日常性への下降

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日常性への下降(にちじょうせいへのかこう)は、美術評論家宮川淳が、1964年に『美術手帖』4月号の評論「反芸術 その日常性への下降」で用いた美術批評上の概念である[1][2]。宮川はこの語によって、反芸術を単なる芸術への反抗や否定ではなく、日用品記号、卑俗なイメージなどを取り込む現代美術の動きとして説明しようとした[2][3]

宮川淳は、1964年1月30日に行われた公開討論会「“反芸術”是か非か」を受けて、「反芸術」をめぐる議論を整理しようとした[2][3]。宮川は、反芸術を単なる反抗や破壊としてではなく、現代美術のなかで実際に現れている表現のあり方として捉える必要があると考えた[2]

その際に宮川が用いたのが「日常性への下降」という言葉である。これは、美術作品が日用品、既製品、記号、広告的なイメージ、卑俗な題材などを取り込む動きを指している[2][3]。ただし宮川は、それを単に「芸術が現実生活に近づいた」という意味だけでは捉えなかった。日常的なものが作品に入り込むことで、何が芸術であり、何が芸術でないのかという境界そのものが揺らぐ点に注目した[3]

このため「日常性への下降」は、作品の素材や題材の変化を表す語であると同時に、戦後日本美術において、表現そのものの考え方が変わっていく状況を示す批評語でもあった[2][3]

成立

「日常性への下降」という語は、宮川淳「反芸術 その日常性への下降」(『美術手帖』234号、1964年4月、48-57頁)で提示された[1]。この論考は、のちに『宮川淳著作集 2』にも収録された[4]

宮川がこの語を用いた背景には、1950年代後半から1960年代前半にかけての日本美術の状況があった。アンフォルメルアクション・ペインティング以後、作品を作者の内面感情の表現として見るだけでは、美術の新しい動きを十分に説明しにくくなっていた[2][3]。宮川は、そうした状況のなかで現れた反芸術を、単なる流行や反抗ではなく、現代美術の表現の一つとして考えようとした[2]

後年の研究では、この時期の宮川の思考は、個々の表現の説明にとどまらず、表現という考え方そのものを問い直すものとして位置づけられている。そうした文脈では、「日常性への下降」は、反芸術を一時的な流行としてではなく、近代的な美術観の限界が見えてくる地点として捉えるための重要な語であったと理解されている[5]

概念内容

宮川のいう「日常性への下降」は、日常的な物やイメージが美術作品に入り込むことを指している。たとえば、既製品、印刷物、広告、記号、都市生活のなかにある卑俗なイメージなどは、従来の美術では作品の中心になりにくいものだった。反芸術では、そうしたものが作品の素材や題材として扱われるようになった[2][3]

しかし宮川は、この動きを「芸術が現実へ戻った」と単純には考えなかった。日常的なものが作品に取り込まれると、作品と現実、芸術と非芸術の区別は分かりにくくなる。宮川は、そこに反芸術の重要な特徴を見た[6][7]

つまり「下降」とは、芸術が低いものへ落ちるという意味だけではない。むしろ、芸術が日常的なものに近づくことで、美術とは何か、表現とは何かという問いが改めて浮かび上がる、という意味をもっていた[2][3]。この点で「日常性への下降」は、反芸術を美学に反する態度としてではなく、表現の成り立ちそのものを問い直す概念として読むことができる[5]

反芸術論争との関係

「日常性への下降」は、1964年に『美術手帖』誌上で展開された反芸術論争のなかで重要な論点となった[6][7]。この論争は、公開討論会「“反芸術”是か非か」をきっかけに、宮川淳と東野芳明のあいだで交わされたものである[6][7]

東野芳明は、戦後の抽象絵画マルセル・デュシャン以後の動向との関係から反芸術を捉えようとした[6][7]。これに対して宮川は、反芸術をより具体的な様式として捉える必要があると考え、その特徴を「日常性への下降」と表現した[7]

このため「日常性への下降」は、宮川が東野の議論に反対するためだけの語ではなかった。むしろ、東野が名づけた「反芸術」という言葉を受け止めたうえで、それをより具体的に説明しようとする試みでもあった[2][5]

受容と再解釈

後年、「日常性への下降」は、1960年代日本美術における反芸術を理解するための代表的な批評語の一つとして扱われている[2]。宮川が反芸術を単なる否定や挑発ではなく、現代美術の表現として捉えた点は、ポップアートもの派を含む戦後美術批評の流れと関係づけて論じられている[2]

飯田豊は、1960年代後半の美術評論におけるマーシャル・マクルーハン受容を論じるなかで、東野が名づけた「反芸術」と宮川の「日常性への下降」を、マクルーハンの「環境/反環境」という考え方と重ねて読むことができる概念として位置づけている[8]

また、宮城正作は2024年の論文で、宮川の「日常性への下降」を広川晴史の活動と結びつけて再検討している[9]。同論文では、日常性へ下降したのは作品だけではなく、芸術家や芸術活動そのものでもあったという見方が示されている[9]

脚注

参考文献

関連項目

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