反芸術論争
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反芸術論争(はんげいじゅつろんそう)は、1964年に『美術手帖』4月号から7月号にかけて、批評家の宮川淳と東野芳明のあいだで交わされた、「反芸術」をめぐる誌上論争である。1960年代前半の日本の前衛美術と美術批評をめぐる代表的な論争の一つとされ、戦後日本美術における「反芸術」の意味、その歴史的位置づけ、さらにマルセル・デュシャンとの関係をめぐる対立として知られる[1][2]。
この論争で争われたのは、単に「反芸術」という語の定義ではなかった。中心にあったのは、1960年前後に日本で現れた、絵画や彫刻の従来の枠に収まりにくい作品や行為を、なお美術の歴史の延長として理解できるのか、それとも芸術や表現そのものの前提を問い直す出来事として理解すべきなのか、という問題であった。とりわけ、宮川が提示した日常性への下降の概念は、この論争を特徴づける主要論点の一つとなった[3]。
戦後日本美術の変化

1950年代後半から1960年代初頭にかけての日本美術では、アンフォルメル受容、具体美術協会、読売アンデパンダン展、九州派などを通じて、物質、行為、展示形式をめぐる実験が急速に進んだ。絵を描くことや彫刻を作ることの意味そのものが揺れはじめ、従来の絵画・彫刻の枠では説明しにくい作品が相次いで現れた[4]。
千葉成夫は、この時期の動向を、欧米前衛の単純な模倣としてではなく、日本の美術が外来の概念を受けとめながら、そのずれや矛盾を露出させていく過程として捉えている[4]。この見方に立てば、1960年前後の日本美術は、単に「新しい表現が増えた」というだけでなく、美術を支えてきた考え方そのものが揺れはじめた時期でもあった。
「反芸術」という語の流通
「反芸術」は、広義には20世紀前半のダダイスムの精神や方法を多かれ少なかれ継承し、1950年代半ばから1960年代半ばにかけて各地で現れた、美術の伝統的価値の破壊を志向する動向を指す語である。アメリカ合衆国のネオ・ダダ、フランスのヌーヴォー・レアリスムがその代表例とされ、日本では九州派、ゼロ次元、ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ、ハイレッド・センターなどがこの文脈で論じられてきた[5]。
もっとも、日本で「反芸術」という語は、最初から厳密な運動名として確立していたわけではない。読売アンデパンダン展を中心に、既成の絵画や彫刻の概念から逸脱する作品群を説明するために広く用いられたが、その意味は必ずしも一定していなかった[5][1]。
日本でこの語が一般化する契機となったのは、1960年の読売アンデパンダン展に対する東野芳明の批評であった。東野は工藤哲巳の作品を「ガラクタの反芸術」と呼び、この語を用いて新しい作品群を記述しようとしたが、その後この呼称は東野の意図を離れ、「反芸術=ヒステリックな反抗」といった否定的な含意を帯びながら流布した側面もあった[5]。
読売アンデパンダン展と前衛の先鋭化
読売アンデパンダン展は、戦後日本美術において、無審査・無賞を掲げる展覧会として若い作家たちの自由な発表の場となった。しかしその表現は年を追うごとに先鋭化し、不快音、悪臭、腐敗、破壊、行為そのものを作品化する試みなどが目立つようになった[5]。
こうした動きは、従来の「作品」の枠組みを崩すものとして受けとめられた一方で、それをなお美術史の内部で理解しようとする立場と、すでに従来の美術概念では捉えきれないとみる立場とのあいだに緊張を生んだ。1963年には不快音、悪臭、腐敗をもたらす作品の禁止や展示方法の制限などが設けられ、翌1964年には開催自体が中止された。同年には公開討論会「“反芸術”是か非か」が開かれ、さらに『美術手帖』誌上で宮川淳と東野芳明のあいだに反芸術論争が生じた[5][1]。
批評状況の変化
同時期には、前衛表現の行方をめぐる批評的再検討も進んでいた。飯田豊によれば、「反芸術」論争や千円札裁判などを契機として日本における前衛芸術の方向が問い直されるなかで、新しい工業素材やメディアを駆使した芸術表現に注目が集まり、「環境」という概念を橋渡しとして、マーシャル・マクルーハンが広く読まれたという[6]。反芸術論争は、こうした批評状況の変化のなかで起こった。
また、後年の研究では、この論争は日本におけるデュシャン受容の展開のなかでも重要な局面として位置づけられている。すなわち反芸術論争は、戦後日本の批評が、レディメイド、不制作、沈黙、非・表現といったデュシャン的問題系を、同時代の前衛のなかでどう読み替えたかを示す出来事でもあった[7]。
何を争ったのか
この論争で争われたのは、奇抜な作品を芸術として評価するか否かという単純な問題ではなかった。中心にあったのは、1960年前後に現れた新しい作品や行為を、従来の美術の延長として理解するのか、それとも美術や表現そのものの前提を問い直す出来事として理解するのか、という対立であった。
東野芳明は、反芸術を戦後抽象絵画やデュシャン以後の前衛の展開のなかで捉えようとした。これに対し宮川淳は、その見方にはなお「絵画とは何か」「表現とは何か」という近代的な前提が残っていると考えた。宮川にとって重要だったのは、作品が何を描いているかではなく、表現するという行為そのものの条件がどのように変わったかであった[1][2][3]。
したがって反芸術論争は、「反芸術」という語の意味をめぐる応酬であると同時に、芸術を高い場所に置く従来の考え方がなお有効なのか、日常的な物体や行為が作品に入り込むとき、芸術はどのように存在しうるのかをめぐる論争でもあった。要するにそれは、「反芸術とは芸術の終わりなのか、それとも芸術を考え直す新しい入口なのか」という問いをめぐる論争であったといえる。
経過
宮川淳の問題提起
宮川は、『美術手帖』1964年4月号に掲載された「反芸術─その日常性への下降」において、東野が反芸術を「戦後の抽象絵画が内的な表現の極限まで押しつめられた果てにあらわれたもの」とみなし、日常的な物体や記号、卑俗なイメージを通じて「事実」の世界の骨格を回復しようとする動きとして説明したことに対し、その見方は抽象と具象の二元論に陥っていると批判した[8]。
宮川によれば、反芸術の重要性は、単に画題が変化したり日常的な対象が導入されたりしたことにあるのではなく、「日常性への下降」によって表現の条件そのものが問い直される点にあった[8][3][1]。宮川は、アンフォルメルやアクション・ペインティングを経たのちに成立した状況として、表現過程の自立と自己目的化を重視した。そのうえで、反芸術を単なる挑発や反抗としてではなく、現代における様式的な具体性として捉え直そうとした[2]。
さらに宮川は、この「日常性への下降」が、芸術の不在をいかにして存在させうるかという、不可能な問いへと行き着くと論じた[3]。要するに宮川は、反芸術の意味を、奇抜な対象や日用品の導入にではなく、芸術が成り立つ条件そのものの変化に見ようとしたのである。
東野芳明の反論
これに対し東野は、『美術手帖』1964年5月号掲載の「異説・『反芸術』─宮川淳以後」において、自身がすでにウィレム・デ・クーニングとロバート・ラウシェンバーグのあいだに、抽象表現主義への単純な反動ではない弁証法的な発展を見ていたのであり、宮川の批判はその点を見落としていると応答した[9]。
東野によれば、反芸術は表現過程の自立を前提とするものではなく、むしろその自立自体を掘り崩し、変質させる契機を含んでいた[9][1]。さらに東野は、反芸術の根底的な姿を、デュシャンの《大ガラス》以後の沈黙と不制作、すなわち「永遠の可能性」の状態のうちに見ようとした。ここでは反芸術は、特定の様式や時代的傾向に限定されるものではなく、芸術の可能性と表現との緊張関係を露わにする根源的な契機として捉えられていた[2]。これに対して東野は、反芸術を表現の外部に置くのではなく、表現の歴史的展開の内部で把握しようとした。
宮川の再応答
宮川は『美術手帖』1964年6月号掲載の「“永遠の可能性”から不可能性の可能性へ」において、ここで問題となっているのは「なにが、いかに描かれているか」という表現内容の問題ではなく、表現行為とそれを支える表現概念の認識論的構造であると述べ、論点の所在をあらためて示した[10]。
宮川にとって、反芸術とはあくまで歴史的に限定された様式概念であり、デュシャンとの関係のなかで語られるべきであって、デュシャンの内部に永遠化されるべきものではなかった[10][1]。そのため宮川は、表現過程の「自立」を永遠の原理としてではなく、近代的な表現概念の矛盾のあらわれとして捉えた。そして、デュシャン的な「沈黙」よりも、むしろ「非・表現」、すなわち「不可能性の可能性」にこそ現代の表現の条件を見るべきだと主張した[2]。この再応答で宮川は、論争の焦点が作品の内容ではなく、表現概念そのものの構造にあることをいっそう明確にした。
東野の最終応答
これに対する最後の応答は、『美術手帖』1964年7月号掲載の「デュシャン『グリーン・ボックス』断想3─論争にかえて」である。東野は、宮川の議論が「個人」への特殊化であり非歴史的であるという批判に対し、芸術あるいは反芸術に関する概念は、個々の作家についての具体的な思考の積み重ねから普遍化され、またその普遍的な概念の限界を個々の作家の特殊性が突き崩していくという弁証法的運動のなかで発展すると述べた[11]。
こうして両者は、反芸術を芸術史のなかの契機としてみるのか、それとも芸術概念の危機としてみるのかという根本的な違いを残したまま、論争を終えた[1]。
主な争点
「反芸術」は何を指すのか
第一の争点は、「反芸術」という語が何を指すのかという点であった。この語は当時から意味が揺れており、特定の運動名なのか、ある種の傾向をゆるく指す総称なのか、あるいは批判的なレッテルなのかが必ずしも明確ではなかった[5][1]。そのため論争は、すでに曖昧に広がっていた語に、どのような理論的中身を与えるかという課題を含んでいた。
反芸術は絵画の延長なのか
第二の争点は、反芸術を戦後抽象絵画の延長線上で理解できるかどうかであった。東野は、反芸術を、戦後抽象やデュシャン以後の前衛の展開のなかに位置づけようとした。これに対し宮川は、その見方がなお抽象・具象という古い図式に依存していると批判した[8][9]。
ここでの対立は、どの作品を高く評価するかというより、新しい作品群をなお「絵画」や「彫刻」の歴史のなかで説明できるのか、それともその枠組み自体がすでに揺らいでいるのか、という点にあった。
「表現」とは何か
第三の争点は、「表現」という言葉をなお従来通りに使えるのかという点にあった。宮川は、反芸術において問題なのは、作品が何を表しているかではなく、表現するという行為そのものの条件が変質していることだと考えた。日用品、廃物、行為、場面、展示空間などが作品に入りこむとき、もはや「何が描かれているか」だけでは作品を説明できないというのである[8][10]。
東野もまた、反芸術を単なる内容の変化としてではなく、表現過程を変質させる契機として見ていたが、その歴史的位置づけのしかたは宮川と異なっていた。したがってここで争われていたのは、反芸術が「反対の芸術」かどうかではなく、そもそも表現とは何かという問題であった。
日常性への下降
宮川が提示した「日常性への下降」は、この論争を理解する鍵概念である。ただしこの語は、単に日用品を作品に取り入れることを意味しない[3]。
宮川が問題にしていたのは、芸術を特別で高い領域に置く従来の考え方が崩れ、日常の物や行為が作品に入り込むことで、芸術が成立していた土台そのものが問い直されることであった。したがって「下降」とは、芸術を身近にすることではなく、芸術の自明性を失わせる運動を指している[8][10]。
デュシャンの位置づけ
さらに大きな争点となったのが、マルセル・デュシャンをどのように反芸術の歴史に位置づけるかであった。東野は、デュシャンの沈黙や不制作に、反芸術の根底的な契機を見ようとした。これに対して宮川は、反芸術をあくまで歴史的に限定された現象として捉え、デュシャンの内部に永遠化してしまうことを退けた[9][10][11]。
したがって両者の差は、デュシャンを参照するかどうかではなく、デュシャンを特定の歴史的節目としてみるのか、それとも反芸術の持続的原理としてみるのかにあった。また、この点は、日本の批評がデュシャンをどう受容し、そこから戦後前衛をどう歴史化しようとしたかという問題とも結びついていた[7]。
評価・位置づけ
反芸術論争は、単に「反芸術」という語の定義をめぐる応酬にとどまらず、1960年代日本美術における前衛芸術の自己理解と、それを批評がいかに把握するかをめぐる対立として位置づけられている[12][1]。
一方では、読売アンデパンダン展を中心に現れた作品群をなお前衛美術史の内部で理解しようとする視点があり、他方では、そのような枠組み自体がすでに通用しなくなっているとみる視点があった。宮川淳の議論は後者を代表するものとして読まれやすく、東野芳明の議論は前者を代表するものとして理解されてきたが、実際には両者とも、反芸術を単なる悪ふざけや破壊として扱っていたわけではない[12]。
また、この論争は、アンフォルメル以後の日本美術をどのような文脈で捉えるかという問題とも深く関わっている。千葉成夫は、1950年代後半から1960年代初頭にかけての日本美術を、欧米前衛の単純な模倣ではなく、日本の美術が外来の概念を受けとめながら、そのずれや矛盾を表面化させていく過程として捉えている[4]。この観点からみれば、反芸術論争は、「反芸術」という語の定義やデュシャン解釈にとどまらず、日本の戦後前衛をどのような文脈のなかで理解するかという問題とも関わっていたといえる。
さらに後年の研究では、この論争は日本におけるデュシャン受容史の一局面としても重視されている。反芸術論争は、戦後日本の批評がデュシャンをどのように読んだかを示すだけでなく、その理解を通じて戦後前衛そのものをどう歴史化しようとしたかを示す出来事でもあった[7]。
飯田豊は、この論争を1960年代日本美術批評におけるより広い転換の一局面として捉えている。飯田によれば、東野が命名した「反芸術」と、宮川が提示した「日常性への下降」は、いずれもマクルーハンのいう「環境・反環境」と通底する概念として読みうるものであり、反芸術論争は、その後の環境芸術論や大阪万博をめぐる批評的言説へ接続していく問題系の一端をなしていた[6]。
また、公開討論会「“反芸術”是か非か」とこの論争をもって、その時代の終焉とみなす見解もある。この解釈に基づき、磯崎新が1997年に水戸芸術館で企画監修した展覧会「日本の夏1960-64 こうなったらやけくそだ!」において、「反芸術」の時代を1960年からの5年間として提示した[5]。