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古里 (長野市)

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国 日章旗 日本
都道府県 長野県
自治体 長野市
古里
ふるさと
国 日章旗 日本
地方 中部地方(甲信越地方)
都道府県 長野県
自治体 長野市
旧自治体 古里村
面積
5.67km²
総人口
13,367人
(住民基本台帳、2023年3月1日現在)
人口密度
2,357.5人/km²
隣接地区 吉田地区、柳原地区、朝陽地区、若槻地区、長沼地区、豊野地域
長野市役所古里支所
北緯36度40分38.1秒 東経138度14分41.3秒 / 北緯36.677250度 東経138.244806度 / 36.677250; 138.244806座標: 北緯36度40分38.1秒 東経138度14分41.3秒 / 北緯36.677250度 東経138.244806度 / 36.677250; 138.244806
所在地 〒381-0007
長野県長野市大字金箱635-16
リンク 古里支所公式ページ
古里の位置(長野県内)
古里
古里
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古里(ふるさと)は長野市北東部の地区。本項ではかつて概ね同地域に所在した上水内郡古里村(ふるさとむら)についても述べる。

地区名「古里」は、1889年(明治22年)の5ヵ村合併の際に誕生。「町村分合上申書」によれば、その名の由来を「もっとも早く村里を形成したから」としている。特に中心的な村落もなく、合成名も困難。古代東山道の多古駅や三才古墳の存在などから察せられるように、古くから開けていたことを誇り決定したと思われる[1]。

地区内全体の世帯数および人口は、5,671世帯 13,367人(令和5年3月1日時点)[2]。

以下の1879年~1995年は『長野市誌 第8巻』[3]、2000年~は住民基本台帳の1月1日の数値[2]による。人口は明治の初めから第二次大戦後までほとんど変化はない。戦後ベビーブームの影響もあって次第に増えてくるが、大きな変化が現れるのは1965年以降である[3]。

1963年、上駒沢の現地籍から徳間地籍にかけて長野工業高等専門学校、1964年に市立第二高等学校(現・市立長野中学校・高等学校)が開校すると、信越線の三才停留所の乗降客も増え、1966年には廃止寸前だった三才停留所が駅に昇格した。同年県企業局によって上駒沢新町団地が造成されると、市の中心部へ信越線を利用しても長野電鉄線を利用しても10~15分という利便性を買われ、団地や個人住宅の建設が急速に進んだ[3]。

職業構成も1879年に農業が93パーセントだったのが1995年には7,2パーセントになった[3]。

1950年(昭和25年) 3,744人
1960年(昭和35年) 3,711人
1970年(昭和45年) 5,688人
1980年(昭和55年) 11,457人
1990年(平成2年) 13,126人
2000年(平成12年) 13,962人
2010年(平成22年) 14,021人
2020年(令和2年) 13,610人
長野市

地理

地域北西部をしなの鉄道北しなの線・北陸新幹線が通過し、地域南西から北東にかけて浅川が流れる。中央部を長野県道372号三才大豆島中御所線が南北に走る。

周囲は以下の地域・地区[4]と接する。

長野市街地から約6kmほど北東に位置する。地域西部の長野電鉄朝陽駅としなの鉄道三才駅とを結ぶ長野県道372号三才大豆島中御所線沿いに住宅地・集落が集中しており、そのほかは農地の広がる長閑な地域である。

河川

  • 浅川
  • 新田川
  • 駒沢川
  • 田子川

歴史

ふるさとむら
古里村
廃止日 1954年4月1日
廃止理由 編入合併
長野市、古里村、柳原村、浅川村、大豆島村、朝陽村、若槻村、長沼村、安茂里村、小田切村、芋井村 → 長野市
現在の自治体 長野市
廃止時点のデータ
国 日本の旗 日本
地方 中部地方(甲信越地方)
都道府県 長野県
郡 上水内郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
総人口 3,744人
(国勢調査、1950年)
隣接自治体 長野市
上水内郡柳原村、朝陽村、若槻村、長沼村、神郷村
古里村役場
所在地 長野県上水内郡古里村
座標 北緯36度40分38.2秒 東経138度14分41.4秒 / 北緯36.677278度 東経138.244833度 / 36.677278; 138.244833 (古里村)
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前身各村〜古里村の歴史
  • 江戸時代 - 前身の水内郡富竹村・金箱村・上駒沢村・下駒沢村・三才村は天領(松代藩預地)であった。
  • 1604年(慶長9年) - 上駒沢村・三才村付近を通る東山道の支道が北国街道に指定され、上駒沢村に新町宿が置かれる。のち、1611年(慶長16年)に経路が変更になり、村内を通らなくなる。
  • 1972年(明治5年) - 県と町村の間に区が設けられると、古里地区は第62区に入り、各村には戸長が置かれた[5]。
  • 1974年(明治7年) - 大区小区制が敷かれ、5ヵ村は北第25大区第2小区となり、この大区の会所および小区の戸長役場が上駒沢村の法林寺に置かれる[5]。
  • 1879年(明治12年)1月4日 - 郡区町村編制法施行。各村は上水内郡に属する。各村に戸長役場が置かれる[5]。
  • 1885年(明治18年)
    • 4月 - 経費削減のため、各村の戸長役場を統合し、金箱村に戸長役場が設置される[5]。
    • 各村の4校を併合し、金箱村に金箱学校(長野市立古里小学校の前身)が開校。大字三才に支校が置かれるが、1907年(明治40年)に廃止。
  • 1888年(明治21年)5月1日 - 信越本線(長野〜関山=現 しなの鉄道北しなの線)が開通し上駒沢村・三才村を通過するが、当初駅は置かれなかった。
  • 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、上水内郡富竹村・金箱村・上駒沢村・下駒沢村・三才村の区域をもって古里村が発足。金箱の青木武平宅を借用し、村役場として事務を開始[5]。
  • 1908年(明治41年) - 古里尋常小学校校舎を改築して、旧校舎に役場を移転する[5]。
  • 1927年(昭和2年) - 役場から出火し、役場と小学校を焼失。再び青木宅を借用して事務を行う[5]。
  • 1936年(昭和11年) - 農協所有地に新庁舎を新築。役場と農協が上下階に分かれて事務を執る[5]。
  • 1954年(昭和29年)4月1日 - 古里村が長野市に編入。同日古里村廃止。大字富竹・金箱・上駒沢・下駒沢・三才となる。
長野市古里地区の歴史
古里に鉄路が通ってから70年目にして新設された三才駅

大字・町丁

脚注

参考文献

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