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羽柴氏

羽柴秀吉が1575年に興した日本の氏族 From Wikipedia, the free encyclopedia

羽柴氏(はしばし/はじばうじ)は、武家・士族だった日本の氏族。

出身地 尾張国愛知郡中村
概要 羽柴氏, 本姓 ...
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木下藤吉郎(豊臣秀吉)は、織田家重臣となった後の1575年に姓を木下から織田家重臣の丹羽長秀・柴田勝家から一字ずつとって羽柴に改めた[1]。1585年の関白就任に際しては、近衛前久の養子となって藤原姓、翌年太政大臣就任に及んで朝廷から豊臣姓を受けた[1]。秀吉政権下では一族や大名などに羽柴氏が称号として授与された。1615年の大坂夏の陣で豊臣秀頼が自害に追いやられたことで宗家は滅亡した。秀吉の妻高台院の養子利次が一時羽柴氏を称したものの、後に木下姓に改めている。明治になると日出藩主木下家の分家の交代寄合だった俊清が羽柴に改姓して士族に列した[2]。

概要

織田信長の家臣であった秀吉は、はじめ名字は「木下」を用いていた。木下氏の由来は諸説があるが、秀吉の父木下弥右衛門を浅井氏の庶流浅井忠政の弟・昌盛法師が還俗して近江高島氏の木下越中守高泰の娘を娶り木下弥助国吉と名乗ったことに始まるとする[3]。秀吉の母大政所の姉妹たちが、青木重矩(青木一矩の父)・小出正重(小出秀政の父)といった武士階級に嫁いでいることから一定の階級に属する武家であったことが推察できる。いずれにせよ秀吉が歴史に姿を現すのは、信長が美濃の土豪坪内利定に与えた知行安堵状の添状(永禄8年(1565年)11月2日付)に「木下藤吉郎秀吉」と署名しているのが最初である[5]。

その後、秀吉は戦功を重ねて信長の有力部将として台頭する。木下から羽柴に改めたことを示す最初の例は、元亀4年(1573年)7月20日付で大山崎惣中に縄の供出を求めた書状[6]であり「羽柴藤吉郎秀吉」と署名している。『信長公記』[7]では、元亀3年7月24日条に近江一向一揆掃討の指揮官として「木下藤吉郎」の名を記し、同年8月条では虎御前山に建設された砦の「定番(じょうばん)」として「羽柴藤吉郎」の名が記されている。

名字の変更について、竹中重門の『豊鑑』 には以下のようにある。

其頃信長の心に叶ひののじる柴田修理亮勝家、丹羽越前守長秀とかやいひしかば、其人の名字を、一字づゝ賜らんとて、丹羽の羽に、柴田の柴をそへ、羽柴筑前守と改給しとなり。 — 『豊鑑』、近世日本国民史[8]

『豊鑑』はこれを永禄6年以前の記事として掲げているが、秀吉は永禄11年4月16日付書状で「木下藤吉郎」と署名していて、明らかに一次史料と矛盾する[8]。

羽柴の由来をめぐって、徳富蘇峰は、木下から羽柴に替えた時期を「元亀の末より天正の始め」と推定し、筑前守を称したのも「天正3、4年」とした[8]。蘇峰は天正2年の書状を羽柴姓の初出としているが、前述のように、羽柴の名字を用いるようになったのは元亀4年以後とされる。丹羽と柴田から取ったかどうかについては、渡辺世祐は丹羽長秀の「羽」と柴田勝家の「柴」を組み合わせたものだとそのまま受け入れ[9]、小和田哲男も「羽柴の名の由来であるが、信長の重臣である柴田勝家の”柴”と丹羽長秀の”羽”を一字ずつもらいうけ、羽柴としたことは言うまでもない」[10]としている。蘇峰も概ね『豊鑑』を受け入れつつも「随分笑止な事と云わねばならない」[11]と書き、信長の機嫌をとるための行為だったとして冷笑的に秀吉を「信長学の大博士だ」と評している[12]。

また、秀吉が羽柴名字を名乗り始めた当初は、秀吉1人が羽柴と称していたと考えられている。弟の秀長(当時は長秀)は秀吉が羽柴を名乗った後もしばらくは木下の名字で文書を発給しているためである。秀長が羽柴の名字を用い始めるのは天正3年(1575年)に入ってからであり、それ以降は秀吉一門全体で羽柴の名字を名乗るようになったと考えられている[13]。

信長が本能寺の変で横死し、秀吉が代わって天下人の座に就くと、秀吉の発給する文書はその地位の向上にともなって必然的に尊大化・薄礼化し、あるいは奉書にとって代わられ、直状も単に「秀吉」とのみ署名したもの、花押のみ署したもの、印判のみ押したものなどで占められ、羽柴名字の使用例は見られなくなる。天正13年(1585年)10月13日付の伊達政宗の重臣遠藤基信宛書状に「羽柴筑前守」と署名したのが秀吉が羽柴名字を使用した最後の例である[14]。

慶長20年(1615年)5月、大坂の陣で秀吉の後継者豊臣秀頼が自害に追い込まれ、大坂の羽柴宗家は滅亡した。元和9年(1623年)、秀吉の未亡人であった高台院は甥の利次を養子とし[15]、羽柴名字を名乗らせた[16]。寛永元年(1624年)に高台院が没した。その後利次は豊臣氏の社稷を継ぐことを認められたが、木下氏を称することとなった[16]。利次は寛永3年(1626年)に高台院の化粧料のうちから近江国に3000石の采地を受け、その後寄合に列した[15][16]。

これとは別に豊後国日出藩木下家の分家で立石領5000石の交代寄合だった木下俊清(豊臣国松の後胤説あり)が明治5年(1872年)3月10日に羽柴に復姓した[2]。

明治17年(1884年)に施行された華族令で華族が五爵制になった際に定められた『叙爵内規』の前の案である『華族令』案や『叙爵規則』案では元交代寄合が元高家とともに男爵に含まれており、羽柴家も男爵位を授けられるべき家に挙げられているが、最終的な『叙爵内規』では高家も交代寄合も対象外となったため結局羽柴家は士族のままだった[17]。

羽柴俊清の養子である羽柴俊朗はその後も明治から大正にかけて叙爵請願運動を盛んに行っており、本家の木下俊哲子爵からも叙爵請願が行われているが、結局実現せず同家は士族のままだった[18]。豊臣秀吉に所縁のある羽柴姓は、現代においてはこの一族だけである。

豊臣賜姓後の秀吉・秀頼の名字

秀吉は本姓としてはじめ平姓を用い、関白就任時には近衛家の猶子となり藤原姓に改め、その後、新しい姓を創始して豊臣の本姓を用いた。近代以前において本姓と名字は異なるものである。黒田基樹は羽柴の名字は単に使用されなくなっただけで、秀吉がさらに別の名字に改めたというわけではなく[19]、その後も秀吉・秀頼の名字は「羽柴」であり、「豊臣政権」「豊臣大名」という言い方も「羽柴政権」「羽柴大名」とするべきとしている[20]。

ただし、豊臣賜姓以降秀吉及び秀頼が「羽柴」の名字を使ったという史料は残っていない[20]。福田千鶴は源頼朝が名字を要しなかったように、秀吉・秀頼にも名字はなかったのではないかとしている[20]。また谷徹也は本姓と名字が一致していたという可能性も考慮するべきとしている[20]。さらに黒田の議論を正確なものにするためには、豊臣賜姓後の秀吉・秀頼が羽柴名字を使用した実例を挙げる必要があったのではないかと指摘している[20]。

主な構成員

秀吉の一族に対する羽柴名字・豊臣氏下賜の文書は一切残されておらず、一族に対しては下賜の手続きは省略されていたと見られている[21]。

羽柴宗家(豊臣家)
秀吉の近親者
羽柴秀長→秀保家(大和羽柴家)
羽柴秀勝家(岐阜羽柴家)
羽柴秀信家(後岐阜羽柴家)
  • 当主:羽柴秀信(秀勝の家臣と遺領を継承した)
羽柴秀次家(近江→尾張羽柴家・宗家)
羽柴秀俊家(丹波羽柴家)
羽柴秀家家(備前羽柴家)
羽柴秀頼家(大坂羽柴家・宗家)
  • 当主:羽柴秀頼(秀吉の実子。側室の子。関白職に就くことを徳川将軍家に阻止され、後に滅ぼされた)
  • 正妻:千姫(徳川秀忠の娘)
羽柴利次家(京都羽柴家→近江木下家)
  • 当主:羽柴利次(秀俊の甥。秀吉の未亡人北政所の養子となり羽柴宗家の社稷を継いだが、木下姓に改名。

系図

1) 実線は実子。
2) 点線は養子。
木下弥右衛門
 
 
 
仲
 
 
 
竹阿弥
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三好吉房
 
 
 
智
 
 
羽柴秀長旭
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
羽柴秀次羽柴秀勝羽柴秀保
 
 
秀保
 
 
 
高台院
 
 
 
羽柴秀吉
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
利次[* 1]石松丸秀勝鶴松秀頼於次秀勝[* 2]秀次秀康[* 3]秀勝秀俊[* 4]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
国松天秀尼仙千代丸百丸十丸隆清院完子
  1. 足守藩主・木下利房次男。大坂の羽柴宗家滅亡後に京都の高台院の養子となるが、高台院の死後、木下氏に改姓させられる。

系図2

高台院ー利次ー利値ー秀三ー秀就ー利意ー利常ー利嵩ー秀般ー秀舜ー秀實

称号としての羽柴名字

秀吉は、近親者以外にも羽柴の名字を与えている。最初の例は、天正10年(1582年)10月の堀秀政に対するものである[28][29]。ただし、同年12月に秀吉が宇喜多秀家に与えた書状の宛先が単に「八郎殿」になっていることから、同年4月に元服した秀家に対して先に羽柴の名字が与えられていた可能性もある(これは秀吉の養女である豪姫との婚約に関連したものとみられる)[30]。

一方で、同じ頃に秀吉が家臣に対して木下の名字を与えた例も確認される(木下重堅・木下吉隆・木下家定)。これは羽柴の名字を与える前段階にあたる可能性もあるが、既に羽柴を称している秀吉が旧名字である木下を与えている点で両者は性格が異なるものと考えるべきで、その違いはどこから来ているのかなどは今後の研究課題と言える[31]。

その後、旧主であった織田一族、かつて秀吉の同僚であった大名、あるいは天下統一の過程で臣従させた大名などを中心に、羽柴名字の授与が行われている[32]。秀吉が没する直前には直臣層への授与が盛んに行われており、主従関係の強化を図ったものと見られている[33]。

羽柴の名字名乗りは徳川家康のような大身大名から、二千石の織田信高までと幅広い[33]。これらの羽柴名字は「家」に対してのものではなく、個人に対する称号であると考えられている[34]。また、秀吉に仕える家臣に対して与えられる称号であることは、龍造寺政家のように隠居後に羽柴名字を剥奪された者が確認できることからも裏付けられる[31]。秀吉は同様に近親者以外への「豊臣朝臣」の氏姓の授与も行っている。豊臣朝臣の授与は、秀吉の推挙を通じて叙位任官を受けた者すべてに対して行なわれ、羽柴名字の授与よりもその範囲ははるかに広い。多くの武士は、羽柴名字の授与を受けることなく豊臣朝臣姓の授与を受けている[35]。逆に、羽柴の名字のみで、豊臣氏を受けていない例も少なくない[35]。

秀吉の死後も、羽柴の名字は一定程度既成事実として定着し、江戸幕府成立後も島津家久・細川忠興・池田輝政・福島正則など一部の大名がその使用を続けている。大坂の陣で羽柴宗家が滅亡したのちは、羽柴の名字を用いる家系は徐々に姿を消した。

羽柴名字を称した人物

名字の名乗りは官位授与時の口宣案のような明確な資料が存在しないため、下賜を受けた年月日を特定することは困難である[21]。このため古文書・日記類等によって、この時期に羽柴名字を称していたことが明らかなものについて記述する。

羽柴秀長(高時村文書)[21]
堀秀政(神照寺文書)[21]
結城秀康(福井県史 資料編)[21]
羽柴秀次(浅野家文書)[21]
蒲生氏郷(松下文書)[21]
滝川雄利(大日本史料)[21]
丹羽長重(大日本史料)[21]
細川忠興(大日本古文書 毛利家)[36]
前田利家(加賀藩史料)[36]
前田利長(加賀藩史料)[36]
稲葉貞通(中川家文書)[36]
宇喜多秀家(『当代記』)[21]
細川忠隆(豊公遺文)[36]
  • 天正15年(1587年)4月9日、九州出陣の際の陣立書(『松下文書』)によるもの[37][38]。ただし、この陣立ては前年に策定されており、彼らへの羽柴姓授与は前年に遡る可能性が高い[38]。
毛利秀頼(羽柴河内守)
丹羽長重(羽柴加賀侍従、のち羽柴松任侍従)
蒲生氏郷(羽柴松島侍従)
佐々成政(羽柴陸奥侍従)
蜂屋頼隆(羽柴敦賀侍従)
大友吉統(大分県史料)[39]
上杉景勝(大日本古文書 上杉家)[39]
吉川広家(大日本古文書 小早川家)[39]
小早川隆景(大日本古文書 小早川家)[39]
毛利輝元(大日本古文書 小早川家)[39]
島津義弘(島津家文書)[39]
龍造寺政家(佐賀県史料集成)[39]
長宗我部元親(静岡県史料)[39]
島津義久(島津家文書)[39]
木下勝俊(中川家文書)[21]
堀親良(大日本古文書 浅野家)[39]
佐竹義宣(山形県史 史料編)[39]
伊達政宗(大日本古文書 伊達家)[39]
織田秀信(大日本古文書 毛利家)[36]
宗義智(『宗家文庫文書』)[39]
最上義光(山形県史 史料編)[39]
宗義智(羽柴対馬侍従)
大友義統(羽柴豊後侍従)
島津義弘(羽柴薩摩侍従)
小早川秀包(羽柴久留米侍従)
里見義康(大日本古文書 浅野家)[39]
徳川家康(東京国立博物館所蔵文書1742号)[39]
小早川秀秋(大日本古文書 毛利家)[21]
堀秀治(島津家文書)[36]
織田秀雄(『ねねと木下家文書』[注釈 1])[36]
京極高次(『ねねと木下家文書』)[36]
織田秀雄(『ねねと木下家文書』)[36]
京極高知(『ねねと木下家文書』)[36]
前田利政(『ねねと木下家文書』)[36]
織田信高(大日本古文書 毛利家)[36]
徳川秀忠(『ねねと木下家文書』)[39]
毛利秀元(『ねねと木下家文書』)[39]
  • 文禄4年(1595年)7月20日、秀次誅殺後に秀頼への忠誠を誓わせた起請文(『毛利家文書』)[37]
龍造寺高房(島津家文書)[39]
福島正則(『徳川家康文書の研究』[注釈 2][21]
青木一矩(『徳川家康文書の研究』)[21]
戸田勝成(大日本古文書 毛利家)[21]
羽柴秀直(島津家文書)[39]
島津家久(島津家文書)[39]
滝川正利(大日本史料、羽柴勘右衛門名義[36])
  • 年代不明
1600年以降?池田利隆(『岡山県古文書集 第4緝』)[39]
羽柴忠清(山口県文書館所蔵史料、下賜時期には疑問あり。備後守である福島一族かとみられている[41])
羽柴市十郎(大分県史料、下賜時期等に疑問あり[39])

家譜・系図・編纂資料等で羽柴名字を称したとされる人物

黒田基樹は「慶長期大名の氏姓と官位」[19]で、下記の人々を挙げている。

信憑性が低い史料に残る人物

脚注

  1. 『ねねと木下家文書』(1982年、山陽新聞社)
  2. 中村孝也『徳川家康文書の研究』(1967年、吉川弘文館)

出典

参考文献

関連項目

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