六時礼讃
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浄土宗では、建久3年(1192年)、法然が、大和前司親盛入道見仏の招きをうけて、後白河天皇の追善菩提のために、八坂の引導寺において別時念仏を修したが、これを浄土宗六時礼讃の始まりとする[1]。
『徒然草』第227段や『愚管抄』によれば、浄土宗の開祖・法然の門弟である安楽坊遵西が礼讃に節を付けたと言われているが、当時は定まった節とか拍子がなかったらしい[2]。遵西が指導する礼讃が大衆の支持を多く得たことから、既存仏教教団の反発を招き、建永2年(1207年)、後鳥羽上皇の女房たちが遵西達に感化されて出奔同然に出家した件などの罪で、遵西は斬首され、同年の法然らに対する承元の法難(建永の法難)を招く原因ともなった。