大江音人
平安時代初期から前期の公卿・学者。大枝本主の嫡男。従三位・参議。左衛門督、検非違使別当。子に大江宗淵、大江染淵、大江千秋、大江春潭、深鑑、深淵、大江千枝、公朝
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経歴
紀伝道について菅原清公に師事、天長10年(833年)文章生、承和4年(837年)文章得業生に補せられる。『六国史』に記述はないが承和9年(842年)に発生した承和の変に連座して一時尾張国に配流されたことが『公卿補任』に見られる。後に音人の子孫である大江匡衡が尾張守を務めた際に、先祖の音人がこの地に流されていたことを記していることから[1]、配流の件は事実であったとみられている。承和11年(844年)赦されて帰洛後、承和12年(845年)対策に及第、少内記を経て、承和15年(848年)従五位下に叙爵され、大内記に昇進する。
嘉祥3年(850年)皇太子・惟仁親王の東宮学士に転任。文徳朝では東宮学士を務める傍ら、民部少輔・大内記・左少弁を兼ね、仁寿4年(854年)には従五位上に昇叙されている。
天安2年(858年)惟仁親王の即位(清和天皇)に伴い正五位下に叙せられ、まもなく右中弁に任ぜられる。清和朝では弁官を務めながら順調に昇進し、貞観2年(860年)従四位下、貞観5年(863年)右大弁と叙任。貞観6年(864年)には参議に任ぜられ公卿に列した。貞観8年(866年)従四位上・正四位下と続けて昇叙される。また同年に発生した応天門の変においては、応天門放火の嫌疑により左大臣・源信の邸宅を囲んだ遣使に対して、清和天皇の勅令を受けて右大弁として左中弁・藤原家宗とともに慰諭を行い、源信の嫌疑を晴らしている[2]
同年10月に大枝から大江へと改姓しているが、枝(分家)が大きいと、本体である木の幹(本家)が折れる(下克上)事にも繋がり不吉である、との理由であった。しかし大枝姓は桓武天皇より与えられたものであることから、全面的に変更するわけにもいかず、読み方はそのままで漢字表記のみの変更に留めた。また、大きな川(江)の様に末永く家が栄えるように、との意味があるという[3]。
のちに、議政官(参議)として左大弁・勘解由長官・左兵衛督・検非違使別当などを兼ねた。またこの間の貞観16年(874年)には従三位に昇叙されている。また、清和天皇に対して『史記』の進講も行っている。
出自
人物
官歴
※日付=旧暦
- 天長10年(833年) 日付不詳:文章生
- 承和4年(837年) 日付不詳:文章得業生
- 承和5年(838年) 日付不詳:備中目
- 承和9年(842年) 日付不詳:流罪尾張国(承和の変連座)[9]
- 承和13年(846年) 1月13日:少内記
- 承和15年(848年) 1月7日:従五位下。2月24日:大内記
- 嘉祥3年(850年) 11月25日:東宮学士
- 仁寿2年(852年) 11月1日:兼民部少輔
- 仁寿3年(853年) 7月1日:兼大内記、民部少輔・東宮学士如元
- 仁寿4年(854年) 1月7日:従五位上
- 斉衡3年(856年) 1月11日:兼左少弁修理東大寺大仏像長官、東宮学士如元
- 天安2年(858年) 3月18日:兼丹波守、去左少弁。11月7日:正五位下。11月25日:兼式部少輔、去丹波守。12月8日:兼右中弁
- 貞観元年(859年) 12月:権左中弁、式部少輔如元
- 貞観2年(860年) 11月16日:従四位下
- 貞観3年(861年) 1月13日:左中弁、式部少輔如元
- 貞観5年(863年) 2月10日:右大弁
- 貞観6年(864年) 1月16日[10]:参議、右大弁如元
- 貞観7年(865年) 3月9日:兼播磨権守
- 貞観8年(866年) 1月7日:従四位上。3月23日:正四位下。10月15日:大枝姓から大江姓に改姓
- 貞観9年(867年) 1月12日:兼左大弁
- 貞観10年(868年) 5月26日:兼勘解由長官。9月:兼美濃守
- 貞観12年(870年) 日付不詳:去美濃守
- 貞観14年(872年) 2月15日:兼近江権守
- 貞観16年(874年) 1月7日:従三位。2月29日:兼左衛門督、去左大弁。3月7日:兼検非違使別当
- 貞観17年(875年) 日付不詳:去近江権守
- 元慶元年(877年) 11月3日:薨去(参議従三位行左衛門督)