原町苦竹

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原町苦竹(はらのまちにがたけ)は、宮城県仙台市宮城野区大字であり、旧宮城郡苦竹村、旧宮城郡原町苦竹、旧仙台市原町苦竹の各一部に相当する。住民基本台帳に基づく人口は0人、世帯数は0世帯(2025年4月1日現在)[1]住居表示未実施で住所では原町苦竹のあとに小字名が続く。鎌倉時代には宮城本郷とも称された[6]

小字

原町苦竹は仙台市の東部、宮城野区の南西部、原町地域の東部に位置する。かつて原町苦竹は旧苦竹村全域を含んでいたが、2025年現在では住居表示実施や換地処分により、住居表示や換地処分が未実施の残余のみ残る。

仙台法務局の「仙台市宮城野区登記所備付地図データ」(2025年5月23日時点)、デジタル庁公表のアドレス・ベース・レジストリの「宮城県町字マスターデータセット」(2025年5月22日時点)および東北運輸局公表の「東北運輸局宮城運輸支局住所コード表」(2024年11月1日時点)によれば、原町苦竹の小字は以下の通りである[7][5][4][注 1]

町字ID 大字 小字 出典
登記 町マス 運輸局
0076101 原町苦竹 字案内前下 ×
0076109 字原東 ×
0076118 字新田西 ×
0076123 字新田北
0076125 字赤目 ×
0076126 字川南
0076127 字川北
0076140 字北谷地下
0076145 字松山 ×
0076146 字白目 ×
0076147 字矢作 ×
- 字案内前上 × ×
- 字上境 × ×
- 字梅田 × ×
- 字川添 × ×
- 字北谷地上 × ×
- 字新田 × ×
- 字新田東 × ×
- 字新田南上 × ×
- 字新田南中 × ×
- 字館前 × ×
- 字中原 × ×
- 字古宿北 ×
- 字町東 × ×
- 字松山下北 ×
- 字南古宿 × ×
- 字屋敷前 ×
- 字谷地道北上 × ×

明治期の小字

宮城県各村字調書によると明治17、18年頃の苦竹村の小字は以下の通りである[8]

  • 北裏
  • 南裏
  • 堀上
  • 原東
  • 鹿島下
  • 悪水下
  • 堀下西
  • 堀下東
  • 町東
  • 本郷原
  • 海道南
  • 坂下
  • 上川添
  • 下川添
  • 中川添
  • 狐塚
  • 海道下
  • 樋下中
  • 樋下上
  • 樋下北
  • 中原
  • 南古宿
  • 古宿北
  • 新田西
  • 松山下北
  • 松山下南
  • 松山
  • 案内前上
  • 案内前下
  • 屋敷前
  • 新田北
  • 上境
  • 下境
  • 谷地道北下
  • 谷地道北上
  • 新田
  • 新田南上
  • 新田南下
  • 七曲
  • 川南
  • 川北
  • 北谷地下
  • 新田東
  • 北谷地上
  • 新田南中
  • 赤目
  • 成田
  • 切替
  • 三ノ橋下
  • 三ノ橋上
  • 苦竹東下
  • 苦竹東上
  • 苦竹
  • 苦竹北下
  • 苦竹北上
  • 金屋敷
  • 大曲東
  • 大曲西
  • 大曲
  • 渋田見
  • 矢作
  • 白目
  • 熊ノ木
  • 土手下西
  • 土手下東
  • 中谷地
  • 石寄
  • 谷地
  • 下二十丁谷地

歴史

苦竹は和名類聚抄にある宮城郡宮城郷に往古、属していたとされる[9]。奥州余目記録によれば、伊沢小四郎家業についてのくだりで

さらば宮城と申す所名ばかり下さるべしとてにかたけの郷を宮城本郷と申し、かの一郷ばかりにて宮城とうら書をする

とあり、苦竹の地を宮城本郷と称した記録が発見されている[6]。これによれば、鎌倉幕府3代将軍源実朝の時代、鎌倉に敵対する弥次郎左衛門という武者がおり、それを討ち取った伊沢家業が恩賞として「にかたけの郷」を与えられ、これを宮城本郷とし、宮城氏を名乗ったという。このことから、苦竹が古代宮城郷の中心地であったとされている[6]

江戸期、苦竹村と隣接する南目村にまたがって原町、もしくは原町宿と称される町場が存在していた[10]。そのため、苦竹村では多くの家が町場に集中しており、安永期には村方の9倍以上の家数が町場に存在していた[11]

大正期に入り、仙台市と原町の合併が話題となった[12]。都市計画法の指定を受けた仙台市が都市計画区域として原町・長町の各全部と七郷村の一部を含めた地域を都市計画区域として申請し、1925年(大正14年)にそれが認可されると、合併交渉が本格化した[12]。原町は仙台市との合併に際して、歴史的地名である「原町」の地名を残すことを要望し、仙台市会は原町合併の際に編入する大字に「原町」の名を付すことを決定した[13]。これにより、苦竹は原町苦竹となった[13]

昭和期になると、戦時色が強くなり、政府の食糧政策に関連する施設や軍の施設が原町苦竹に建てられた[14][15]日本政府の食糧統制の一環で全国に政府倉庫の建設が進められていた[15]。宮城県や仙台市は政府倉庫の誘致運動を展開し、1936年(昭和11年)に倉庫12棟と専用の鉄道引き込み線を設けた仙台政府倉庫が原町苦竹字新田に設けられ、米の安定供給と凶作に備えた備蓄倉庫として大きな役割を担った[15]1940年(昭和15年)5月には、日中戦争のための兵器増産の必要性から原町苦竹の地に造兵廠を設置することが決定し、翌1941年(昭和16年)、原町苦竹に東京第一造兵廠仙台製造所が設置された[16][17]

戦後、東京第一造兵廠仙台製造所は米軍に接収され、キャンプ・シンメルフェニヒ英語: Camp Schimmelpfennig、通称:苦竹キャンプ)が設置され、当初は米軍第一空挺師団が駐留していた[18]。しかし、朝鮮戦争が勃発すると在日米軍の兵力の空白を埋めるために警察予備隊の一部隊が苦竹キャンプに置かれた[18]。翌1951年(昭和26年)、苦竹キャンプの警察予備隊は新設された駐屯地に移動し、かわって米軍の第一騎兵師団が苦竹キャンプに入った[18]。そして、苦竹キャンプは1957年(昭和32年)に日本に返還され、跡地には陸上自衛隊仙台駐屯地や工場が設置されたほか、1967年(昭和42年)4月14日から60日間、東北大博覧会が苦竹キャンプ跡地で開催された[19][18]

沿革

新暦導入以前(明治5年以前)の日付は和暦による旧暦で表記する。丸括弧内は西暦で、1581年以前はユリウス暦1582年以降はグレゴリオ暦
  • 明治5年(1872年) - 大区・小区制施行により、苦竹村は第二大区小五区に属する[20]
  • 1876年(明治9年) - 苦竹村が第二大区小九区に属する[21]
  • 1889年(明治22年) - 苦竹村・小田原村・南目村の各全部と仙台区北六番丁の一部が合併し、町村制施行[22]原町が成立し、苦竹村は原町苦竹となる[21]
  • 1928年(昭和3年)4月 - 原町が仙台市に吸収合併され、原町苦竹は仙台市原町苦竹となる[22][12]。また、苦竹第一区・苦竹第二区が設置される[14]
  • 1936年昭和11年) - 原町苦竹字新田に仙台政府倉庫設置[15]
  • 1940年(昭和15年)
    • 苦竹にて仙台都市計画原町工業都市建設区画整理事業実施[23]
    • 11月 - 仙台市が区を廃止[14]。これにより、原町苦竹にあった苦竹第一区・苦竹第二区が廃止された[14]
  • 1945年(昭和20年) - 米軍が陸軍造兵廠跡地に入る[18]
  • 1957年(昭和32年) - 苦竹キャンプが日本に返還される[18]
  • 1967年(昭和42年) - 苦竹キャンプ跡地で東北大博覧会開催[19]
  • 1978年(昭和53年)6月 - 宮城県沖地震発生[19]。域内のビル5棟が全壊[19]
  • 1989年平成元年) - 仙台市が政令指定都市に指定され、仙台市原町苦竹は宮城野区に属す[24]
  • 2008年(平成20年) - 旧仙台政府倉庫が解体される[15]

町名の変遷

住居表示による町名の変遷は以下の通りである。

実施後 実施前(特記なければ各町・字ともその一部) 実施年月日
町丁 大字 小字
五輪二丁目 原町苦竹 字悪水下 1965年(昭和40年)11月1日
字堀上
字南裏
字町東
銀杏町 字町東
清水沼三丁目 字北裏 1971年(昭和46年)5月1日
原町二丁目 字北裏
字町
字町東
原町三丁目 字北裏
字町
字坂下
原町四丁目 字北裏
原町五丁目 字海道下
字上川添
原町六丁目 字海道下
字上川添
字中川添
日の出町一丁目 字川南 1972年(昭和47年)8月1日
字七曲
字成田
日の出町二丁目 字三ノ橋下
字三ノ橋上
字中谷地
字七曲
字成田
字石寄
日の出町三丁目 字石寄
字谷地
扇町一丁目 字切替
字成田
扇町二丁目 字下二十丁谷地
扇町五丁目 字下二十丁谷地
扇町一丁目 字切替 1976年(昭和51年)2月1日
扇町五丁目 字下二十丁谷地
東仙台三丁目 字海道下 1980年(昭和55年)10月6日
字樋下上
字樋下中
苦竹一丁目 字大曲 1983年(昭和58年)7月4日
字大曲西
字金屋敷
字町東
苦竹二丁目 字金屋敷
字七曲
字苦竹
字苦竹北上
字苦竹北下
苦竹三丁目 字石寄
字土手下東
字七曲
字苦竹
字苦竹北下
字苦竹東上
字苦竹東下
南目館 字渋田見
字苦竹
平成一丁目 字海道下 1991年(平成3年)7月1日
字樋下上
字樋下中
字樋下北
字中川添
字下川添
字狐塚
字中原
平成二丁目 字樋下上
字樋下中
字狐塚
字樋下北
字中原
新田三丁目 字上境 1995年(平成7年)7月3日
新田四丁目 字上境
字谷地道北上
字新田
字新田東
字新田南中
字新田南上
新田五丁目 字新田南上
字中原
字南古宿

地名の由来

地名の由来は諸説あるが、菊池は以下の2つを地名の由来として挙げている[25]

一つ目の説は当地にかつて真竹が生い茂っていたことに由来するという説である[25]。真竹は淡竹と異なって食べると蘞いため、別名「苦竹(クチク)」と呼ばれていた[25]。これがのちに「苦竹(ニガタケ)」と訓じるようになり、地名を苦竹となったとされる[25]

二つ目の説は当地が荷揚げ場であったことに由来するという説である[25]。この説によれば、荷揚(にあげ)や荷方(にがた)、荷方家(にがたけ)から苦竹の地名が生じたとされる[25]

小・中学校の学区

小・中学校の学区は以下の通りである[26]

大字 字・番地 小学校 中学校
原町苦竹 字赤目 宮城野小学校 宮城野中学校
字白目
字原東
字矢作
字川北 原町小学校
字川南
字案内前下 東仙台小学校 東仙台中学校
字北谷地下 新田小学校
字新田北
字新田西
字松山

人口

2025年令和7年)4月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]

大字 世帯数〔世帯〕 人口〔人〕
原町苦竹 0 0

世帯数と人口の推移

国勢調査による1995年平成7年)以降の世帯数と人口の推移は以下の通りである。

原町苦竹の人口推移
人口
1995年(平成7年)[27]
33
2000年(平成12年)[28]
24
原町苦竹の世帯数推移
世帯数
1995年(平成7年)[27]
12
2000年(平成12年)[28]
9

脚注

参考文献

関連項目

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