大学に留学し、冶金学を学んだ[13][4]。榎本武揚が推進していた官営八幡製鉄所の設立が決定されると、榎本の知遇を得た嘉一郎は帰国する1896年(明治29年)に製鉄所工務部長代理に任命され、その建設に従事することとなった[14]。同所では鋼材部長や工務部長を歴任し[13][4][2]、勅任技師に進んだ[13][2]。この間帝国大学工科大学講師も嘱託される[15][4]。八幡製鉄所の経営不振の原因を官業による弊害が顕在化したためと考え、「製鉄所処分案」を作成し民業への移管を提案した[16]。
鉄鋼業は軍事でなく平和産業に結び付いて発展するとの信念のもとに、1912年(明治45年)に一橋大学予備門以来の友人白石元治郎と日本鋼管株式会社(現、JFEスチール)を設立[17]。日本で初めて継目無鋼管の製造を手がけたほか、1936年(昭和11年)には念願の高炉を建設し、銑鋼一貫製鉄所を完成させた。当時、日本で主流の製鋼法は平炉であったが、平炉は鉄スクラップの使用を前提としており、日本は米国などからの鉄スクラップの輸入に頼っていた。満州事変を契機に原料不足が深刻化する中、鉄スクラップに依存しない高効率な製鋼法であるトーマス転炉に着目し、日本鉄鋼協会などでその必要性を説いたものの受け入れられず、結局自ら創設した日本鋼管・川崎製鉄所での導入を決めた。トーマス転炉はリン分の高い鉄鉱石を原料とした時にその威力を発揮するが、当時日本で流通していた鉄鉱石はリン分が少なかった。そこで嘉一郎は、高炉にリン鉱石を加えて調整するという、日本独自のトーマス製鋼法を開発した[18]。また、スラグ化したリンも農業用の肥料として活用した[18]。
1915年(大正4年)工学博士[15][4][2]。1917年(大正6年)には母校・花輪小学校に1万円を寄付した[19][2]。これにより新築された校舎は現在旧花輪小学校記念館として国の登録有形文化財となっている。
1920年(大正9年)には第14回衆議院議員総選挙に群馬県から出馬して当選[20][4][2]、衆議院議員としてメートル系度量衡の採用を法案通過させた[21]。1922年(大正11年)、ウィーンで開催された第19回列国議会同盟には議会代表議員団長として出席し[22]、ルクセンブルク大公国名誉総領事となる[23][2]。
1924年(大正13年)日刊工業新聞社社長に就任[24]。ほかに工業品規格統一調査会委員、日本鉄鋼協会会長、日本鋼管、南洋鉄鉱各取締役などを歴任した[15]。著作に『鉄屑集』(1930年、上下巻)がある[25]。
