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火葦北阿利斯登

古墳時代の豪族 From Wikipedia, the free encyclopedia

火葦北阿利斯登(ひ の あしきた の ありしと、生没年不詳)は、古墳時代(6世紀)の豪族。刑部靫部阿利斯登(おさかべ の ゆげい ありしと)ともいう。姓は君。

生誕 不明
死没 不明
別名 刑部靫部阿利斯登
概要 凡例火葦北阿利斯登, 時代 ...
 
火葦北阿利斯登
時代 古墳時代
生誕 不明
死没 不明
別名 刑部靫部阿利斯登
官位 火葦北国造、刑部靫負
主君 宣化天皇
氏族 葦北君
子 日羅
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概要

  1. 肥後国の葦北(現在の熊本県葦北郡および八代市)の国造であった有力な首長であり(『先代旧事本紀』「国造本紀」によると、景行天皇の時代に、吉備津彦の子の三井根子命が、国造になった、とある)、
  2. 刑部(允恭天皇の皇后、忍坂大中姫にちなむ名代)の管理者であり、
  3. 靫負部(ゆげいべ)として、中央に出仕し、朝廷の親衛軍として宮廷の警備にあたる役目を負った[1]。

「阿利斯登」という名は、『日本書紀』巻第六の垂仁天皇2年の一書に登場する都怒我阿羅斯等[2]がいて、火葦北国造は

その末裔という説、または同巻第十七の継体天皇23年・24年に登場する加羅王阿利斯等[3][4]と同人物という説がある。阿利斯等はアリ(=大)、シチ(=首長)という解釈で、アリシトとは大首長の意であるという主張がある[1]。

記録

『書紀』巻第二十の記録によると、宣化天皇の代に大伴金村の指示で、「海表」(わたのほか=海外)に渡海し、任那を助けたという記事がある[5]。巻第十八によると該当する記事が、宣化天皇2年10月(537年)に、

天皇(すめらみこと)、新羅の任那に寇(あたな)ふを以て、大伴金村(おほとも の かなむら)大連(おほむらじ)に詔して、其の子磐(いは)と狭手彦(さでひこ)とを遣して、任那を助けしむ。是の時に、磐、筑紫に留(とどま)りて、其の国の政(まつりごと)を執(と)りて、三韓(みつのからくに)に備ふ。狭手彦、往きて任那を鎮(しづ)め、加(また)百済を救ふ[6]

と記載されている。

敏達天皇12年(583年)、天皇はその息子、日羅を百済から召喚しようと試みた[7]。日羅が百済人の使節に殺された際には、葦北君の一族によって、父の加羅人である阿利斯登の故地、葦北の地に改葬されたという[8]。

脚注

参考文献

関連項目

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