安寧天皇
日本の伝説上の天皇
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略歴
名
事績
系譜
后妃・皇子女
年譜
宮
陵・霊廟
(奈良県橿原市)
陵(みささぎ)の名は畝傍山西南御陰井上陵(うねびやまのひつじさるのみほどのいのえのみささぎ)。宮内庁により奈良県橿原市吉田町にある俗称「アネイ山」に治定されている(北緯34度29分24.80秒 東経135度46分38.01秒)[6][7][8]。宮内庁上の形式は山形。
陵について『日本書紀』では前述のように「畝傍山西南御陰井上陵」、『古事記』では「畝火山の美富登(みほと)」の所在とあるほか、『延喜式』諸陵寮では「畝傍山西南御陰井上陵」として兆域は東西3町・南北2町、守戸5烟で遠陵としている[8]。しかし後世に所伝は失われ、元禄修陵では所在を誤ったが、幕末修陵に際して現陵に治定された。陵号の由来となったとされる古井戸の「御陰井」が陵南の集落中にあり、陵と共に宮内庁によって管理されている[8]。
また皇居では、宮中三殿の1つの皇霊殿において他の歴代天皇・皇族と共に安寧天皇の霊が祀られている。
- 御陰井
- 安寧天皇神社
伝承
考証
実在性
安寧天皇を含む綏靖天皇(第2代) - 開化天皇(第9代)までの8代の天皇は、『日本書紀』『古事記』に事績の記載が極めて少ないため「欠史八代」と称される。これらの天皇は、治世の長さが不自然であること、7世紀以後に一般的となるはずの父子間の直系相続であること、宮・陵の所在地が前期古墳の分布と一致しないこと等から、創作性が強いとされる。
一方で宮号に関する原典の存在、年数の嵩上げに天皇代数の尊重が見られること、兄弟継承を父子継承に書き換えた可能性があること、磯城県主や十市県主=十市氏=中原氏との関わりが系譜に見られること等から、全てを虚構とすることには否定する見解もあり、安寧天皇と前後の3代は在位年数が短いことも指摘される[15](詳細は「欠史八代」を参照)。また治世の長さが不自然であることは春から夏までの半年間と、秋から冬までの半年をそれぞれ1年と数えていたとする春秋二倍暦説で説明できるとする向きもある。実際「魏志倭人伝」に「其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀(その俗、正歳四節を知らず、ただ春耕し秋収穫するを計って年紀と為す)」とあることをからこの説の信憑性を増している。また、皇室の存在を神秘的に見せるために長命な天皇を創作するのであれば旧約聖書の創世記に出てくるアダムのような飛び抜けた長命(930歳まで生きたとされる)にしてもよいのに、二分の一、四分の一に割って不自然な寿命になる天皇は一人も存在せず、このことも半年暦が使用されていたことを窺わせる。
名称
和風諡号である「しきつひこ-たまてみ」のうち、「しきつひこ」は後世に付加された美称、末尾の「み」は神名の末尾に付く「み」と同義と見て、安寧天皇の原像は「たまてみ(玉手看 / 玉手見)」という名の古い神であって、これが天皇に作り変えられたと推測する説がある[2]。
