佐々久
From Wikipedia, the free encyclopedia
佐々 久 (ささ ひさし) | |
|---|---|
| 生誕 |
1909年10月1日 |
| 死没 |
1989年6月8日(79歳没) |
| 職業 | 郷土史家、東洋史学者、教育者 |
| 言語 | 日本語 |
| 最終学歴 | 東北帝国大学法文学部 卒 |
| 主題 | 郷土史、仙台藩、宮城県 |
| 主な受賞歴 |
河北文化賞(1980年) 勲四等瑞宝章(1981年) |
佐々 久(ささ ひさし[※ 1]、1909年10月1日 - 1989年6月8日)は、日本の郷土史家、東洋史学者、教育者。宮城県図書館長、仙台郷土研究会会長などを務めた。
宮城県仙台市生まれ。東北帝国大学で東洋史を専攻し東北学院の教授などを務めたのち、30代後半で宮城県の郷土史研究に転じる。公務員として教育行政や文化財保護、図書館運営に携わりながら『仙台市史』、『宮城県史』の編纂・執筆をし、また宮城県内の多くの自治体の地方史を監修した。1981年、勲四等瑞宝章受章[1]。蔵書は宮城県図書館に寄贈され「佐々久文庫」として所蔵されている。
東洋史学者へ
1909年(明治42年)10月1日、宮城県仙台市二十人町に7人きょうだいの長男として生まれる[3]。父・佐々鬼之助は東北実業銀行(現・七十七銀行)石巻支店長などを務めた人物であり[4][5]、父方の祖父・佐々則友は幕末を生き延びた仙台藩士だった[6][7]。伊達政宗の側近であった佐々元綱(佐々若狭)の末裔でもある[8]。また母方の曽祖父に、戊辰戦争時に仙台使節として秋田を訪れて殺害された仙台藩士の志茂又左衛門実明がいる[6]。
榴岡小学校、仙台第一中学校(現・仙台第一高校)を経て、仙台市にあった旧制第二高等学校に入学し、1931年卒業。[1]
1930年12月に阿刀田令造を会長として仙台郷土研究会が結成されると、郷土の史蹟を巡り歩く第1回実地踏査会(1931年4月)などの活動に最初期から参加した。久は旧制二高内の「巡蹟会」の責任者でもあった。[9]
東北帝国大学法文学部史学科に進学。東洋史を専攻し武内義雄や原田淑人らに学ぶ[10]。1934年3月卒業。同年4月より、同大同学部の東洋美術史研究室で主任教授の福井利吉郎の副手を務める[1][10]。1936年7月より3か月、研究のため東北帝大教授の岡崎文夫とともに中国中東部に出張。帰国後、1936年11月より東北帝大の学生課補佐兼主事補を務める。[1]
1938年5月、東北学院高等学部文科史学科の教授となる。1940年より旧制第二高等学校の講師なども兼務した。戦中から戦後にかけて『清末七十年史』(金井之忠との共著、1942年)、『支那の政治と民族の歴史』(岡崎文夫との共著、1947年)を刊行するが、その後は宮城県の郷土研究を専門とし、仙台市史・宮城県史の編纂委員や宮城県文化財専門委員などを務める。[1]
図書館長・郷土史家としての活躍
1946年、宮城県教育民生部(後の宮城県教育委員会)の視学官(後に制度変更により指導主事)となり、1950年に宮城県の県立高校であった角田女子高校の校長となる。1953年から1964年までは10年以上にわたって、宮城県図書館長として腕を振るった。この間、1957年からは東北大学教育学部の講師も務めた[1]。宮城県図書館は1945年7月の仙台空襲で、疎開させていた一部の書籍を除き当時所蔵されていた13万冊の資料が建物ごと全焼しており[11]、久が図書館長になった時期はまだその回復途上にあった。久は自ら東京まで出て古書を買い集めたり、あるいは『仙台人名大辞書』(1933年)の執筆などで知られる菊田定郷が父・佐々鬼之助と旧知の仲であった縁で菊田の没後にその蔵書の寄贈を受けるなどして、県図書館の蔵書を拡充させていった[4]。また、宮城県庁が廃棄しようとしていた明治期からの公文書4000点以上を図書館として引き取り、資料として使えるようにした功績もある[4]。こういったことが、のちに編纂される県内の各自治体の郷土史や『宮城県教育百年史』(佐々久ほか監修、宮城県教育委員会、1975〜1979年)などの充実に寄与することとなった。
県図書館長を長く務めたのち、1964年から1967年まで宮城県民会館の初代館長を務める[1]。1965年4月、中国の文学者である老舎を団長とする中国作家代表団が仙台を訪れた際には、中国作家代表団歓迎実行委員会常任委員を小説家の大池唯雄らとともに務めた。[12]
退官後の1968年に財団法人仙台美術館の館長となり、1981年までその任に当たった[1][13]。また、1976年には結成最初期から関わっていた仙台郷土研究会の会長となり、しばらく休刊となっていた会誌『仙台郷土研究』を復刊させた。仙台郷土研究会の会長は亡くなるまで務めることとなる。同年夏には「宮城県古文書を読む会」の発足にも携わり、講師として指導を行った[14]。ほかに、1970年開局の宮城テレビ放送では、開局から亡くなるまでの約20年間、番組審議会の委員を務め、同局の番組「日本民謡大賞」に審査員として出演することもあった[15]。
1980年、文化財の保護と郷土史研究での功績に対し、第29回(1979年度)河北文化賞が贈られた。翌1981年には勲四等瑞宝章を受章[1]。1984年には仙台市から市政功労者として表彰された[16]。
1988年夏に脳梗塞で倒れ、1989年(平成元年)6月8日、療養中の仙台市の自宅で死去。79歳。葬儀は仙台市宮城野区の孝勝寺で、前宮城県副知事(当時)の津軽芳三郎を葬儀委員長として行われた[2]。宮城県知事、仙台市長、宮城テレビ放送社長、仙台銀行頭取らによる弔辞は、『仙台郷土研究』の「佐々久会長追悼号」(1989年12月)に収録された。宮城県図書館には久から寄贈されたコレクションが「佐々久文庫」として所蔵されている。
主な著作
単著
- 『七十年史』仙台商工会議所七十年史編纂委員会編、仙台商工会議所、1967年7月
- 『宮城県仏教史』歴史図書社、1977年10月 - 1961年に『宮城県史12 学問・宗教』に収録されたものの単行本化
- 『近代みやぎの歩み 明治・大正・昭和』宝文堂、1979年1月
- 『仙台あちらこちら』宝文堂、1982年8月
ほかに、死去の5年後に発行された仙台郷土研究会の『仙台郷土研究』復刊第19巻第1号(通巻248号、1994年6月)は、「佐々久著作集」と題され、「伊達家と仙台藩」「みやぎの祭り」「ふるさとの歴史と随想」の3部に分けて、久がさまざまな媒体で発表した論考類の一部を収録している。
共著
- 『清末七十年史』(弘文堂書房〈教養文庫〉、1942年8月) - 金井之忠との共著
- 第3章「曽国藩の清朝再造と諸改革意見の擡頭」、第4章「官場の腐敗」を執筆
- 『支那の政治と民族の歴史』(弘文堂書房〈教養文庫〉、1947年4月) - 岡崎文夫との共著
- 書籍後半部の「支那の民族の歴史」を執筆
- 『角田の百年』角田市公民館、1968年10月 - 吉岡一男との共著
編著
- 『みちのくの民話』編集委員:佐々久・渡辺波光・鈴木道太ほか、東北農山漁村文化協会編、未來社、1956年
- 『みちのくの民話 新版日本の民話 別巻1』未來社、2017年5月
- 『東北のまつり』東北六県神社庁、1968年10月 - 編集:佐々久・押木耿介
- 『仙台のしにせ』仙台のしにせ編纂委員会(佐々久ほか)編、仙台商工会議所、1970年10月
- 『宮城県の百年』宮城県企画部編、宮城県、1972年10月 - 編さん委員代表:佐々久
- 佐々久編『郷土史事典 宮城県』昌平社、1977年 / 改訂版 1982年9月
- 佐々久編『明治・大正・昭和の郷土史6 宮城県』昌平社、1982年4月
- 仙台市史
- 『目で見る仙台の歴史』仙台市史図録編纂委員会(古田良一、伊東信雄、小倉強、佐々久ほか)編、仙台市、1959年3月 / 増補改訂版 宝文堂、1975年2月
- 『仙台市史続編 別巻 仙台の歴史』仙台市史続編編纂委員会(豊田武、伊東信雄、佐々久、伊達篤郎ほか)編、仙台市、1970年3月
監修
- 『仙台の散策 歴史と文学をたずねて』佐々久監修、宝文堂、1974年8月
- 『仙台の散策 歴史と文学をたずねて 修訂版』佐々久監修、宝文堂、1990年8月
- 『仙台の散策 歴史と文学をたずねて 改訂版』佐々久・吉岡一男監修、宝文堂、1999年4月
- 『宮城県教育百年史』全4巻(監修:岩下新太郎・宇野量介・佐々久、宮城県教育委員会、1975年〜1979年)
- 『みやぎの風物誌』仙台放送編、宝文堂、1975年8月
- 『多賀城と仙台圏 その歴史と風物』仙台放送『週刊仙台』編集部編、仙台放送、1976年
- 『仙台八十八景』仙台放送編、宝文堂、1977年10月
- 『仙台藩家臣録』全5巻、歴史図書社、1978年5月〜1979年2月
- 『鳴子温泉郷 新風土記』監修:佐々久・只野義男、宮城県鳴子町観光協会、1980年9月
- 『みちのく宮城 ふるさとマイ・ラブ』監修:宮城県広報協会・佐々久、創童舎編、宝文堂、1980年11月
- 『ふるさとみやぎ文化百選 1 まつり』監修:佐々久・竹内利美、「ふるさとみやぎ文化百選」編集委員会編、宝文堂、1984年5月
- 『ふるさと宮城の八十八人』監修:佐々久・逸見英夫、仙台郷土研究会編著、仙台郷土研究会、1986年
- 『政宗博物誌』仙台郷土研究会編、財団法人瑞鳳殿発行、創童舎発売、1987年4月
- 監修のほか、第5章「エピソードでつづる人間政宗」の執筆を担当
- 『宮城県風土記』監修:佐々久・竹内利美・設楽寛、旺文社、1987年10月
仙台市史・宮城県史の執筆
- 仙台市史
- 宮城県史
- 『宮城県史16 観光』宮城県史編纂委員会編、宮城県史刊行会、1955年5月
- 『宮城県史8 土木』宮城県史編纂委員会編、宮城県史刊行会、1957年8月
- 「土木概説」pp.1-119、「阿武隈川の治水」pp.551-581
- 『宮城県史5 地誌・交通史』宮城県史編纂委員会編、宮城県史刊行会、1960年1月
- 「鉄道交通史」pp.637-709
- 『宮城県史7 警察』宮城県史編纂委員会編、宮城県史刊行会、1960年12月
- 「警察」pp.119-251
- 『宮城県史12 学問・宗教』宮城県史編纂委員会編、宮城県史刊行会、1961年1月
- 「仏教史」pp.207-500、「神社概説」pp.501-546
- 『宮城県史9 産業1』宮城県史編纂委員会編、宮城県史刊行会、1968年3月
- 「宮城県工業史」pp.477-622
- 『宮城県史13 美術・建築』宮城県編、宮城県史刊行会、1980年3月
- 「仏像彫刻」pp.1-107、「書道普及史」pp.109-174、「宮城県絵画小史」pp.175-201
- 『宮城県史29 人物史』宮城県編、宮城県史刊行会、1986年3月
- 「男性篇」(佐々久編)pp.3-237
書籍収録の論文・随筆類
- 「(南山和尚と仙台)交友をめぐって」(『南山古梁』南山古梁禅師顕彰会、1962年12月、pp.54-56)
- 「宮城県」(『日本祭礼風土記 3 関東・東北・北海道』宮本常一編、慶友社、1963年2月、pp.233-261)
- 「六十二万国の足跡」
- 「宮城県側の史跡と文化財」(『鳴子・栗駒・小安峡』一力次郎編著、牧野出版社、1975年5月、pp.77-127)
- 『宮城県の昭和史 近代百年の記録』(上下巻)毎日新聞社、1983年7月
- 「「小鮒釣りしあの頃」の思い出」(『自然と遊ぶ 続ふれあい宮城』宮城県広報協会、1986年3月、p.135)
- 「伊達騒動 その虚と実」(『ザ・仙台 伊達政宗と杜の都 歴史とロマンの旅』読売新聞社、1986年11月、pp.66-73)
雑誌掲載の論文・随筆類
- 『仙台郷土研究』
- 「仙台藩の画員の系統について」(16巻1号、1947年)
- 「仙台附近の土地開発について」(16巻3号、1947年)
ほか多数。『仙台郷土研究』復刊第19巻第1号(通巻248号、1994年6月)に「仙台郷土研究に発表した故佐々久会長の論文目録」あり。
- 『宮城警友』
- 「宮城県警察物語」11巻1号(1957年)〜18巻7号(1964年)連載、宮城県警察本部教養課
- 「警察物語 藩政時代の巻」19巻1号(1965年)〜19巻4号連載、宮城県警察本部教養課
- 「宮城県人の人脈と系譜」20巻7号(1966年)~21巻9号(1967年)連載、宮城県警察本部教養課
- 「戦後宮城県警察史」22巻2号(1968年)~24巻1号(1970年)連載、宮城県警友会消費生活協同組合
ほか単発記事もあり。
- 中国関連
- 宮城県関連
- 「図書館風土記・宮城県の巻」『図書館雑誌』47巻12号(1953年)、日本図書館協会
- 「宮城県の白山神社の祭について」『神道学』復刊18号(1958年8月)、神道学会
- 「都市のまつり」『新都市』宮城県特集号、16巻10号(1962年10月)、都市計画協会
- 「郷土に尽した人々 宮城県の巻 早川智寛伝」『都道府県展望』11巻62号(1963年11月)、全国知事会
- 「ふるさとの味 宮城県」『週刊読売』24巻4号(1965年1月24日号)、読売新聞社
- 「仙台藩の形制史」『調停時報』45号(1966年1月)、日本調停協会連合会
- 「化物屋敷と狐の話」『つつじがおか明寿会々報』15(1967年)、榴岡明寿会
- 「伊達風雲録 仙台藩の一門」『歴史読本』15巻5号(1970年5月)、人物往来社
- 「千代萩の真相」『共済医報』27巻4号(1978年11月)、国家公務員共済組合連合会
- 座談会「地方シリーズ・東北の巻 工場誘致と観光開発を両輪として」一力一夫・佐々久・太田耕二、『通算ジャーナル』13巻4号(1980年7月)、通商産業調査会
- 「歴史と歌舞伎 伊達騒動 三代藩主綱宗によせて」『人事院月報』36巻6号(1983年6月)、人事院管理局
- 「伊達政宗と仙台城」『歴史研究』309(1987年)、新人物往来社
ほかに、仙台商工会議所の機関紙『会議所ニュース』では1956年から「会頭列伝」「工業物語」「のびゆく工場拝見」「仙台あちらこちら」「伊達騒動とその時代」などを連載したが、その初期には谷川清という筆名を使用したこともあった[17]。
小冊子類
郷土史の監修
- 『渡波町史』渡波町史編纂委員会編、宮城県牡鹿郡渡波町、1959年5月[※ 3]
- 『田尻町史』田尻町史編纂委員会編、宮城県遠田郡田尻町、1960年8月
- 『涌谷町史 上巻』涌谷町史編纂委員会編、宮城県遠田郡涌谷町、1965年10月 - 編纂委員長:佐々久
- 『涌谷町史 下巻』涌谷町史編纂委員会編、宮城県遠田郡涌谷町、1968年3月 - 編纂委員長:佐々久
- 『雄勝町史』雄勝町史編纂委員会編、宮城県桃生郡雄勝町、1966年10月
- 『多賀城町誌』多賀城町誌編纂委員会編、多賀城町誌編纂委員会、1967年10月
- 『古川市史 上巻』古川市史編纂委員会編、宮城県古川市、1968年9月 / 臨川書店 復刻版 1987年12月
- 『古川市史 下巻』古川市史編纂委員会編、宮城県古川市、1972年8月
- 上巻の「第四篇 近世史」(pp.243-382)、「第五篇 現代史I(明治前半期)」(pp.383-468)は執筆も担当
- 『唐桑町史』唐桑町史編纂委員会編、宮城県本吉郡唐桑町、1968年12月
- 『山元町誌』山元町誌編纂委員会、宮城県亘理郡山元町、1971年1月
- 『鳴瀬町誌』鳴瀬町誌編纂委員会編、宮城県桃生郡鳴瀬町、1973年3月 / 増補改訂版 1985年10月
- 『金成町史』金成町史編纂委員会編、宮城県栗原郡金成町、1973年9月
- 監修のほか、「(補遺)葛西、大崎一揆」(pp.72-75)を寄稿
- 『若柳町史』若柳町史編纂委員会編、若柳町、1974年3月
- 『小野田町史』小野田町史編纂委員会編、宮城県加美郡小野田町、1974年12月
- 『亘理町史 上巻』亘理町史編纂委員会編、宮城県亘理郡亘理町、1975年10月
- 『亘理町史 下巻』亘理町史編纂委員会編、宮城県亘理郡亘理町、1977年3月
- 上巻の「第20章 亘理の仏像」として佐々久による「亘理町仏像調査報告」が収録されている
- 『河北町誌 上巻』河北町誌編纂委員会編、宮城県桃生郡河北町、1975年11月
- 『河北町誌 下巻』河北町誌編纂委員会編、宮城県桃生郡河北町、1979年8月
- 『高清水町史』高清水町史編纂委員会編、宮城県栗原郡高清水町、1976年1月
- 『築館町史』築館町史編纂委員会編、宮城県築館町、1976年3月
- 『志波姫町史』志波姫町史編纂委員会編、志波姫町、1976年10月
- 『名取市史』名取市編纂委員会、宮城県名取市、1977年3月
- 『花山村史』花山村史編纂委員会編、花山村、1978年3月
- 『丸森町史 史料編』丸森町史編さん委員会編、宮城県伊具郡丸森町、1980年3月
- 『丸森町史』丸森町史編さん委員会編、宮城県伊具郡丸森町、1984年12月
- 『松山町史』松山町史編纂委員会編、宮城県志田郡松山町、1980年7月
- 『本吉町誌』本吉町誌編纂委員会編、宮城県本吉町、1982年3月
- 『大河原町史 通史編』大河原町史編纂委員会編、宮城県柴田郡大河原町、1982年5月
- 『大河原町史 諸史編』大河原町史編纂委員会編、宮城県柴田郡大河原町、1984年3月
- 『田尻町史 上巻』田尻町史編さん委員会編、宮城県田尻町、1982年10月
- 『田尻町史 史料編』田尻町史編さん委員会編、宮城県田尻町、1983年6月
- 『岩沼市史』岩沼市史編纂委員会編、宮城県岩沼市、1984年1月
- 『多賀城市史 第5巻 歴史史料1』『同 2』多賀城市史編纂委員会編、多賀城市、1985年3月 - 監修:伊東信雄・佐々久
- 『利府町誌』利府町誌編纂委員会編、宮城県利府町、1986年3月
- 『泉市誌』(上下巻)泉市誌編纂委員会編、宮城県泉市、1986年11月
- 『東和町史』東和町史編纂委員会編、宮城県東和町、1987年3月
- 『蔵王町史 資料編1』蔵王町史編さん委員会編、蔵王町、1987年3月
- 『蔵王町史 資料編2』蔵王町史編さん委員会編、蔵王町、1989年3月 - 病気のため佐々久の序文なし
- 『牡鹿町誌 上巻』牡鹿町誌編纂委員会編、牡鹿町、1988年11月 - 病気のため佐々久の序文なし
先祖・親族
- 先祖
- 佐々元綱(佐々若狭) - 伊達政宗の側近。佐々若狭の名でも知られ、佐々若狭元綱とも書かれる。元綱が自身の跡を継ぐはずだった長男を失った際、又作(またさく)という名の次男(後の佐々元定)がいるにもかかわらずいつまでも悲しんでいたことから、伊達政宗が又作の名と「また咲く」をかけて元綱に以下のような狂歌を詠んだというエピソードがあり、佐々久が政宗の人となりを示すものとして『政宗博物誌』で紹介している。「冬発(ひら)く梅はさながらちり果てて残れる枝に花や又作」。[18]
- 親族
- 志茂又左衛門実明 - 母方の曽祖父。仙台藩士。1868年(明治元年)6月、仙台藩の正使として秋田を訪れた際、秋田藩士に斬殺された(秋田戦争も参照のこと)。[6]
- 佐々則友 - 父方の祖父。仙台藩士。戊辰戦争の際、18歳だった則友は官軍に捕らえられたが逃げ延びた。[6][7]
ほかに、佐々久本人へのインタビュー記事によれば、藩内の勤王派の思想的指導者であった仙台藩士の桜田良佐(さくらだ りょうすけ、1797-1876)とも親戚である。[6]