啓心郎
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前史
清初の官制確立は実質的にホンタイジによる皇権強化のための重要な措置にほかならない。合議制から完全な集権制に改めるまでの過程において諸王ベイレからの抵抗が終始存在していたことは、啓心郎の設置の経緯にも現れている。[2]
『天聰五年八旗値月檔』には、啓心郎設置の経緯について、諸王ベイレや大臣を啓蒙 (啓迪) するために「筆帖式ビトヘシ」を設置したという記載[3]がある。つまり、啓心郎は本来、ビトヘシを母胎にそこから生まれた役職であると考えることができる。実際、その形成期には一般のビトヘシと区別するために「啓心郎筆帖式ビトヘシ」という呼称が与えられている。[2]
ビトヘシは官制の最基層の文官として、記録や公文書の保管およびそのほかの筆記作業を担ったため、設置当初の啓心郎は決して高官といえるものでなかったが、しかし後世に定められた官位 (品級) やそれに伴って発生した作用から鑑みて、後の啓心郎は一般のビトヘシよりも遥かに高い地位にあったことがうかがえる。即ち、この経緯は、啓心郎にはその権威権限が絶えず強化向上してゆく過程があったことを物語っている。啓心郎が低級官吏として出発したことは、諸王ベイレの警戒心を削ぐ上で有効であった。[2]
啓心郎の設置は太祖ヌルハチのアイシン・グルン (後金) に於ける経営構想と歴史的に密接な繋りがある。天命8年 (1623) 旧暦2月、ヌルハチは八王ベイレを忠直に働かせる為に「掛文啓示者」という一種の官吏を設けた。ここで「掛文」とは、[2]
古時、汗ハン、貝勒ベイレの居心邪惡にして衰敗し、存心善良にして興りし實例を以て、之を錄して頂に掛け、貝勒ベイレの身を離れること勿く、常に以て之を展示し、之をして忘るる無から使め著しめむ。[4]
「昔の君主が私欲の虜となって国を潰し、反対に善良な心を保ち続けて国が栄えたという歴史事実を、文字にして頭に掛け、自らの主君たる王ベイレの傍を離れず、常にその教訓を示して目に焼きつかせ、忘れないようにさせよ」という指示に因む。本当に頭から吊るさせたのか、将た又た、故事を覚えて何時でも引用できるようにしておけという喩え話なのかはさて置き、ヌルハチはこの「掛文啓示者」を設けることで、それぞれの主君が正しい道から逸れないよう監視することを期待した。その具体的な役割については以下のように述べている。[2]
八貝勒ベイレ家の捕獲せる東珠、及び貂、猞猁以下、灰銀鼠、黄鼠以上の各色の皮張、鳥羽、食む所の果子等、凡て八家に進る物は、皆な獲主の姓名、獲物の数目を將て具文して送來し、爾なんぢ等、貝勒ベイレの爲に文を掛ける四人に由り之を收め、并せて其の優劣を視て價を核へ、八家に由り之を均分すべし。[4]
「八王の家がそれぞれに得た真珠や毛皮、果ては鳥や果物まで全ての財貨は、獲得主の姓名ならびに獲得した数量を文書にして、併せて送り届けさせ、主君たる王ベイレに諫言する立場の汝ら四人はその獲得物を受け取り、併せてその財貨の価値をみきわめて八等分し分配せよ」
つまり王ベイレが汗ハンに隠れて私服を肥やしたり、公事に私情を挟んだりするようなことをさせないように、汗ハンの耳目として監視させることがその主な狙いであった。[2]
貝勒ベイレ干涉することを得ず、爾等に由り辦理せらるるに任すべし。貝勒ベイレ若し此の諭に聽從せず、此文を觀ず、己の得る所を他人に於いて多からむと欲して獲る所の物を隱匿し、或ひは他人の短を好談する者の、而して己の非を談ずるを准ゆるさざる者は、即ち「我が貝勒ベイレは汗ハンの頒する所の書を閲せず、訓言を聽かず。我之を諫むれど從はず」等の詞を以て、先づ爾の同事の人に告げ、再た諸大臣に上告し、大臣の商議を經て後、則ち再た七王に告げ、然る後、汗ハンに上奏すべし。設けらるる文を掛ける人凡て、貝勒ベイレの過惡を知りて言はざる者、亦た烏勒琿孟古、阿希布の如く死を論ぜむ。[4]
「諸王ベイレは干渉せず、『掛文啓示者』が処理するに任せることとする。もし王ベイレがこの指示に遵わず、他より多く得ようとして獲得物を匿したり、或いは自分の粗探しはさせぬくせに他人の短所や缺点ばかり突こうとしたら、『汗ハンの仰つけで御座りますれば、と諫言し申しましたが、お聴き入れなさらず……。』とまづは他の三人の同僚に相談し、その上で諸大臣に告訴して判断を仰ぎ、更に他の七王ベイレに告訴し、最後に汗ハンに上奏せよ。自らの主君たる王ベイレの過失や悪行を知って敢えて諫言せざる者には死を賜う。」
ヌルハチの指示したこの面倒な工程は、やがて「掛文啓示者」という役職を有名無実化させた。しかしホンタイジはこのヌルハチの構想に着想を得て、啓心郎という官職の設置に至った。ホンタイジは諸王ベイレを監視させるための人間をそれぞれの目先に置きたいと考えたものの、露骨にいけば当然反感を買ってしまう。そこで、父が定めた制度を因襲するという名目で以て、反発を抑えることに成功した。[2]
天聡五年:六部
啓心郎が初めて設置された時期は定かでないものの、『清太宗文皇帝實錄』に拠れば、後金天聡5年 (明崇禎4年, 1631) 旧暦7月に清太宗ホンタイジが六部を創設した際、十四弟ドルゴンが吏部の管事 (取締) に任命され、ヘシェリ氏ソニンが同部啓心郎に任命されている[5]ことから、遅くともこの時期には一種の官職として確立していたとみられる。従って啓心郎の生みの親はホンタイジということになる。[6]
但し同実録に拠れば、六部 (吏・戸・礼・兵・刑・工) それぞれに着任した啓心郎はどれも満洲人であり、漢啓心郎 (漢人の啓心郎) の記載は工部にしかみられない。また同実録に拠れば、漢啓心郎が六部すべてに出揃うのは崇徳3年 (明崇禎11年, 1638) である[7]為、漢啓心郎の正式な設置について学界では長らく崇徳3年説が採られてきた。[8]
しかし『天聰五年八旗値月檔』が出版されるに及んで崇徳3年説は信憑性を失った。[8]「値月檔」(値は値宿とのゐ、檔は書きつけの意) は、八旗を二旗一組にわけて一箇月交替で宿直させ、その期間中に発生した事件などを日々記録させたもので、『清實錄』の参照元たる重要な基礎史料の一つとされる。[9]同史料には満洲啓心郎、漢啓心郎が二名ずつ記載されている[8]が、これは崇徳3年説を真向から否定するものである。
実録編纂時にあえて満洲を一名、漢軍を工部の二名のみとしたことは何かしらの理由があってのことと考えられるが、関聯史料の乏しさ故に詳かでない。[8]一説には後の功績や影響力などを反映した結果とされ、その根拠の一つとして特に二人の漢啓心郎が清朝の重用を受けたこと、すなわち羅繡錦が河南巡撫と四川総督を、馬鳴珮が倉場総督、宣大総督、江南江西総督をそれぞれ歴任したことが指摘されている。[8]
下の表は六部創設当初に管事 (取締) を務めた諸ベイレと満漢の啓心郎をまとめたものである。尚、『太宗文皇帝實錄』には現れず「値月檔」にのみみられる被選任者は丸括弧 ( ) で囲った。
| 管事 | 啓心郎 (満洲) | 啓心郎 (漢) | |||
|---|---|---|---|---|---|
| 吏部 | 多爾袞ドルゴン | 索尼ソニン | (囊吉圖) | (白應頻) | (吳景陶) |
| 戸部 | 德格類デゲレイ | 布丹ブダン | (巴都禮) | (晉珠) | (朱虎珠)[注 2] |
| 礼部 | 薩哈廉サハリヤン | 祁充格キチュンゲ | (敦拜) | (齊國如) | (吳延祖)[注 3] |
| 兵部 | 岳託ヨト | 穆成格ムチュンゲ[注 4] | (布楞) | (丁萬尚) | (趙福星) |
| 刑部 | 濟爾哈朗ジルガラン | 額爾格圖エルケトゥ | (伯頓) | (王廷暄) | (辛兆吉) |
| 工部 | 阿巴泰アバタイ | 苗碩渾ミオショホン | (査布海) | 羅繡錦[注 5] | 馬鳴佩 |
崇徳三年:八衙門
崇徳3年 (1638) 旧暦6月、ホンタイジは「蒙古衙門」を「理藩院」に改称した。[10]翌7月には八衙門 (六部・理藩院・都察院) の官制が更められ、『清實錄』の記載上、ようやく六部に満漢両方の啓心郎が出揃った (礼部の漢啓心郎のみは「二員」とだけ記載)。実録に拠ればこの時理藩院にも啓心郎が設置されたが、選任されたのは満洲の「敦多惠」ただ一人だけで、漢啓心郎については記載がない。[7]研究に拠れば理藩院の漢啓心郎はその後も設置されなかった。[2]
八衙門のうちの残り一つ都察院の啓心郎設置については、実録に記載されていないものの、研究に拠れば理藩院に数年おくれた崇徳7年 (1642) 旧暦10月頃とされる。[2][11]順治2年 (1645) 閏6月には六部の満洲啓心郎の位階が三品、都察院と理藩院の満洲啓心郎、および六部の漢啓心郎が四品と定められた。[12]尚、都察院に設置された啓心郎もやはり満洲啓心郎のみだが、研究に拠れば、こちらは更に遅れること順治4年 (1647) 旧暦10月に漢啓心郎が設置されている。[2][13]
下表は崇徳3年 (1638) に八衙門の官制が更改された時点での啓心郎の一覧。尚、この時までに六部創設時の啓心郎は満漢ともに何人かが交代している (太字)。[注 6]
| 承政 | 啓心郎 (満洲) | 啓心郎 (漢) | ||
|---|---|---|---|---|
| 吏部 | 阿拜 | 索尼ソニン | 董天機 | 焦安民 |
| 戸部 | 英俄爾岱イングルダイ | 布丹ブダン | 張尚 | 蘇弘祖 |
| 礼部 | 滿達爾漢 | 祁充格キチュンゲ | 二員 (孫應時?[注 8]) | |
| 兵部 | 伊孫[注 9] | 詹霸ジャムバ | 丁文盛 | 趙福星 |
| 刑部 | 郎球 | 額爾格圖エルケトゥ | 申朝紀 | 王廷選[注 10] |
| 工部 | 薩穆什喀 | 喀木圖[注 11] | 馬名珮 | 王來用 |
| 理藩院 | 博洛 | 敦多惠[注 12] | - | |
| 都察院 | 阿什達爾漢 | - | - | |
順治九年:宗人府
順治8年 (1651) にドルゴンから執政権を奪回した世祖順治帝は、翌9年 (1652) 旧暦4月に宗人府衙門を設置し、[14]6月には宗人府にも啓心郎を選任した。[15]
尚、『清史稿』巻114に拠れば、当初の啓心郎は理事官相当職であったらしいが、順治9年 (1652) 以降は侍郎 (次官級) 相当職とされた。[16]『满汉大辞典』ではその位階を侍郎以下、郎中以上とする。[17]
順治十五年:廃止
やがて各部各院の官僚制度が整備されて執政者が王やベイレでなくなると、啓心郎は必要とされなくなった。
向さき來より、各部院の事務は、王、貝勒ベイレ等が管理するよう設け有れば、因りて啓心郎を設けき。後止みて、尚書等の官を設けき。故に、啓心郎を將て盡ことごとく裁去す。
順治帝が後に上記の発言[18]をしていることから、当初の啓心郎の設置は王やベイレら宗室による執政に対するものであったという経緯が知れる。順治15年 (1658) には宗人府を除く全部院の啓心郎が満漢ともに廃止された。[19]そして15年ほど遅れた康熙12年 (1673) に宗人府の啓心郎も廃止されたことで、啓心郎は短い歴史に幕をとじた。[20]