吉田孝司
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| 基本情報 | |
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| 国籍 |
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| 出身地 | 兵庫県 |
| 生年月日 | 1946年6月23日(78歳) |
| 身長 体重 |
179 cm 79 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 捕手 |
| プロ入り | 1965年 |
| 初出場 | 1965年10月17日 |
| 最終出場 | 1983年10月22日 |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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この表について
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吉田 孝司(よしだ たかし、1946年6月23日 - )は、兵庫県出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ。横浜DeNAベイスターズの編成・スカウト部長、GM補佐、球団代表補佐を歴任した。
市立神港高校では2年次の1963年から正捕手を務め、3年生エース宮本幸信とバッテリーを組み、春の選抜に出場。準決勝まで勝ち進むが、下関商の池永正明に抑えられ、1-4で敗れた。同年夏は県予選準決勝で市西宮高に敗退し、3年次の1964年夏も県予選で敗れ、甲子園出場はならなかった。
1969年に5年目にして一軍に定着、森昌彦に次ぐ2番手捕手としてV9を支える。
1974年には出場試合数が森を上回り正捕手に昇格。
1976年には奪還する。1976年には初めて規定打席(30位、打率.260)に到達し、オールスターゲームに初めて出場。7月20日の第3戦(大阪)では9回に加藤初の代打で村田兆治からダメ押しの2点適時三塁打を放ち、巨人の捕手として初のMVPに輝いた。阪急との日本シリーズでは全7戦中6戦に先発マスクを被り、10月30日の第5戦(西宮)では山田久志から2点適時打を放つが、シリーズ通算16打数2安打に終わりチーム日本一を逃す。
1977年も2年連続でオールスターに出場しリーグ連覇に貢献したが、8月末から故障欠場。阪急との日本シリーズでは11打数2安打と活躍できず、日本一奪回はならなかった。
長嶋茂雄監督の下で数年に渡り正捕手として活躍したが、2番手捕手として長きに渡り川上哲治監督に重宝されたこともあって、選手として一軍ベンチ入りの試合数はジャイアンツ史上4位であり、これは川上や長嶋より多い(1位は王貞治。柴田勲と森が2位タイ)[1]。川上政権下では怒られ役で、何かにつけて「ヨシ!」と叱られたという。
1978年も前半戦を欠場、福嶋知春と新入団の山倉和博がマスクを被るが、7月に復帰。
1979年はシーズン中盤からは山倉が先発として起用され、再び控え捕手となる。
1982年には一軍バッテリーコーチ補佐兼任となる。
1983年の最終戦で堀内恒夫とバッテリーを組んだのが現役最後の出場となった。一軍バッテリーコーチ兼任となった1984年は一軍出場がなくなり、同年限りで現役を引退。
引退後は巨人で一軍バッテリーコーチ(1985年 - 1986年)→二軍バッテリーコーチ(1987年 - 1995年)を務め、1996年にフロント入りするが、編成部長在任時の2004年に一場事件に関連してスカウト職を解任された。
2012年から横浜DeNAベイスターズの編成・スカウト部長に就任[2]。
2013年からは現職のまま、浅利光博(統括マネジャー)・竹田光訓(ファームディレクター)とともにGM補佐を兼務した。
2020年はスカウト顧問兼球団代表補佐に就任。10月26日のドラフトを最後に勇退[3][4]。同ドラフトは退任のアレックス・ラミレス監督に代わりくじの引き役を務める予定であったが球団が入江大生を単独指名したため機会はなかった。