懿徳天皇
日本の伝説上の天皇
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略歴
名
事績
系譜
后妃・皇子女
年譜
宮
陵・霊廟
(奈良県橿原市)
陵(みささぎ)の名は畝傍山南繊沙渓上陵(うねびやまのみなみのまなごのたにのえのみささぎ)。宮内庁により奈良県橿原市西池尻町にある俗称「マナゴ山」に治定されている(北緯34度29分20.04秒 東経135度46分54.43秒)[7][8][9]。宮内庁上の形式は山形。
陵について『日本書紀』では前述のように「畝傍山南繊沙渓上陵」、『古事記』では「畝火山の真名子谷の上」の所在とあるほか、『延喜式』諸陵寮では「畝傍山南繊沙渓上陵」として兆域は東西1町・南北1町、守戸5烟で遠陵としている[9]。しかし後世に所伝は失われ、幕末修陵に際して現陵に治定された[9]。なお、橿原市畝傍町のイトクの森古墳はその名から懿徳陵とされることもあったが、一説に皇后陵だともいわれる。
伝承
磯城縣主の任命
籠神社
丹後国一宮名神大社籠神社で毎年4月24日に執り行われる葵大祭は懿徳天皇4年(BC472年)に始まったと伝えられ、当初は「藤祭」と称していたとされる[11]。
野坂神社
越前国式内社野坂神社は懿徳天皇23年(BC488年)甲子3月8日伊豫国越智郡三嶋大明神の祠官である越宿禰成相翁と稲鶴姫が大神を勧請し奉った、との伝承が残されている[12]。
佐久神社
甲斐国八代郡式内社佐久神社の社伝によると、佐久神社主祭神彦火々出見命の後裔であり甲斐国の大開祖・向山土木毘古王は懿徳天皇4年8月14日(BC472年)薨去せられ大宮山古殿地に奉葬された。後に雄略天皇2年(458年)土仏築山(現在の天神山古墳)に改葬された。と伝わっている[13]。
考証
実在性
懿徳天皇を含む綏靖天皇(第2代) - 開化天皇(第9代)までの8代の天皇は、『日本書紀』『古事記』に事績記載が極めて少ないため「欠史八代」と称される。これらの天皇は、治世の長さが不自然であること、7世紀以後に一般的となるはずの父子間直系相続であること、宮・陵の所在地が前期古墳の分布と一致しないこと等から、創作性が強いとされる。
一方で宮号に関する原典の存在、年数の嵩上げに天皇代数の尊重が見られること、磯城県主や十市県主との関わりが系譜に見られること等から、全てを虚構とすることには否定する見解もある。
治世の長さが不自然であることは春から夏までの半年間と、秋から冬までの半年をそれぞれ1年と数えていたとする春秋二倍暦説で説明できるとする向きもある。「魏志倭人伝」に「其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀(その俗、正歳四節を知らず、ただ春耕し秋収穫するを計って年紀と為す)」とある事がこの説の主な根拠とされている。皇室の存在を神秘的に見せるために長命な天皇を創作するのであれば旧約聖書の創世記に出てくるアダムのような飛び抜けた長命(930歳まで生きたとされる)にしてもよいのに、二分の一、四分の一に割って不自然な寿命になる天皇は一人も存在しない事も倍増された事を伺わせる。 また、懿徳天皇までの3代は以降の4代と比べて在位年数が短いことも指摘される[14](詳細は「欠史八代」を参照)。
名称
和風諡号である「おおやまとひこ-すきとも」のうち、「おおやまとひこ」は後世に付加された美称、「すきとも」は「すきつみ」からの転訛で、その末尾の「み」は神名の末尾に付く「み」と同義と見て、懿徳天皇の原像は「すきつみ(耜友 / 鉏友)」という名の鋤の神であって、これが天皇へ作り変えられたと推測する説がある[2]。
