佐藤毅 (新聞記者)
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さとう つよし 佐藤 毅 | |
|---|---|
| 生誕 |
1931年10月6日[1][2] |
| 死没 |
2022年1月13日(90歳没)[4] |
| 出身校 | 早稲田大学政治経済学部[5][6] |
| 職業 | 新聞記者、実業家 |
| 活動期間 | 1954年 - 2001年 |
| 著名な実績 | 中日新聞東京本社編集局長[7]、中日新聞社相談役[4]、中日ドラゴンズ球団代表取締役社長[4] |
佐藤 毅(さとう つよし[8]、1931年〈昭和6年〉10月6日[1][2] - 2022年〈令和4年〉1月13日[4])は、日本の新聞記者、実業家[9]、ジャーナリスト[10]。岐阜県美濃市神洞(出生当時は武儀郡下牧村神洞)出身[3]。中日新聞東京本社編集局長[7]、中日新聞社相談役[4]。
1995年(平成7年)9月から2001年(平成11年)10月まで中日ドラゴンズ球団代表取締役社長を務めた[4]。2022年1月13日、自宅のあった岐阜県岐阜市のビルで発生した火災により死亡した(90歳没)[4]。
生い立ち
1931年(昭和6年)10月6日[1][2]、岐阜県美濃市で出生した[5]。出身地は美濃市立神洞小学校区であり、少年時代に神洞で過ごした思い出についても語っている[12]。
日中戦争が始まった翌年の1938年(昭和13年)に小学校に入学、4年生だった1941年(昭和16年)に日本は太平洋戦争に突入した[13]。14歳で旧制県立中学校2年生の時に敗戦を経験[14]。新聞記者になった理由について、戦時中の情報統制により、敗戦まで本当の情報が得られなかったことに衝撃を受け、「本当のことを書きたい」と思ったことがきっかけであると語っている[7]。その時の決意については「オレはオレ自身の目でこの世の中の動きを、しっかりと見届けてやるゾ。」と綴り[15]、「この目で見、この耳で聞いた真実を報道しよう、絶対にウソは書かない」という決意の上でジャーナリストの道を選んだとも語っている[16]。
岐阜県立武義高等学校を卒業した[17][18]。同校2期生である[19]。
中日新聞社入社後
1954年(昭和29年)に早稲田大学政治経済学部を卒業後、中日新聞社に入社した[5]。新聞記者としては長野支局勤務から始まり[5]、『中日新聞』名古屋社会部や『東京新聞』東京社会部で[6]、主に事件取材を担当した[13]。1971年(昭和46年)から中日新聞東京本社(東京新聞)社会部次長として司法記者会キャップなどを務めた[20]。1973年(昭和48年)の金大中拉致事件当時は東京新聞社会部デスクだった[21]。1976年(昭和51年)7月27日にロッキード事件で田中角栄が東京地方検察庁特別捜査部に逮捕された際[22]、佐藤は東京新聞社会部のロッキード事件総括デスクを務めており、最初に逮捕される高官は田中以外の誰かだろうと考えた上で、地方支局から動員した若手記者たちをマークしていた高官たちの自宅数か所に張り込ませていたが、佐藤ら取材陣の予想に反して特捜部は田中を最初に逮捕した[23]。同事件の際は数々のスクープを出した[11]。1977年(昭和52年)からは東京本社編集局社会部長[24][25]、1979年(昭和54年)からは『東京中日スポーツ』を編集する東京中日総局の局次長に就任[25]、1980年(昭和55年)からは名古屋本社編集局次長[20]。名古屋本社編集局次長時代には1980年12月に発生した名古屋女子大生誘拐殺人事件の取材を担当、翌1981年(昭和56年)1月20日に犯人の木村修治が重要参考人として浮上していることをスクープした[26]。
1984年(昭和59年)10月1日付で東京本社東京中日総局長になり[27]、同職を1年半務めた[25]。1986年(昭和61年)5月31日付で東京本社東京中日総局長から東京新聞編集局長へ異動[28]。1987年(昭和62年)6月27日付で中日新聞社取締役兼東京本社編集局長に異動した[29]。1991年(平成3年)6月24日付で中日新聞社常務・編集担当兼東京本社編集局長に異動した[30]。湾岸戦争の際には救援物資の輸送に同行し[12]、イラク大統領サダム・フセインとの会見を敢行した[31]。
1995年(平成7年)6月22日付で常務、東京本社編集局長から専務兼編集担当に異動した[32]。編集局長時代はコラム「インタホン」などを掲載していた[33]。
中日ドラゴンズ球団社長として
1995年9月2日付で中山了に代わり、中日ドラゴンズ代表取締役社長に就任[25][34]、約6年間にわたって同職を務めた[35]。またオーナー代行、管理担当も兼任した[36]。就任の経緯は同年、不振に喘いだ中日球団[注 1]の再生を図るための人事であり、次期監督招聘、編成部のテコ入れなどの課題に取り組むこととなった[38]。本人曰く中日ファンであり、同年の低迷を「非常に残念に思っていた」という[38]。同年10月1日付で編集顧問・専務[39]。
就任直後の同年オフ、野球解説者だった星野仙一の自宅に出向いて「一蓮托生でやろう」と声をかけて監督就任要請を出し、第1次政権(1987年 - 1991年)以来となる第2次政権を実現させた[40]。球団社長在任期間中には星野とは「一心同体」と語っており[3]、宣銅烈[41][42]、李鍾範[43][44]、サムソン・リー[45]、武田一浩[46][47]、デーブ・ニルソン[48][49]、川崎憲次郎[50][51]らを獲得、また一軍投手コーチとして山田久志を招聘[52]、フロントに外国人選手獲得の窓口とする国際部門を新設する[53]などの取り組みを行った。宣、李鍾範、サムソン、武田が在籍した1999年(平成11年)にチームは11年ぶりとなるセントラル・リーグ優勝を達成している(1999年の中日ドラゴンズ)。同年は優勝できなければ退陣する覚悟で戦ったという[54]。2000年(平成12年)オフにフリーエージェント (FA) の権利を行使してヤクルトスワローズから中日に移籍加入した川崎に対しては、入団交渉の過程で計3度、40枚にも及ぶ手紙を送っていたという[51][55]。また獲得できなかった選手も含めると吉井理人[56][57]、工藤公康[58][59]、山田秋親[60]の入団交渉を担当した。一方で社長在任中の1997年(平成9年)には所属選手の鳥越裕介や山田洋がプロ野球脱税事件に関与していたことが判明しており[61]、翌1998年(平成10年)12月4日には球団が事件の震源地となったことを受け、「事件を風化させないように」との考えから、自身名義の異例の文書(プロ野球選手として常に世間の模範となる生活態度を維持することを求める内容)を全コーチ、選手に送付している[62]。
1997年6月26日付で中日新聞社専務を退任し、相談役・編集顧問に異動したが、中日球団社長職は続投した[63]。それ以降はほとんどの試合をチームに同行して観ていたという[33]。2001年(平成13年)6月25日付で編集顧問の委嘱を解かれ、中日新聞社内のポストは相談役のみになり[64][65]、死去時点でも中日新聞社相談役だった[4]。同年には星野が監督を辞任し[40]、自身も10月10日付で球団社長職を西川順之助に譲る形で退任、球団取締役相談役となった[66]。佐藤は星野の続投の道を探っており[40]、同年9月上旬には球団オーナーの白井文吾や名誉オーナーの大島宏彦から了承を得て星野への続投要請を出す方向を固めていたが[67]、星野は同月25日に辞任を表明した[68]。佐藤本人は球団社長退任にあたり、2000年にセ・リーグ連覇をできなかったことが心残りであると語っている[35]。2003年(平成15年)3月25日付で取締役相談役から相談役に異動した[69]。
2022年(令和4年)1月13日未明、自宅のあった岐阜県岐阜市福住町一丁目のビル火災により焼死(90歳没)[4]。火災は13日2時ごろに発生、約2時間後に消火されたが、火元の部屋から1人の遺体が発見され[70]、17日までに遺体の身元はその部屋に住んでいた佐藤と確認された[4]。
人物
「立ったまま寝る」などの逸話を残しており、中日新聞社でも屈指の切れ者と言われていた[11]。
新聞記者時代については「私は、世界のために、日本のために、『よし、何かやってやろう』という気持ちで常にやってきた」と語っている[31]。一方で主に事件取材を担当していたことから、本人は後輩記者の高羽国広に対して「よそさまの嫌がることばかり書いて、おまんま食べているのだから、きっといい死に目にはあわないよ」とよく語っていたという[71]。自身が名古屋本社社会部記者時代に取材した金嬉老については、「人を二人も殺した。決していい人間とはいえないが、取材するうち、陰湿さがなくクールでからっとした人物と分かり、悪い印象は抱かなかった」と語っている[72]。
護憲論者で[73]、「あいち九条の会」世話人を務めた[74]。『日本国憲法の危機』などの著書があり、日本国憲法改正に反対する市民団体の講演に呼ばれたこともある[75]。「戦後の平和、繁栄は憲法のおかげと感謝し、大事に守っていかねばならない」と語っており[9]、憲法第9条の改正には否定的な見解を述べていた[76]。1992年(平成4年)4月6日、イラク赤新月社から湾岸戦争中のイラクへの人道的支援に貢献したとして、谷村新司や内野二朗と共に、日本人では初となるブロンズスターメダルを授与されている[77]。
『東京新聞』編集局長だった1990年(平成2年)に初めて開催され、2000年(平成12年)に200回目を迎えた「移動編集局・読者と対話の日」については、「最初は、普段から活字の陰に隠れている新聞記者が読者の面前に出て耐えられるかどうか怖かった。しかし読者の顔が見えてくると、普通の人であることが分かり、活字の陰から出てきた新聞記者も普通の人間だと思われただろう。」と語っている[78]。ノンフィクション作家の小林照幸は、1991年(平成3年)に中国少数民族に関するルポを同紙に掲載したことを機にライターとしての活動を開始したが、そのきっかけは「読者と対話の日」に出席した際、編集局長を務めていた佐藤と知り合ったことである[79]。
中日球団社長を務めていた1997年には球団が不振だった折、本拠地球場であるナゴヤドームの近くにある愛知県名古屋市東区矢田南一丁目の六所神社(祭神は竜神大明神)[80]境内にある末社・龍神社で必勝祈願をしたところ、直後に球団が3連勝を2回達成した[81]。これを受け、同神社は縁起の良い「六所(六勝)神社」とみなされ[81]、中日は翌1998年(平成10年)から球団の公式行事として[80]、ナゴヤドームでのオープン戦開幕日に優勝祈願祭を行っている[81]。
1998年5月中旬の阪神タイガースとの北陸遠征中、金沢の宿舎でバイキング方式の食事を摂っていたところ、当時スタメンを外されたり代打ですら出場機会がなかったりしていた主力選手の山﨑武司が中央部の空席ではなく済の席へと歩いていくのを見て、「山﨑、真ん中に座って食べろよ」「いまはスランプに陥っているといっても、キミはドラゴンズの主砲なんだよ。イジケることはないんだ。真ん中で堂々と胸を張ってメシを食わなきゃ、な」と声をかけた[33]。その後、山﨑はレオ・ゴメスの故障を受けて5月14日から代役の四番打者として起用され、6試合連続安打(その間は打率.478、10得点)を記録、6月2日にゴメスが五番打者として復帰するまでの11試合で打率.366、13打点を記録した[33]。山﨑に対しては1999年にも彼が打撃不振に喘いでいたところ、「君は主力選手なんだから、もっと自己主張しないと」と激励した際に「君はヤマサキ、ヤマザキのどっちなの?」と聞いたところ、山﨑から「ヤマザキ」ではなく「ヤマサキ」であると聞いたことから、佐藤は山﨑に対し、登録名を常用漢字を用いた「山崎」から戸籍名の「山﨑」に改名することを提案、同年5月21日の対ヤクルト戦から登録名およびナゴヤドームの電光掲示板上の表記は「山﨑」表記になった[82]。また井上一樹に対しては、1996年(平成8年)に二軍チームの試合を観戦した際、その試合の相手であるオリックス・ブルーウェーブ二軍チームの監督を務めていた根来広光から「中日にはいい選手がいますねえ」と絶賛されて以来注目しており、彼が台頭した1998年には「打席に立ったら自分のベストだと思うスイングをしてくれよ。ベストスイングを3回!」と声をかけていた[33]。『東京新聞』編集委員の高田実彦は佐藤について、12球団の社長としては珍しく、ファームの試合を観戦したり、選手宿舎を訪問したり、自ら球団ホームページに「キャッチボール」と題した一文を毎日掲載したりしていたと評している[33]。
積極的にボランティア活動に取り組んでおり[83]、中日球団社長在任期間中には名古屋拘置所での講話を引き受けたことをきっかけに拘置所の篤志面接委員を務めたことがあり、所長表彰を受けた[84]。また選手に対しても「ボランティアをしなさい」と言っていた[85]。「社会を明るくする運動」にも協賛し、名古屋保護観察所の一日保護観察所長を務めたり、ナゴヤドームの電光掲示板で標語を流したりしたとして、中日球団がセントラル・リーグ優勝を達成した1999年には法務大臣感謝賞を贈られている[86]。
著書
『勝負の秘密』(共著・東京中日新聞出版局)[5][88]、『ベタ記事恐るべし』(サイマル出版会)などの著書がある[5]。『ベタ記事恐るべし』は社会部記者の必読書と評されている[11]。
2002年(平成14年)に河出書房新社から出版した『新一日一言』は、古今東西の著名人(歴史上の人物、文学者、スポーツ選手、芸能人、死刑囚など)の名言を日めくり形式で取り扱い、それぞれにコメントを入れた書籍である[89]。同書は「人類の歴史や人類の気分、勝負の秘密について、興味深い事実や勉強になる名言がいっぱいつまっている」と評されている[90]。
2003年(平成15年)に河出書房新社から出版した『敗戦の教訓 太平洋戦争から何を学ぶか』では、「人気の青年貴族宰相」として国民的人気がありながら、軍部に外堀を埋められて開戦に至った近衛文麿を厳しく批判し、また戦前・戦後の日本の歴史を縦軸、そこで重要な役割を果たした人物を横軸に据えて各見開き2ページごとに解説している[13]。
2005年(平成17年)に河出書房新社から出版した『日本国憲法の危機 100の疑問に答える』では、日本国憲法の誕生経緯やその背景を綴った上で、「敗戦の教訓」と平和憲法の精神を踏まえ、海外での自衛隊の武力行使は断じて防がねばならないと強く訴えていた[10]。