南紀
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南紀と紀南
「紀南」とは、和歌山県全域または三重県東紀州地方をそれぞれ2~3区域に分けたうちの南側の呼称であり、紀伊国全体を指すものではない(区分の詳細については紀北・紀中・紀南の当該項目を参照)。よって南紀と紀南は本来は別の意味である。
しかし現在「南紀」という語は和歌山県の紀南地域を指して使われることも多く、和歌山県に住む人々の間でさえしばしば「紀南」と「南紀」は混同されている[4]。
例えば、紀南に相当する田辺市・新宮市・西牟婁郡・東牟婁郡では1999年(平成11年)に「南紀熊野体験博」というイベントが開催された。その会期中には伊都郡・橋本市が「北紀高野」をうたって観光キャンペーンを行ったが、「北紀」は歴史的に根拠のない名称である[5]。
南紀と紀南との混同は、戦後の観光ブームの中で観光上の要請から広まったものと見られ[6]、1965年(昭和40年)には新宮市から西牟婁郡の一帯を言い表す観光用語として「南紀」を用いることが勝浦温泉旅館組合から呼び掛けられさえした[7]。和歌山県立図書館所蔵の郷土資料を基に、南紀と紀南の用法を検討した桑原康宏は、少なくとも大正期までは南紀と紀南が混同されることはなかったが、昭和40年代頃には南紀と紀南が互換的に使用され、さらには新宮にまで南紀が冠されるようになったとしており[8]、前述のように地名の歴史的定義が不確かになっていることが判明する。
地理学者の山口恵一郎は、「南紀」という語そのものを第二次大戦後の観光ブームの中で生じた造語と見なしている[9]が、この見解には根拠が乏しい[10]。というのも、紀伊国を「南国」「南海」と呼ぶ例は『日本書紀』等の古代の記録にまでさかのぼることが確かめられており[11]、南海道の範囲をめぐる地域認識や中世熊野詣の盛行においても、南紀は確かに認識されていた[11]。すなわち、紀伊国全体を指す呼称としての南紀は古代からあったと考えられる。
近世においても『紀伊続風土記』では「本国は上国にして南海道の首に居りて近国なり」(提綱第一・総論)[12]と述べられており、畿内の南に位置する地方として、また、都から遠く隔たった辺境の地として認識されていたことが分かる[13]。これに対し、隣接する三重県の地域区分には伊賀・北勢・南勢・志摩・南紀とあるが、ここでいう「南紀」とは、志摩の南島地方につづく南海道紀州地域ということが意識して使われるようになったものと考えられている[14]。