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在郷町

日本の都市の形態のひとつ From Wikipedia, the free encyclopedia

在郷町(ざいごうちょう・ざいごうまち)は、江戸時代の日本における都市形態の一つ。法制上は在方(農村部)に属しながら、実質的には都市として存立したものの総称である[1][2]。郷町(ごうちょう)・町村(まちむら)などとも称された[2][3]。畿内の在方に多く存在した中世以来の都市や集落を、特に在町(ざいまち)と言うこともある。

定義

在郷町の定義は先に述べた通りであり、門前町・宿場町・港町も一般的に在郷町の一種である。

しかし在郷町をさらに細分化することもあり、『国史大辞典』は、法的に農村として把握された町場のみを在郷町とする立場と、三都や城下町のような大都市以外の在方における都市・町場を広く含める立場の双方を紹介し、これに加え、関東に多い「農民経済の拠点である町場」を在郷町、畿内に多い「中世の都市が在方に分類されつつも存続したもの」を在町として区別する見解があることも指摘している[3]。

呼称は地域によってさまざまである。加賀藩・肥後熊本藩・伊予大洲藩では「在町」が[4][5]、畿内では「郷町」「町分」が多く用いられた[2]。

特徴

在郷町の住民は一般に、農業と商工業を完全に分離しておらず、商工業者であっても農地を保有する者が多かった[1]。在郷町を拠点とする商人は「在郷商人」と呼ばれ、18世紀後半以降、城下町や三都の問屋や株仲間と対立することもあり、摂河泉では自由販売を求める大規模な国訴が幾度なく勃発した[6]。特に大規模な例として、在郷町ではなく在町であるが平野商人(平野綿屋町)と船場商人(大坂平野町)との間に起きた対立が挙げられる。平野綿屋町と大坂平野町には双方とも繊維の問屋街があったことに加え、平野が江戸など東国まで繊維を輸送するための廻船を運航していたために、大坂の問屋街とはしばしば対立していた。

在町・在郷町の規模にはかなりの幅があり、富田林は江戸中期に人口約3000、今井町は約4000を数え、一般にはこのような戸数200から1000、人口1000から6000程度のものが多かった[2]。ただし大規模な事例も存在し、摂津平野や和泉佐野のように人口1万に達する在町・在郷町もあった[1]。

在郷町の扱いとしては、領主が在郷町の歴史的性格を尊重して商業活動を黙認する場合もあれば、領内経済の拠点として積極的に在方における町の存在を公認する場合もあった[3]。伊予大洲藩は、城下に準ずる町(新谷町・長浜町など)と、在町(内之子町・中山町・五十崎町など)を区別し、在町においては取扱商品に制限を設けた[5]。商業を営む者には商札の交付と運上銀の納入が義務づけられ、札の等級(30匁札・15匁札・3匁札)に応じて取り扱える商品に差が設けられた[5]。また熊本藩では城下町の「五ヶ町」とは別で、領内各所に「在町」を設けていた[4]。また江戸時代後期に平野を治めた古河藩も、平野を西国支配の拠点都市とみなし、平野陣屋を設けている。

都市構造

在郷町の構造は、城下町と比較すると小規模かつ単純であったのが一般的である。多くの場合、街道や河川沿いに町家が一列ないし二列に並ぶ短冊形の地割を基本とし、城下町のような武家地・町人地・寺社地の機能別配置は見られない[7]。しかし、寺内町や中世都市を起源とする在町は環濠・土居に囲まれた計画的な町割を持っていることもあり、たとえば富田林の六筋七町、今井町の碁盤目状の町割のように、整然とした空間構造を備えていた在町があった[8][9]。特に大規模であった天王寺や平野には「綿屋町」などの職業町名も見られ、平野においては碁盤目状の街衢が1キロメートル四方に及んでいた。

経過

畿内

豊臣政権が太閤検地や兵農分離政策によって「町方(都市部)」と「村方(農村部)」を分離して以降、商工業者は城下町など公認の都市に集住するのが原則であり、農村部に商工地(町場)が存在することは制度上想定されていなかった[3]。ところが現実には、戦国時代以来の都市が近世の再編過程で農村扱いを受けたまま都市としての実態を維持する例や、経済の発展に伴い新たに商工地が形成される例があった[1][3]。

脇田修は、経済的先進地域である畿内では戦国末期にすでに各地に都市が成立していたことを指摘する[1]。豊臣秀吉が大坂城の城下町を建設する過程で周辺の既存都市から商工業者を集住させ、さらにそれら旧来の都市を法的に在方(農村部)として扱ったため、商工業都市としての実態を維持しながら制度上は在方となった都市、すなわち在町が多数生じた[1]。

平野はその代表的かつ大規模な事例である。堺と同様に中世以来の自治都市・環濠都市であったものの、大坂の外港として重要視された堺と異なり内陸にあり、豊臣秀吉による船場・上町の両平野町への強制移住策などもあって、在方に分類された[1][10]。しかし江戸時代初期に復興されて以降は繊維業の栄える商都であった。平野と同様の事例は、より規模は小さいながら畿内の寺内町でも顕著で、河内富田林[8]・摂津富田[1]なども同じような経緯をたどっている。

上述した在町に対して、畿内における農村経済拠点としての在郷町の発展は、17世紀後半に顕著となっていく。大坂や平野に近い摂河では棉花をはじめとする商品作物の生産が活発化し、数キロメートルおきに町場が成立していた[1]。大坂に近い河内国の場合、寺内町以来の在町として久宝寺・八尾・大ケ塚・富田林が、在郷町として枚方・柏原・国分・古市があった[11]。

東国

畿内以外の地域では、在郷町の形成は総じてやや遅れ、農村における商品経済の発達にともない元禄から享保にかけての17世紀末 - 18世紀前半ごろに全国的に形成が進んだ[2]。特産品の流通拠点を核として在郷町が成長し、しだいに後進地域へと拡大していった[1]。東北地方では紅花・青苧の集散地として最上川舟運沿いの大石田・谷地(現河北町)・左沢(現大江町)などが在郷町に発展した[12]。19世紀に入ると、マニュファクチュアの形成や開国の影響を受けた結果、商品生産・流通の拠点としての在郷町も生まれている[1]。

近代以降

明治維新に際して旧来の町方・在方の法的区別は撤廃され、在町・在郷町はその実態に即した町村に改編されることとなり、さらに鉄道交通の発展によって都市地位を維持・強化したものと、交通路から外れて停滞したものとに分かれた。特に後者の場合、歴史的建造物が多く残存し、風致が維持されたものが多かった。

20世紀後半以降、こうした旧在郷町の町並みが文化遺産として再評価されるようになり、文化庁の伝統的建造物群保存地区に選定されるなどして保存・活用が進められている[13]。

おもな在町・在郷町の一覧

畿内

摂津国
河内国
和泉国
大和国

東海道

東山道

北陸道

山陽道

山陰道

南海道

西海道

重要伝統的建造物群保存地区

文化庁が重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)として選定した地区のうち、種別に「在郷町」の語を含むものは以下のとおりである(2025年4月現在)[13]。

さらに見る 名称, 所在地 ...
名称所在地種別選定年月日
横手市増田[15]秋田県横手市在郷町2013年(平成25年)12月27日
喜多方市小田付[16]福島県喜多方市在郷町・醸造町2018年(平成30年)8月17日
桜川市真壁[17]茨城県桜川市在郷町2010年(平成22年)6月29日
嘉右衛門町栃木県栃木市在郷町2012年(平成24年)7月9日
吉久[18]富山県高岡市在郷町2014年(平成26年)12月18日
富田林寺内町大阪府富田林市寺内町・在郷町1997年(平成9年)10月31日
今井町奈良県橿原市寺内町・在郷町1993年(平成5年)12月8日
吉良川町[19]高知県室戸市在郷町1997年(平成9年)10月31日
卯之町[20]愛媛県西予市宇和町在郷町2009年(平成21年)12月8日
津島町岩松愛媛県宇和島市津島町在郷町2022年(令和4年)11月10日
筑後吉井[21]福岡県うきは市在郷町1996年(平成8年)12月10日
筑後黒木福岡県八女市在郷町2009年(平成21年)6月30日
浜庄津町浜金屋町佐賀県鹿島市浜庄津町港町・在郷町2006年(平成18年)7月5日
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このほか、重伝建の種別としては「商家町」「製蝋町」「醸造町」「製塩町」などに分類されている地区のなかにも、歴史的実態としては在郷町であったものが多数含まれる[22]。

参考文献

  • 脇田修『近世封建制成立史論』東京大学出版会、1977年。
  • 東京大学出版会(編)『図集 日本都市史』東京大学出版会、1993年。
  • 田中喜男『近世在郷町の研究』名著出版、1990年。ISBN 978-4-626-01368-2。
  • 森田誠一『近世における在町の展開と藩政——熊本藩を中心として』山川出版社、1982年。

脚注

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