ジム・マーシャル (野球)

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生年月日 (1931-05-25) 1931年5月25日
没年月日 (2025-09-07) 2025年9月7日(94歳没)
ジム・マーシャル
Jim Marshall
AAA級ナッシュビルでの監督時代
(1984年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 イリノイ州ダンビル
生年月日 (1931-05-25) 1931年5月25日
没年月日 (2025-09-07) 2025年9月7日(94歳没)
身長
体重
6' 1" =約185.4 cm
190 lb =約86.2 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 内野手
プロ入り 1950年
初出場 MLB / 1958年4月15日
NPB / 1963年4月13日
最終出場 MLB / 1962年9月28日
NPB / 1965年10月24日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

ルーファス・ジェームス・マーシャルRufus James Marshall1931年5月25日 - 2025年9月7日)は、アメリカ合衆国イリノイ州出身のプロ野球選手内野手)・コーチ監督

1950年シカゴ・ホワイトソックスと契約し、1958年ボルチモア・オリオールズでようやくメジャー初昇格。1958年シーズン途中にシカゴ・カブスに移籍。その後もサンフランシスコ・ジャイアンツ1960年 - 1961年)→ニューヨーク・メッツ1962年)→ピッツバーグ・パイレーツ(1962年)と計5球団を渡り歩く。この間の1960年には日米野球で来日している[1]

1963年日本プロ野球初の現役メジャーリーガーとして中日ドラゴンズに移籍。それまでNPBでは、兵役中にアルバイトとしてプレーしたレオ・カイリーや、既に引退していたラリー・ドビーなどのメジャー経験者がプレーしたケースはあったが、マーシャルは前年までメジャーのレギュラー野手だった。当時のNPB最高の年俸40,000ドルに加え、東京には家族が住むマンションが、名古屋にはマーシャル滞在用に高級ホテルの1室が用意されるなど、破格の条件であった[2]。監督の杉浦清は「右の江藤慎一、左のマーシャルで打線の軸はできた。この二人でホームラン100本になるかもしれない」。マーシャルのメジャーでのプレーを知っていたコーチ・与那嶺要は「さすが、と思うようなプレーを、連続して見せてくれると思うヨ」と首脳陣の期待も高かった[3]

オープン戦では大スランプでファンをやきもきさせたが、公式戦に入るとメジャーの貫禄を見せて打ちまくる。江藤慎一ボブ・ニーマン(後に移籍してきた葛城隆雄)とクリーンナップを組んだ。特に、巨人戦には滅法強く、バントヒットも得意にしていた。1年目から、打率は.258ながら、28本塁打、92打点といずれもチームトップの成績を挙げた。

1964年6月17日の巨人戦(後楽園)では、5回表にマーシャルはレフトフェンス際に大飛球を放つ。左翼手・相羽欣厚がジャンプしてこのボールを捕球しようとした直前、レフトスタンドのファンが身を乗り出してこのボールを取ってしまった。球場の観衆は最初は「ホームランか?」と色めきたったが、レフト線審は「ファンがボールを取らなければ捕球できた」と判断してアウトを宣告。中日側はこの判定を不服として審判団に猛抗議し、一時は監督の西沢道夫が「没収試合も辞さない」とベンチ内の選手を引き上げさせたが、球団フロントや球場にいた鈴木龍二セ・リーグ会長の説得もあって「提訴試合」とする事を条件に試合は再開された。この事は「幻のホームラン事件」としてしばしば紹介されている[4]。前年度に続いて選ばれたオールスターゲームでは、中日スタヂアムで開催された第2戦で逆転2点二塁打を含む2安打を打ってMVPを獲得。得た副賞の軽自動車をたいそう気に入って球場への足代わりに使っていたという。マーシャルは前年度のオールスターゲームでも3点本塁打を放っており、オールスター男と呼ばれた山内一弘から「マーシャルのオールスターゲームの集中力には凄いものがあった。選ばれたのは名誉だ、と心から信じていたと思う」と評されている[5]。この年はNPBでのキャリアハイとなる打率.280(リーグ10位)、31本塁打を記録した。

1965年も3年連続となるオールスターゲーム出場を果たす。しかし、シーズンでは打率.266、19本塁打とやや数字を落とし、同年限りで引退。

帰国後は、アメリカ球界への復帰し、キャピー原田がGMを務めるA級ローダイ・クラッシャーズの監督になる。これを皮切りに、マイナーの監督やメジャー球団のコーチや歴任し、1974年途中には辞任したホワイティ・ロックマンの後任としてシカゴ・カブスの監督に就任。同じくNPBでプレー経験のあるジャック・ブルームフィールドをコーチに登用した[1]。順位は6位→5位→4位で、1976年限りで辞任した[6]

1979年オークランド・アスレチックスの監督を1年だけ務めるが、のちNPBでプレーするマット・キーオの大誤算などもあり、最下位に沈む。しかし、アスレチックス時代はリッキー・ヘンダーソンをマイナーから初めてメジャー昇格させるなど抜擢した[7]1981年に親友の近藤貞雄が中日監督に就任すると、マーシャルは請われて[8]、古巣・中日の一軍総合コーチに就任。ケン・モッカを日本に紹介したほか、平野謙をレギュラーに押し上げ、1982年のリーグ優勝に貢献。1983年近藤と同時に退任。

再度アメリカに帰国したのち、ヤンキースホワイトソックス傘下のマイナーリーグ監督を歴任。1991年オフに日米OBオールスター選が開催された際、マーシャルは全米監督として来日している。その後、野球界を離れて、友人のレジー・ジャクソンがオーナーを務める不動産会社ユナイテッド・ディベロップメント(アリゾナ州テンピ)で勤務した[9]1998年にはアリゾナ・ダイヤモンドバックスの創設に尽力し、その後はチームのシニアアドバイザー(太平洋沿岸地区担当)を務めていた。

2025年9月7日の夜に死去。94歳没[10]

選手としての特徴

少しクロス気味の構えで、静かに滑るようにステップし、なめらかなスイングから、強烈な打球を巧みに左右に打ち分けた。当時の外国人選手は強引なくらいのプルヒッターが多かったことから、美しい流れるような打撃フォームからの広角打法は、ファンから喝采を浴びた[11]

逸話

対戦相手チームのファンの一人が打席のマーシャルに対して、「マーシャルの子供は『子マーシャル!』」という野次を飛ばしたところ、これが観客に受けて場内は爆笑で包まれたという[12]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1958 BAL 852111911741435661932021801304.215.283.346.629
CHC 2694811222205391110001210130.272.366.481.847
'58計 111305272296363101053042023011434.232.308.386.694
1959 1083312943974101111194001133301395.252.326.405.731
1960 SF 751361181928222401301011701244.237.336.339.675
1961 44403658001117000130081.222.275.306.581
1962 NYM 173532611103214000030060.344.400.6561.056
PIT 551161001322512351210011500191.220.319.350.669
'62計 721511321933615561610011800251.250.338.424.762
1963 中日 138580511651322402824092422461628310.258.340.470.809
1964 13155847964134210312488821147470738.280.376.518.894
1965 13956451160136242192217253044930877.266.330.432.763
MLB:5年 4109638521112062472933110654181011313915.242.322.388.710
NPB:3年 408170215011894026927870925211631218416224325.268.349.472.821
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰

NPB

記録

NPB

背番号

  • 27(1958年)
  • 44(1958年)
  • 12(1959年)
  • 25(1960年 - 1961年)
  • 6(1962年 - 同年途中、1963年 - 1965年)
  • 14(1962年途中 - 同年終了)
  • 1(1974年 - 1976年、1979年)
  • 62(1981年 - 1983年)

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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