吉江藩
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| 吉江藩 | |
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吉江藩唯一の藩主、松平昌親 | |
| 立藩年 | 正保2年(1645年) |
| 初代藩主 | 松平昌親 |
| 廃藩年 | 延宝2年(1674年) |
| 最終藩主 | 松平昌親 |
| 国 | 越前国 |
| 居城 | 吉江陣屋 |
福井松平家 | |
| 石高 | 25000石 |
| 種類 | 親藩大名 |
| 格式 | 無城(陣屋) |
吉江藩(よしえはん)は、越前国に正保2年(1645年)から延宝2年(1674年)まで存在した、福井藩の支藩。松平昌親の1代限りの藩であり、藩庁は吉江陣屋(吉江館)に置かれた。石高は2万5000石。
吉江藩唯一の藩主である松平昌明は、福井藩主松平忠昌の庶子であった。松平忠昌の死去に伴って、兄の松平光通が福井藩主となると、光通の庶兄である松平昌勝に松岡5万石が分知され、昌親にも吉江2.5万石が与えられ、吉江藩が成立した。昌親は吉江藩の藩主を29年間つとめ、兄の光通が心労により自殺すると、光通の遺書の内容に従って昌親が福井藩主を継ぐこととなった。昌親が福井藩主となったため、吉江藩は廃藩となりその所領は福井藩に吸収された。
正保2年(1645年)8月1日、結城秀康の子で福井藩主の松平忠昌が死去した[1][2]。その後を子の松平光通(千代丸)が継ぎ、幕命によって光通の異母兄の松平昌勝(千菊丸)に5万石、異母弟の松平昌親(福松)に2万5000石を分与した[1][2]。内分知であるため、昌親に領地朱印状が独自に与えられることはなく、光通分の朱印状に併記されていた[3]。
慶安元年(1648年)[注釈 1]、昌親は在所を丹生郡立町郷の吉江町に願いこれが幕府に認められ[5]、同地に陣屋が造成された[4][6]。慶安2年(1649年)に松岡藩と吉江藩の領地高が確定した[7][8]。松岡藩に関しては記録が残っているのに対して、吉江藩はその際の記録が残っておらず、吉江藩の所領は今もなお正確にはわかっていない[7]。
明暦元年(1655年)6月11日に昌親は初入部し[9]、以降は参勤交代で吉江と江戸を往復した[5]。万治元年(1658年)には江戸鳥越に屋敷を拝領している[5]。吉江藩の体制自体は、福井藩とほぼ変わっていないが、普請役を務めるなど、藩政は福井藩から独立をしていた[10]。
延宝2年(1674年)3月24日、福井藩主であった兄・光通が、正妻・勝姫の自殺や庶子・松平直堅(権蔵)の出奔などによる心労で自殺した[11][12]。生前に残していた光通の遺言状には、昌親が後継者に適任であると記されており、昌親を後継者に願っていた[13]。権蔵を擁立する勢力などもいたが、この遺言書が幕府に届けられたことで、遺言通り同年5月6日に昌親が福井藩主に任命された[14]。吉江藩は廃藩となり、その所領は福井藩に吸収され47万5280石となった[12][10]。
歴代藩主
家臣団
明暦元年(1655年)昌親が吉江に初入部した際、知行取23人を含む福井藩士46人が付き人となり、この46人を中心に家臣団が形成された[6][15]。「吉江給帳」の記述によれば、家臣団の総人数は306人、そのうち士分が82家、卒が224人だったという[注釈 2][6][15]。
付き人から吉江藩の家臣となった人物である杉森斉が、元禄期に活躍した代表的な人形浄瑠璃と歌舞伎の作者である近松門左衛門(杉森信盛)の父杉森信義であったとされる[6]。近松門左衛門の先祖書「杉森家系図」の記述によれば、杉森信義は足軽大将として昌親に仕えていたとある[6]。近松門左衛門は福井城下で生まれたが、父の吉江行きに連れられて吉江に移住し、15歳ころに父が浪人となって京都へと赴いた[17]。